演劇集団三色旗 十回突破記念 特別公演

魔女と少女と黒猫の家
-a house of a witch, a girl and a cat-

[未来永劫][霧越藍×椎葉朱里×奈良原白夜]


第四部



 照れくさいと思ったのは一瞬だった。
 結界が踏み荒らされている。
 それも、ひとつやふたつじゃない。
 急激に体温が下がった。心臓の音が落ち着いていく。
 何か不自然で異常で、場合によっては危険が及ぶような状況になったとき、私の身体は自然に冷徹になる。
 やはり来たのか、と思う反面、もう来たのか、と、少しだけ思ってしまった。
 そして、すぐに自嘲し、後悔する。
 だから嫌だった。
 魔女は人が嫌いではなかったが、接したいと思ったことはなかった。
 それは、自分が魔女であるからという理由もあったし、それを原因として結局は対立しなければならないことがあるからという理由でもあった。
 人間にほんの少しでも心を許せば、やがてこうなる。
 そんなこと、判っていたはずなのに。
 何百年経っても、まともな魔法使いになれないことに、魔女は呆れを飛び越えて失望すらした。
 またこうなるのか。
 また自分は、人に追われ人を殺さねばならないのか。と。
「お、お姉さん?」
 魔女の纏う空気が一変したことに気付いたのか、少女が不安げに声をかけた。
 少女の胸の中にいる黒猫は、こちらは異常そのものに気付いたようで、少女に判らない程度に毛を逆立てている。
「‥‥人間だ」
「え?」
「ここに向かっている。数人じゃきかない。村人を総動員しているのかもしれない」
「えっ‥‥?」
 結界が外的排除の活動をしていない。
 人間ならば反応するはずだが、それでも反応しないならば、それがどういうことなのか。
 魔女の抱く結論はひとつしかない。
 人間どもは、彼ら自身もまた、魔法使いを雇って結界を踏み荒らさせた。
 正式な魔法使いか、あるいは放浪者か。
 どちらにせよ、気分のよいものではなかった。自分の土地に、他の魔法使いによって侵入されるというのは。
 これは、動物の縄張り本能に近い。意識せずとも、自然と身体と精神が外的排除の意志を抱いている。
「どういうこと? ‥‥なんで?」
 魔女は黙って少女を見つめた。
 原因があるとしたら、少女に他ならない。
 少女の家の者たちが少女を大事にしているとは、間違っても思わないが、それでも森に入って消えてしまったのなら、森を捜索し場合によっては焼き払い、また魔女を滅ぼす口実にはなる。
 彼らとしては、魔女がいたらいたで殺せば済むし、いなければ、それはそれで森が安全だという証拠になる。
 どちらに転んでも連中の損にはならなかった。
 そして今、結界の存在が発覚した以上、魔女がここにいることは自明となっている。
 となれば、ここに姿を現すのはもはや時間の問題だ。
 いっそのこと、最初から火を放ってくれたほうがマシだった。火を遠ざける魔法くらい、いくらでも使えるのだ。
「‥‥きみはここにいろ」
「えっ?」
 さっきから少女は驚いてばかりだ。
 それに苦笑して、だがそれ以上声をかけることをせずに、魔女は三角帽子を手に取った。
「いいか、決して外に出るな」
 まるで監禁しているみたいだな、と苦笑して、それが杞憂では済まないだろうことも想像した。
 魔女を魔女として断罪するならば、あの少女は私が人間たちに向ける人質として扱われるだろう。
 そして、少女を救い出した人間たちは、意気揚々と魔女を断罪するだろう。
 火あぶりにするか、串刺しにするか、生き埋めにするか。
 なんにせよ、まともな死に方はできない。魔女だって、人間と同じように殺せば死ぬのだ。
 長生きしているのは結果的に人間の魂を糧にしているからだが、魔女は化け物ではない。槍で刺されただけで死ねるだろう。
「‥‥なんてことは信じないだろうな」
 魔女は凶暴で凶悪だから、人知を超えた方法を用いなければ殺せない。
 そんなことを、本気で考えているに違いない。
「――どっちが化け物だか」
 小屋を出て、扉の前に立った。
 杖は持っていない。すぐ近くの草むらの中に隠している。
 相手に魔法使いがいる以上、私に魔法を使わせようとはしないだろう。
 それに魔女は、連中が自分を殺して気が済むのであれば、そうさせようと思っていた。
 少女に気を許した自分への責任でもあるし、魔女が死んだ後でならば、少女も無事に救出されるだろうと思ったからだ。
 何よりも、魔女として生きてきた以上、こうした日がいつかくることはとっくに覚悟していた。
 だから、惜しむらくは、もう少しだけ生きていたかったと思ってしまうこの感情が、邪魔だった。
「いたぞっ!」
 森中に響き渡りそうな大きな声。
 視線を動かすと、木の影に人が隠れていた。あれでばれないと思っているなら滑稽だ。
 いっそのこと全員を片っ端から殺してやってもよかったが、そうして少女が喜ぶとは思えなかった。
「――は、すっかり影響されている」
 命を賭して少女を守る。
 ばからしいと思った。思ったが、そのばからしさこそが、愛すべきものだと気付いている。
 やがて、総勢で50人近くの人間たちが、魔女を取り囲んだ。

 奥から、大仰な格好をした人間がひとり、現れた。
 男か女かもはっきりしない、全身を灰色のローブで纏った魔法使いの姿。
 顔もフードで覆われ、口元すら陰になって見えない。
「お前が魔女か」
 声は男のようだったが、声帯模写の魔法もある。結論として、そんなことはどうでもいいと魔女は思った。
「この森の外に住む人々に長年の間恐怖と危害を加えたお前を、ここで殺す」
「恐怖はどうだか知らんが、危害を加えた覚えはないぞ?」
「数十年かに一度、村人がいなくなることがあるという。それを危害と呼ばず、何と呼ぶ?」
「それを危害と呼ぶのだとして、私がそれをした証拠があるのか?」
 魔法使いの、気味の悪い声に返答する魔女。
 周囲の村人たちが、野次を飛ばし魔女を侮蔑していた。
「ふざけるな、魔女!」
「貴様のせいで俺たちは森に入れなかったんだ!」
「そうだ、死ね、魔女!」
 魔女は肩をすくめる。集団真理とは恐ろしいものだ。何を言っても無駄だろう。
「魔女、お前を殺す」
「あんたにできるのか?」
「笑止」
 魔法使いは右手をまっすぐ魔女に向けて、詠唱を始めた。
 魔女は微動だにしない。逃げようとするどころか、応戦する気配もない。
 そして、魔法使いの手から魔法が放たれた。
 それを直撃。魔女は、平然としたままそこに立っていた。
「‥‥?」
 おかしいな、と首を傾げる魔法使い。
 当然だ。魔法使いにとって、この魔術の実力は、あの結界で底が知れていた。
 あの程度の結界しか晴れぬ魔法使いが、自分より優れているはずがない。
 そう、決めてかかったのだ。
 魔女を圧倒できるはずもなかった。
 魔女は、魔法使いに倣うようにして、手を持ち上げた。
 だが片手ではない。両手だ。
 いぶかしむ魔法使いへ、魔女は嘲笑を浮かべながら、言った。
「わたしを気絶させてから掛けるつもりだったんだろうが、面倒だ、魔法封じの錠があるならここでしろ」
 魔法封じの錠は、両手の手首につけるもので、それをかけられると魔力を生成することができなくなる。
 もっとも、それはあくまで応急処置のような外的処理であるから、実際に魔法使いを用無しにするには、魔力生成に影響を与える毒物を飲ませる必要がある。
 だが、それには時間も金もかかる。だから魔女は、この魔法使いが魔法を封じるために、錠を用意しているだろうと推理した。
 そして、それは当たっている。魔法使いは怯えるように後ずさったが、大金で雇われた名目もあったようで、恐る恐る魔女に近づき、錠をかけた。
「これで安心か?」
 この程度の錠、魔力を強く流せば簡単に破壊できるが、そうするつもりはなかった。
 ここで死んでいいと思っていた魔女が、そうしてでも逃げ出すなどということを考えるはずもない。
「さあ、殺せ。何を持ってくる? 火か、水か、それとも鉄か? 何でも構わないぞ、わたしも形は人間だ。お前らが死ぬのと同じ方法でわたしも死ねる」
「信じられるか」
 魔法使いが吐き捨てた。
 だろうな、と思うが、それは事実だ。弁解しようもない。魔女はそれ以上何も言わず、黙って嘆息した。
「連れ帰って村の真ん中で殺す。それまでは大人しくしていろ」
「てことは、それからは暴れていいのか?」
「できるものならな」
 魔法使いが笑った。錠の力を過信しているらしい。
 あるいは、あの魔法使いにとっては、この錠は完全な制約力を持っているということか。
 こんな錠に負けるような魔法使いの魔法、魔女に効果がないのも当然だ。
「では連れ帰る」
「待ってください、魔法使い様」
 魔法使い様。随分語呂が悪いな、と思って成り行きを見ていると、奥からふくよかな中年の女が現れた。
「この魔女は、あたしの大事な娘を奪ったんです!」
「そうであったな」
 魔法使いが頷く。
 が、そんなことよりも、魔女はその中年女性に釘付けになった。
 こんな女に見覚えはない。それに、女は娘と言った。であれば、それが何を指すのか。つまりどういうことなのか。
「あの子は確かに血が繋がっていませんでしたですけど、あたしにとっては大事な大事な娘の一人なんです!」
「はっ」
 あの女にとって、大事な娘とは、大事すぎて身体中に大怪我を負わせてしまう少女であるらしい。
 茶番も茶番、大それた喜劇を見ているようで、思わず笑い飛ばした魔女の声を、女は聞き逃さなかった。
「ほら、あの魔女、絶対に心当たりがあります! 自分が殺して食ったと、あの目が言っています!」
「散々な言われようだな」
 呟く。今度は誰にも聞こえなかったらしい。
「ふむ。では先に、あの小屋の中を探索しますか」
「はい、お願いします!」
 魔法使いは、ぽかんとして女を見つめた。何を言ってるんだこいつは、とでも言いたげだ。
 少しだけ魔法使いに同情する。
 娘が大事なら、危険を厭わず探しに行くのが普通だろうに。
 どんな罠が仕掛けられているか判らない魔女の小屋へ入るのは、魔法使いの仕事だ、と、その顔が語っている。
 魔法使いは、中年女の視線に負け、そろそろと小屋の入り口に近づいてくる。
 入り口の扉は、魔女の背中だ。自然と、魔女のすぐ脇を通らねばならない。
 罠なんか何もないと言ってやりたかったが、そんなことをしても無駄だろうし、逆効果かもしれない。
 ともあれ、これで無事に少女が助けられるなら魔女としてもやることは全て完了させたことになる。気分は晴れ晴れとしていた。

 魔法使いが小屋に入っていく。
 小屋の中から、何やら会話が聞こえてくる。
 少女にしたら、突然見知らぬ男(見えないのだから当然だが)が入ってきて自分を連れ出そうとするのだ、驚くに決まっている。
 それでも、ほとんど無理やり引っ張られるようにして、少女が姿を見せた。
 見ると猫――アカリの姿はない。薄情な黒猫だ。
 少女が無事に出てきたことに、村人たちがざわつき始める。
 その中を、魔法使いに手を引かれて登場した少女が魔女のそばを通るとき、魔女はぼそりと言った。
「よかったな。恐ろしい魔女の手から解放されたぞ」
「え――お姉さん?」
「藍!」
 中年女の声が響く。
 魔女に振り向こうとした少女を無理やり引き止めるかのように、女が叫んだ。
「藍! 無事だったのね、心配したのよ‥‥!」
「え? ‥‥お、奥さま‥‥?」
「そうよ、そう、よかった、安心したわ。何もされていない? 怪我はない?」
 怪我はあるよ、お前がつけた怪我が。
 あまりに白々しすぎる中年女の言葉に、魔女は笑いすら通り越して苛つきを覚えた。
 中年女が、少女の二の腕を取る。
 そこは、怪我の結果骨折していた場所だ。
「いたっ!」
「まあ、藍、怪我しているの? どうしたの、ここ? まさか骨折しているの!? この魔女にやられたのね!」
 おいおいおばさんそれ以上口を開くなよ、少女が呆然としているじゃないか。
 魔女はそう思ったが、村人たちは一斉に魔女を揶揄し始めた。
 中年女に煽られた結果だ。彼らを哀れみこそすれ、蔑むことはできない。
「奥さま、痛いです、放して‥‥」
「だめよ、こんな魔女の近くにいたらまたなにされるか。とにかくこっちに来なさい」
「お姉さんは何もしないっ!」
 少女は、言うと同時に思いっきり手を振り、中年女を引き剥がした。
 村人たちが静まり返る。
 なんだか、あまりよろしくない展開になってきたな、と魔女は思った。
 少女がゆっくり、探るようにして近づいてくる。
 そして、魔女の服に触れた。
「やめておけ」
 他の誰にも聞こえないくらい小さい声で、魔女は言った。
「お姉さん! 平気? 大丈夫? 怪我してない?」
 中年女が彼女にかけた言葉とほとんど同じというところが皮肉だった。
「平気だ。それより、わたしに近づくな」
「え‥‥どうして」
「どうもこうもない。きみは助かったんだ。悪い魔女に囚われていたところを、村人に助けてもらったんだよ」
「囚われて‥‥なんてないよ、私。だって私、ここに来たくて来たんだよ?」
「誰もそうは思わない。きみはみんなと帰れ。これ以上わたしに関わると、きみも断罪されかねない」
「断罪って‥‥?」
 しまった、と思ったが、もう遅かった。
 魔女は、少女の優しさを知っている。
 魔女がこれから殺されることを知れば、少女がどう思い、何をするのか、想像できなかった。それが恐ろしかった。
「藍? なにしてるの、こっちへいらっしゃい‥‥」
「ほら、行け。いじめられるのが嫌なら家出して旅でもしろ。この辺りの草むらにわたしの杖が置いてある、それを使えば――」
「いや!」
 少女が、魔女を抱きしめた。
 村人たちが息を呑む。
 もう、こうなれば、言い逃れはできないかもしれない。
 彼女のことを、こうも聞き分けの悪い少女だとは思わなかった。魔女は怒りさえ覚えた。
「私はお姉さんが好きなの! 魔女でもいいの、大好きなの! だから、私は行かない、戻らない! お姉さんを殺すなんて、私が許さないっ!」
 激昂した。
 明るくて朗らかだったが、このようにして少女が感情を爆発させるのを見たのは初めてだった。
 それに、村人、中年女、魔法使い、そして魔女までもが言葉を失った。
「お願い、お姉さん、私を捨てないで。一緒にいさせて。大好きなの、大好きなのっ‥‥!」
 背骨が折られるかと思うくらいに、強く抱きしめられた。
 この華奢な少女に、ここまで強い力があったことに、初めて気付かされた。
 そして、それと同時に、愛しさが湧き上がってくる。
「――そうか」
 魔女は気付いた。
 なぜ自分が少女に惹かれていると思ったのか。
 それは純粋に、少女が自分を好いていてくれたから。
 だからこんなにも気になって、こんなにも惹かれていた。
 少女が見せてくれる明るさと優しさと、人間らしい全ての感情に、魔女は惹かれたのだ。
「よりによって、こんなときに気付くなんてな」
 アカリに申し訳なくなってしまう。
 あの子のときも、そうだった。
 不治の病にかかり、村を逃げ出して絶望していた少女と出会ったのは、もうこの話が伝説になるくらい、過去の出来事。
 そのとき少女は、魔女の研究の内容を知って、それに協力したいと言い出した。
 少女の病気は、身体の問題でしかない。魂だけを抜いて別の器に移すことができれば、少女はまだまだ生きることができた。
 少女はそう言ったし、魔女もそう思った。
 成功する確率は決して高くなかった。そして、少女が気に入っていた幼い黒猫を器にして、魂の定着を行った。
 うまくいった、と思った。だが、何かが足りなかった。
 黒猫は最初こそ知性や言語能力を持っていたが、時が経つにつれその力は失われていった。
 まるで、魂が気化して逃げていってしまうように、黒猫から少女の魂は消えていった。
 それ以来魔女は、その猫を生かし続けている。
 猫の本来の寿命など、軽く越えている。それどころか、猫の肉体の成長は最も活発に動くことができる年齢で停止している。
 いつか、魂の生成と蘇生が可能になったとき、あの少女を蘇らせるためだ。
 だが。
 なぜそうしようと思ったのか、なぜそうして欲しいと少女が願ったのか。
 その理由が、判らなかった。
 失敗したのは、それが原因だったのかもしれない。
 手順が間違っていなくとも、能力が足りていたとしても、思いが足りなければ成功はしない。そういうことだったのかもしれない。
 魔術は学術だが、魔法は奇跡だ。
 奇跡を起こすには、思いが必要だ。
 そんなことに気付きもしなかった。
 そして、あの少女の思いにも、気付きもしなかった。
「‥‥なんてことだ。こんな間際に理解できるなんて」
 しかし、そういうものかもしれない。
 最も大切なものを悟るのは、全てが終わる直前。
 それでいいのかもしれない。
「あなた!」
 その、中年女の声で、意識が現実に戻ってきた。
「矢で藍を撃って!」
 中年女が言う。その言葉に、誰もが耳を疑った。
「な、なにを言ってるんだ! 俺たちは藍を助けに来たはずだろ!?」
「そうだったわ、でももう遅い! 藍は魔女に誑かされている! 魔法でも使われて、魔女の手下になったに違いないわ! そうでなきゃ、あんなこと言うはずがない!」
 村人たちが騒ぎ始める。
「違います奥さま! 私は自分の意志で!」
「ほら、そうして自分の意志を尊重するところが、操られているのに気付かないところが、魔女の狡猾な作戦なのよ!!」
「違いますっ!」
「黙りなさい魔女!」
 あ、なるほど。
 魔女は理解した。
 この軍団を指揮して、あの魔法使いを雇ったのは、きっとあの中年女だ。
 目的は魔女を始末することだろうが、もし生きていたとしても、少女も一緒に殺してしまうつもりだったのだろう。
 例え少女が本当に監禁されていたのだとしても、「魔女と一緒にいて無事だったほうが不気味だ」とでも言って、魔女と一緒に殺してしまうこともできる。
 だが現在の状況は、それより遥かに楽だろう。実際に、少女は魔女を庇っている。
「きみは逃げたほうがいい」
「今更遅いですよ」
 魔女が言うと、少女が笑った。確かにその通りかもしれない。だが魔女は、少女が死ぬ未来だけは回避したかった。
 もしも彼女を本気で殺そうとするのなら、魔女は錠を破り、この場にいる全員を殺戮する覚悟をした。
 残念なのは少女に嫌われるだろうということだけだったが、むしろ全部がなくなれば、少女もすっきりするかもしれない。
「‥‥お姉さん?」
「ん?」
「間違っても、みんなを殺して自分も死のうだなんて思わないでくださいね」
「‥‥‥‥」
 勘がいいのも考え物だ、と思う。
 少女は、朝顔が咲くような穏やかで美しい笑顔を浮かべて、魔女を見上げる。
「お姉さんが死んじゃったら、意味がないですもん。それに、できることならお姉さんには、誰も殺して欲しくない」
「ばか‥‥」
「私がいなければ、お姉さんは魔法使って逃げることもできるでしょ? だから、私が死んだら――」
「黙れ」
 魔女が呟いた。強制力を持つ魔法のような言葉。少女が、口をつぐんだ。
「家族なんだろ」
「え‥‥?」
「わたしたちは家族だと、きみは言ったろう。家族は一緒にいるものだ。別れたり離れたりしてはいけないものだ」
 魔女は少女の肩を抱いて、ゆっくりと引き剥がした。
 未練がないといえば嘘になるが、だが後悔は微塵もなかった。
 ここで死んだとしても、少女と共にいられるならそれもいいかもしれない、などと、魔女にあるまじき理想を抱いた。
 二人並んで、村人たちと対峙した。
「そうそう、藍、最後にひとつ聞いておきたいんだけど」
 中年女が言う。隣に立つ男が、ゆっくりと矢を手に取った。
「あんた、両親が死んだときのこと、覚えてる?」


* * *


「え?」
「あれは3年前だったかしら? いきなり家に強盗がやってきて、父親を殺されて、あんたを庇おうとした母親も殺されて、気絶したあんたに目潰しの薬を塗った犯人――覚えている?」
「覚えて‥‥ない、です」
「そう」
 奥さまが満足そうな声をあげた。
「なら、いいわ」
 その表情をイメージしようとして。
 ふと、理解できた。
 証拠があるわけじゃないし、根拠のひとつもありはしない。
 それでも、それが真実だと、確信できるものが心に生まれた。
 つまり。
 私の家族と私自身を酷い目に合わせた犯人が、誰かということが、判った。
「あんたも魔女になりたくてなったわけじゃないかもしれないし、ひとつ約束してあげるわ。その犯人、見つけてあげるわよ。あたしにとっても、兄貴を殺されたんだしね。黙っているのも嫌だもの」
「そうですか‥‥ありがとうございます」
 私は言った。できるだけ穏やかな声で。
 嫌味に聞こえたかもしれないけど、それはそれで全然構わなかった。そのつもりで言ったんだし。
 それに――たぶん奥さまには、永遠に無理だ。
 鏡でも見ない限り、自分で自分を見るなんていうのは、無理なんだから。
「じゃあ藍。あの世でご両親によろしくね」
「――はい。誰が犯人だったか、きちんと聞いてきます」
 こんな言葉で皮肉になるかどうか判らないけれど、奥さまの顔が少しでも歪めばいい、そう思った。
「殺しなさい」
 中年女が言った。
 覚悟した瞬間、右手がきゅ、と握られた。
 冷たい手。お姉さんの手だ。
 お姉さんは、なぜか両手で私の右手を握っている。
 お互いに、何も言わなかった。
 魔女として殺されるなんて、考えたこともなかったけれど。
 お姉さんと同じなら、ちょっと嬉しいかもしれない。場違いにも、そんなことを考えてしまった。
 と、そのとき。
 にわかに村人たちが騒ぎ出した。
「なに!?」
 奥さまがヒステリックに叫ぶ。
「いや、なんでもない、ただの猫だ」
 どうやら、がさがさと草木が揺れる音を聞いて、大きな獣かと思って怯えていたらしい。
 それが猫だったのでほっとしたということだろうけれど‥‥。
「猫?」
 お姉さんが呟く。私もはっとした。
「アカリ‥‥? アカリ?」
 にゃあ。
 すぐ近くで、アカリの声がした。
「お前、それ‥‥?」
 お姉さんが言った。たぶんアカリに対してだ。
 なんだろう。どうしたんだろう。私が首を傾げていると。
「あなた! あの気味の悪い猫も殺しなさい!」
「え? なんでいきなり」
「見なさい、魔女の近くにいるでしょ! あれは魔女の手下よ、魔女の使い魔よ! あんな汚い猫、見たことないわ! そうでしょ、魔法使い様!」
「え? あ、ああ、確かに野生ではないし、魔力の残滓を感じるが‥‥」
「ほら、あれも魔女なのよ! 殺さないと呪われるわよ!」
 殺す? アカリを? 奥さまは何を言っているのだ?
「逃げろアカリ」
 お姉さんが言った。呟くように、でも切羽詰った声で。
「そう、アカリ、逃げて」
 私も言った。でも、足元に擦り寄る感触。
 この子、全然警戒してない。動物って、人よりも警戒する本能が強いって聞いていたのに。
「‥‥お前、その袋を取りに行ってたのか」
 袋。と、お姉さんが言った。私には見えない、いったい何の話をしているのだろう。
「きみは見覚えないか? 掌に乗るくらいの、小さな‥‥布の袋」
「――!」
 それは。
 それはもともと、私がこの森に入るきっかけになった、あの袋。
 チカラが持ち去り、そのまま消えてしまって、失くしたとばかり思っていた、あのお守りだ――!
「それ‥‥私の、お守り‥‥」
「‥‥そうか。きみのか。失くしたんだな」
 頷く。声にならなかった。
 アカリはつまり、私の持ち物だった、私の失くし物だった、私の探し物だったお守りを見つけて、持ってきてくれたんだ。
 抱き上げて、ぎゅっとしてあげたかった。
 ぼろぼろとこぼれる涙を、アカリなら舐め取ってくれるかもしれない。
 ありがとうと、感謝の言葉を、伝えなければ。
 私が足元に手を伸ばすのと、
 アカリが悲鳴を上げるのは、
 ほぼ同時だった。


* * *


 その矢は、少女に擦り寄っていたアカリの胴を、少女を傷つけることなく、まっすぐに射抜いた。
 アカリは断末魔の叫び声を上げ、そのまま動かなくなった。
 死んではいないかもしれない。魔女ならば治療するくらいはできる。もともとこの猫は魔法によって生かされているのだし、事実、肉体を維持するためにかなりつぎはぎが目立つ。
 アカリが黒いのは、毛が黒いからではない。外的に様々な手術を施し、結果として何色とも表現できないから、「全ての色が混ざった色」として便宜上、黒猫と呼んでいるだけだ。
 中年女が「気味の悪い」猫、と称する理由は理解できる。
 だから、少女が一番最初にアカリを「可愛い」と表現したときに、視覚に異常があることに魔女は気付いていた。
 その後の診察で、それが事故や先天的なものではなく人為的なものであることを知り、先ほどの会話で、恐らくはあの中年女が、指示だけなのか実行したのかはともかく、犯人であることも判った。
 今更そんなこと、とは思ったが、疑問を残したまま死ぬのはやはり、あまり楽しいことではなかった。
 それに。
 目の前で、長い間連れ添っていた黒猫が倒れているのを見て、現実逃避をしたくなったのかもしれない。
 ばちり、と、錠が音を立てた。
 気付かぬうちに魔力を放っていたらしい。あとほんの少しで、錠が割れるだろう。
「あれ? アカリ?」
 ふと我に返る。
 少女が、足元にしゃがみこんで、手を出していた。
 いつもは、そうすればアカリが寄ってくる。アカリは本当に主人思いでない猫だ。魔女より少女になついているのは明らかだった。
「アカリ? アカリ‥‥?」
 ふらふらと手を辺りに彷徨わせる。やがて、倒れたアカリに手が触れた。
「アカリ、どうして寝てるの? アカリってば」
 いつものように身体を撫でようとして、少女の手に、矢がぶつかった。
 アカリを穿っている一筋の矢。それが何か、少女はしばらく気付かなかったが、突然立ち上がった。
「アカリを‥‥アカリを撃ったな!」
 咆哮だった。慟哭だった。絶叫だった。
 森中の木々をびりびりと揺るがし、その場にいた人々全てを竦みあがらせるほどの怒りをもってして、少女は力いっぱい叫んだ。
「お前らが! お前らが! お前らが! 人間どもが! 自分の小さな世界のただそれだけの平和のために、自分の世界の外側にいる全てを喰らい尽くして殺し尽くす! お前らが! お前ら人間がっ!!」
 それは、長い間積もっていた怒りの破綻だったのか。
 それとも、何か彼女に彼女以外のものが乗り移っただけなのか。
 どちらにしても、少女は今や、誰にとっても、自分の知っている彼女ではなくなっていた。
「魔女!? 何が魔女だ! 何が化け物だ! 化け物はお前らだ! 自分のために簡単に他人を蔑み、貶め、滅ぼす! それを罪と言わずに何が罪か! 私が魔女ならお前らは化け物だ! 人間という史上最悪最低最凶の悪魔そのものだ! 私を魔女として殺すならいいだろう殺せ今すぐ殺せ! だが私は永遠不滅に永久不変に、貴様ら人間の全てを呪い続けてやる! 異端を退け異形を捌く貴様ら化け物の群れが、この世界にどれだけ光と正義を求めようと、魔女たる私が、金輪際貴様らを地獄の奥底へ貶めてやるっ!」
 それは誰からの咆哮だったか。
 それは何処からの慟哭だったか。
 それは何ゆえの絶叫だったか。
 ただ魔女は、少女の痛みと悲しみだけが、心の奥に響き続けていた。
「や、やっぱり魔女だったのよ! あいつは魔女よ! 早く撃ちなさい!」
 矢が走る。
「呪いに怯え、呪いに竦み、呪いに懺悔しろ! 貴様ら人間が、この世の罪悪であることを思い知らせてや」
 矢は、まっすぐに少女の胸に突き刺さった。
「‥‥!」
 錠など、紙切れで出来た紐のように簡単に千切れた。
 魔女は倒れこむ少女を抱きとめた。
「あ‥‥おねえ、さん‥‥」
「きみがそんなこと‥‥きみがそんなこと、言わなくてもいいのに――人間からの恨みを全部背負う必要なんて、ないんだ」
「ふふ、やっぱり、巧くいかないですね‥‥」
 息も絶え絶えにそんなことを呟く少女を、魔女はゆったりと抱いた。
 少女は、殺すなといっていた。
 食べるためでも動物は殺してはいけない。人間も、出来るだけ殺さないでくれと。
 そうして少女は叫んだ。あらん限りの力を使って、世界全てから恨みを吸収するように、強く大きく叫んだ。
「ねえ、おねえさん‥‥?」
「なんだ‥‥」
「それでも‥‥それでも人間は、よい生き物だと思いますか?」
「‥‥‥‥思うよ。思う」
「よかった」
 お姉さんがそう言ってくれるなら安心だと、少女は掠れるような声で言った。
 少女は、自分の境遇や、あるいは人間から迫害される私の境遇を知り、理解し、その上で、人間はよいものだと思ったのだろう。
 人はそれでも、素晴らしいものだと思ったのだろう。
「お姉さん」
「うん?」
「実は私、ひとつだけ心残りがあるんですよ」
「え――?」
「一度でいいから、お姉さんの顔、みてみたかったな」
 唐突に。
 少女は息絶えた。
「‥‥‥‥」
 少女を寝かし、ゆっくりと立ち上がる。
 魔女がするべきことは、ひとつしかない。
 そしてそのひとつは、目の前にいる人間たちを滅ぼすことではない。
 魔女は、一気に魔力を解放した。
 何物にも彩られていないただの魔力の渦が、村人たちを圧倒する。
「な――!」
「今すぐここから立ち去れ。そして村に戻り二度とここに近づくな。でなければわたしは、一人残らず殺してやる」
「ふざけないで! あんたを殺さないと意味がないのよ! あなた、撃って!」
「ば、ばか言うな、あんなのにどうやって‥‥」
「この腰抜け! いいわ、あたしがやる!」
 中年女が、男から弓矢を引ったくり、引きちぎってしまうのではないかと思うくらい強く弦を引き、放った。
 そんなものが当たるはずもない。
 魔女は、ゆっくりと歩き出した。中年女に向かって、まっすぐに進む。
「な、な‥‥ま、魔法使い様!」
 女が振り向いたとき、魔法使いは消えていた。
 敵わないと思って早速逃げ出したらしい。
 それに気付いた村人たちも、怯え竦みながら、散り散りに逃げ出していく。
 女だけが、がたがた震えながらも、気丈に弓を張っていた。
「言ったろ? 全員まとめて地獄の奥底に突き落としてやるって。それをお望みか、奥さま?」
「こ、このっ!」
 女は弓を引いた。
 魔女はほんの数歩先にいる。素人でも当てられる距離だ。
 だが、矢は魔女に届かなかった。
 弓を離れたと思った次の瞬間、女の太ももに突き刺さっていた。
「――!?」
「早く行けよ。でないと、魔女の気が変わってしまうかもしれないぞ?」
「う、うわあ‥‥!!」
 矢が突き刺さった足をずるずると引きずりながら、女が森の奥に消えていった。
 肩を貸すものがいるならともかく、ひとりで森を出られるかどうか。あの女の運と体力だけが頼りだろう。
 体力だけは、有り余っていそうだが。

 魔女は振り向いた。
 倒れる二つの影と、それぞれに刺さる一本ずつの矢。
 魔法の恩恵を受けているアカリは、蘇生させることも可能だ。
 だがそれは肉体だけで、魂を蘇生させることは出来ない。
 突き刺されたことで魂が死んでしまったならば、もはや蘇生しても動くことはない。
「ならば簡単だ」
 魔女はアカリのもとに歩み寄り、矢を引き抜いた。
 どろりとした血が流れる。
 魔女は、纏ったコートを脱ぎそれを布団代わりにして、アカリの身体を包む。
 止血しておけば、余計な輸血の必要もない。半日から一日はもつだろう。
 それより先にやらなければならないことがある。
 研究は続けてきた。実験も続けてきたし、理論の構築も進んだ。
 少なくとも、かつての過ちを繰り返すことはないだろう。
 成功するかどうかも危うかったが、それ以外にやるべきことはないし、やりたいこともなかった。
 少女のもとへ跪くと、先ほどまでアカリと呼ばれる魂を持っていた黒猫に、再び視線を投げた。
「ごめんね‥‥」
 少女の身体は本物の肉体だから、魔力で保つことはできない。
 となると器はひとつだけだ。今ここにある魂は、アカリだったものと少女だったもの。
 魔女は、アカリではなく少女を選んだ。
 彼女は今、それを謝った。
 意識を少女に向け、定着を開始させる。
 まずは、破片を拾ってひとつの魂として完成させる必要がある。
 そしてその次に定着作業。
 猫だったかもしれないしかつての少女だったかもしれないアカリの魂を捨て、少女に入れ替える。
 決して一筋縄ではいかない。だが魔女は、それが今自分に課せられた宿命であることを認識していた。
 だから、行う。
 魔女は、精神集中を始めた。


* * *


 小屋がごうごうと炎をあげている。
 もともと木でできていた家だから、燃やそうと思えば簡単に燃やすこともできた。
 そのついでに、残っていた蔵書も全て放り込んでおいた。
 それを決めたとき、魔女の膝の上に乗っていた、継ぎ接ぎだらけのお世辞にも美しいとは思えない猫が、魔女を見上げて言った。
――にゃあ?
「ああ、もう平気だ。今までの研究は全部終わったし、それに‥‥」
 環境を変えるなら、これまでの所有物は全て捨てないと。
 魔女はその言葉を飲み込んで、様々な色を取り込んだおかげでマーブル模様になり、便宜上黒としか呼ぶことができないためそう呼んでいる黒猫の頭を撫でた。
 そうして今、燃え盛る小屋を見つめている。
 燃やすだけなら、火をかけた後放っておいてもよいのだが、周りの木々に飛び移ってしまうと困ったことになる。
 だから、火の粉が飛ばないように注意深く観察し、結界を張っていなければならない。
「まさか引っ越すことになるとは思わなかった」
――にゃ?
「ここを離れるときは、人間と対立して、人間が死ぬかわたしが死ぬか、どちらかしたあとだと思ったからさ」
――にゃあ‥‥。
「大丈夫。どうせもう、そう長くない」
 白と黒の煙がゆっくりと天上へ上がっていくのを、魔女と黒猫はぼんやりと見上げていた。
 魔女は、魔法による延命措置を停止することを決めた。
 停止したからといって今すぐ死ぬわけではない。この肉体が都市を追うごとに老けていき、やがて滅びる、それだけのことだ。
 黒猫も同じように措置を停止したが、こちらは本来の寿命通りに死ぬことにはならなそうだ。
 魔力で編んだ手術跡が、どうしても命を永らえてしまう。
 どうやら魔女と黒猫が死ぬのは同じくらいの時期になるだろう、と気付いたとき、魔女はふいに喜ばしくなった。
 木が黒炭となり、ぼろぼろと崩れていく。
 火の勢いも弱まってきた。あとは放っておいても平気だろう。結界だけでどうにかなる。
――にゃ、にゃ?
「そうだな」
 魔女は形を失っていく小屋に背を向けて、一歩踏み出した。
 慌ててついてこようとする黒猫の抗議の声に笑い、魔女は黒猫を促す。
「行こう、アイ」
 首からお守りの袋をぶらさげた黒猫が、魔女を追って歩き出す。
 夜明けの光が、木々の間から零れ落ちていた。



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