演劇集団三色旗 十回突破記念 特別公演

魔女と少女と黒猫の家
-a house of a witch, a girl and a cat-

[未来永劫][霧越藍×椎葉朱里×奈良原白夜]


第二部



 目を覚ますと、そこは知らない場所だった。
 ――といっても、見えるわけじゃないから、なんとなく、空気の味や匂い、感覚などから感じた印象なのだけど。
 それでも、そこがいつもの天井裏でないことくらいは判った。
 だって、布団が、ふかふかだ。
「‥‥ここは?」
 こういうとき、盲目は楽だ。
 中途半端に視力があると、見えたもので勝手に判断し、独断と偏見で自分の現状を把握してしまう。
 例えば周りに生き物の死体が散乱してたら、それだけで狂ってしまいそうだ。
 もっとも、腐乱した匂いなんかしないから、そんなこともないだろう。
 しんとした、静謐な空間。
 私の部屋のように、何もなくて、ただ狭いだけの理由で静かであるのとは違う。
 この部屋の、あるいは家の持ち主が、それを好んでいる、そんな匂いがする。
 静かな中にも嫌な匂いが蔓延するあの屋敷と違って、心地のよい静けさ。
 ここがどこだか判りもしないのに、私は場違いな安心を感じていた。
「静かだなぁ」
 ここがどこなのか。
 本当は、なんとなく、想像はついている。
 だって私は、森に向かって走っていた。
 木にぶつかったり転んだりしたから、判る。ここは村の中じゃない。途中で見つかって、村に戻されたならともかく。
 それに、村に戻されたなら、絶対にお屋敷に連れて行かれていたはずだ。
 お屋敷も奥さまも、そして私も、村の中に知らない人はいないのだから。
 だから、ここは。
 お母さんの言っていた、お母さんが抱いてくれたきっかけを作ってくれた、あの、森の中の魔女。
 魔女の家だ。
「‥‥んっ?」
 お腹の上に、何か重いものが乗っかった。
「な、なに?」
 にゃあ、と鳴く声
。 「え?」
 にゃあ、と、もう一度。それは鳴いて、とことこと私の身体の上を歩く。
 そして、私の頬がざらりとして濡れた暖かいものに撫でられた。
 ゆっくりと手を動かしてみる。
 右手と左手、両方で、目の前にいるであろうそれに触れてみる。
 ふわりとした、なめらかな感触。
 右手を動かして、背中から頭にかけて撫で回していく。
 頭のてっぺんに、ぴこんと立った小さな耳。
「ねこさん?」
 にゃあ、と。
 また鳴いて、猫は私の顔を舐めた。
「ひゃあ」
 ぺろぺろ、ぺろぺろ。
 その舌が頬から瞳の近くまで動いていくのを感じていて、初めて気付いたことがある。
 私は、泣いていた。
 涙が流れていた。
 この子は、それを舐め取ってくれたのだ。
「ありがとね、可愛い猫さん」
 私は、猫の子をきゅ、と抱きしめた。
「起きたか」
「っ!?」
 突然。
 すぐそばで、女性の声がした。
 驚いて飛び上がり、思い余って猫の子を放り投げてしまった。
「猫を投げるなよ」
 女性の声は呆れたように言って、布団の脇に何かを置いた。
 驚いた。
 いきなり声がしたのに驚いたのは確かだけれど、それは単純に、そこにいたのに気付かなかった、ということではない。
 私は、失った視力の代わりに、他の能力が鋭くなっている。
 それは、気配を探る力も同様だ。
 空気の動きや、匂い、それに音で、誰かが黙ってそばに寄ってこようとしたり、あるいは部屋の中に潜んでいたりしても、なんとなく察知できることが多い。
 そういう部分も敏感になっている。
 それなのに、判らなかった。
 まったく、認識できなかった。
 驚いたのは、私の感覚がその人の存在に気付けなかったことだ。
「どうした」
「え?」
「水ぐらいで金を取ったりはしないぞ」
「水?」
「なんだお前」
 女性がいぶかしむ。
 ハスキーで、低くて、大人っぽい声。
 こんな声の女性に出会ったことがなかったので、声を聞くだけで胸が躍っている。
 それに、たぶん私は、理性じゃ判っていなくても、もっと深い部分で、直感していたのだ。
 この声が、この人こそが、って。
「あの、ここはどこですか?」
「お前の家ではないようだな」
「ってことは、ここは森の中なんですか?」
「はあ?」
 なんだか凄く呆れられている気がする。
 お姉さん(たぶんそうだろう、私より年下だとは思えない)は、こつこつと足音を立てて私から少し遠ざかった。
「お前の目は節穴か?」
「――あはは」
 全くその通りだ。否定できる要素などひとつもない。
 全身全霊完全無欠に、私の目は節穴だ。
「‥‥お前」
 足音が近づいてくる。
 と思ったら、いきなり顎を掴まれて、首を変な方向に曲げられた。
 吐息が顔にかかる。お姉さんの顔がすぐ目の前にある。そんなこと、気配を探るまでもない。
 ばくばくと心臓が早鐘を打っている。
 怖いとか、恐ろしいとか、そんなことを思ったわけでもないし、不安だったり心配だったりしたわけでもない。
 何だか判らないけれど、すごく恥ずかしかった。
 お嬢さまにいじめられたときのような嫌な恥ずかしさじゃない。
 胸が締め付けられるような、今まで感じたことのない、息苦しさを感じる。
「やっぱり目を穿たれたのか」
「うがたれ?」
「見えないんだろ」
 こくり、と黙って頷いた。
 つもりだったけど、顎を掴まれているのでほとんど動けなかった。
 それに、私は少し、驚いてもいた。
 私が目が見えないということには、普段の私を見ている人でも、結局は私が自己申告しなければ気付かないからだ。
 それを、この人は自力で発見した。凄いと本気で思った。
「‥‥傷つけられたわけではないのか。生まれつきか」
 生まれつきか、の「か」が、質問には聞こえない響きだったのでじっとしていたら、お姉さんが何も言わないので、初めて質問だったのだと思い知った。
 そして、ふるふると首を横に振る。
「――薬だな。失明は突然か、段々か」
「いきなり、でした」
 訥々と答えていく。
 まるで病院の先生だ、と思った。
 お医者さまにしては顎を掴むのが強引だし、顔が近すぎたけど、やっていることは診断そのものだ。
 口に出したり、首を振ることで答えにしたり、かたちは色々だったけど、そのまましばらく診断は続いた。
「は。因果な人生だな」
 お姉さんは、吐き捨てるように言って私の顔を解放してくれた。
 思わず大きくため息をついてしまう。
 私が話したのは、目に関するところだけだ。
 お父さんとお母さんが殺されたことも、今いるお屋敷でのことも、全く喋らなかったのに、お姉さんは、それら全てを理解したみたいな言い方をした。
「わたしは」
 お姉さんが言った。
「姿を見られた人間は、例外なく殺すことにしている」
「魔女さんだから?」
 お姉さんの呼吸が、一瞬だけ止まった。
 どうやら、魔女だということは事実らしい。
 少なくとも、村のみんなが指している魔女のことではあるのだろう。
 本当に魔法が使えるかどうかは、ともかくとして。
「ああ」
「そっか。そうなんだ」
「‥‥怖くないのか?」
 私の声がよほど不思議だったのか。
 お姉さん――魔女のお姉さんは、今度ははっきりと、「か」を疑問の形にして、質問してきた。
「怖くないですよ。ずっと会いたかったから」
「?」
 せっかく答えたのに、お姉さんは理解できなかったみたいだ。
 私の言葉を無視して、自分の台詞を続けた。
「とにかく、例外なく殺すことにしているのだが」
「‥‥」
 ここで殺されたとしても、私は怖くなかったし、後悔することもない。
 あの家にいるくらいなら、殺されてもいいと思えるほど辛かったからかもしれない。
 でもそれ以上に、思うのだ。
 私は、魔女に会いたかった。
 お母さんとの時間をくれた魔女に会いたかった。
 だから、魔女に会えた今、思い残すことなんて何ひとつない。
 いっそのこと、早くお母さんに会いに行きたいくらい。
「怯えないんだな」
 お姉さんが、そんなことをぽつりと言った。
「どうして?」
「いや」
 どうして、とは言ったものの。
 普通の人なら、たぶん怖くて悲しくて、逃げ出したくなるかもしれない。だって魔女だし。
 私がそんなことを思わないのは、たぶん私が変なだけ。
 たぶん私が、おかしいだけなんだ。
「あ、でも、お姉さん」
「‥‥おねえさん?」
「え? だって、お姉さんでしょ? 魔女さんなら、何百年も生きてるはずだし」
「――いや、そういうことではなく」
 お姉さんは何か言いかけたけど、途中で止めてしまった。
 言いたいことがまとまらなかったのだろうか。
「姿を見たものは殺す、だったら、私は入りませんよね?」
「は?」
「だって私、目、見えないんだから」
 お姉さんは、それに反撃する手立てを持っていなかったようだ。


* * *


 屁理屈だ、というまでもない。
 この少女は決して、死ぬのが怖くて生き延びたいからそんなことを言ったのではない。
 もしそうならば、最初から取り乱しているはずだ。
 外の村人たちが寄越した討伐のハンターか何かか、とも頭の隅で思ったが、その可能性もほぼ皆無だ。
 気まぐれに気まぐれを重ねて少女を小屋に運び込むまでの間に、身体検査は済ませてある。危ないものを持ち込む余裕はない。
 それに、この細腕が魔女を制することができるとも思えなかった。もちろん、警戒は必要だろうが。
 ならば、魔女が少女を助け、あまつさえ殺すことをせずに野放しにしておく理由はなんなのか。
 魔女は自問していた。
 そもそも、気まぐれだからといって小屋まで運び込んだことからして普段の自分ではない。そう思っていた。
 しかもずいぶん饒舌だ。彼女の持つ独特の空気に、当てられた気がする。
 しかし、心に引っかかる何かがある。
 黒猫のはしゃぐ声がして、ベッドに振り向いた。
 上半身を起こしてベッドに座っている少女と、白いシーツに見事なコントラストを描く黒猫とが、戯れている。
 突然投げ飛ばされたことも、あの現金な黒猫は一切気にしていないようだ。
 普段から友達のいないアレにしてみれば、いい相手ができたともいえる。
 もちろん、魔女が猫の相手をするはずなどなかったからだ。
「キミの身体は何色なのかなあ?」
 ぐりぐりと頭を撫でられて、黒猫は幸せそうに鳴いている。
 黒だ、と教えてやったほうがよいのだろうか。
 そう一瞬だけ考えて、下らない妄想だと頭を振った。
 知りたければ、少女とて魔女に聞いているはずだ。
 それをしないということは、それなりの意味があるはず。
 あの少女が、ただの間抜けだということも考えられるが。
「キミ、お名前はなんていうの?」
 少女と黒猫が、お互いに顔を見つめ合い首を傾げあっていた。
 猫に答えられるはずもない。
 ずいぶんと機嫌がよいらしい黒猫は、少女の真似をすることが楽しいらしい。小憎らしく首を傾げている。
「あの、魔女さん」
 少女に視線を投げる。
 しばらくそのままでいて、そういえば少女は目が見えないのだということに気付いた。
 なんだ、と、いくら目線で返事しても、意味がないはずだ。
「なんだ」
「この子、お名前なんていうんです?」
 少女が魔女に目を向けるのと同じタイミングで、黒猫が魔女を見つめた。
 あたかも、名前をつけられていないことを抗議するような目で。
「ないよ」
「ない? ナイって言うんですかこの子」
「名前なんてつけてない。必要だと思わなかったからな」
「どうしてですか? 名前は必要ですよ。私、この子をどうやって呼んだらいいんですか」
「猫と呼べばいいだろう」
「猫は名前じゃありません。誰だって、人間、なんて呼ばれたくないのと一緒です!」
「わたしは魔女と呼ばれているが?」
 ちょっとした言葉遊びのつもりだった。
 皮肉でもないし、嫉妬なんてものでもない。
 だが魔女がそう言ったとたん、少女ははっとして「そうだ」と呟いた。
「魔女さんのお名前聞いてなかった。ていうか、自己紹介すらしてなかった!」
 少女は頬を赤く染めて、小さく笑った。
「私、藍って言います。藍です。よろしく」
 2回目の名乗りは、魔女に対してでなく黒猫に対してだ。
 よろしく、と少女が頭を下げると、黒猫も真似して頭を下げてみせる。
「‥‥で、魔女さんは?」
 当然答えてくれるものだろう、と、信頼しきった笑顔で魔女を見つめる少女
。  魔女は、その無垢な笑顔に目を逸らした。
 気味が悪い。疑うことを知らず、嫌うことを知らない笑顔。
 目が見えないということは、この世のどす黒い何かを見なくて済むということ。
 少女のそんな純粋さに、魔女は吐き気を覚えた。
 強く睨んでみるが、少女は少しも引かない。見えないのだから当然だ。
 魔女は手近にあった三角帽子を手に取り、玄関に向かった。
「忘れたよ」
「えっ?」
「人間たちの言う『何百年』も昔からわたしはここにいる。誰も呼ばない自分の名を覚えておく余裕なんかない」
 喋りすぎた、と後悔した。
 少女は、ここにずっといる人間ではないし、いるべき人間でもない。
 そんな彼女にどんなシンパシーを感じたのか、連れ帰ってきた。その段階から大きなミスだ。
 それなのに、少女が盲目であるという事実に溺れ、会話をしてしまった。
 盲目だろうが健常であろうが、そんなことが、魔女が人を殺さぬ理由になるはずがない。
 姿を見られたら殺す。
 見るというのは視覚で捉えるという意味だけでは、当然ない。存在を認識されたら、それで終わりだ。
 ここを囲う結界は、認識されない以上認識されないが、一度記憶に残ると、結界としての機能を失ってしまう、それほど弱い。
 だから魔女は人を避けてきたし、避けるために殺してきた。
 ここに来て、醜態を犯してしまった。
 少女を逃がせば、村から討伐隊が押し寄せてくる。
 そうなれば、皆殺しにするか、素直に殺されるか、逃げるかしかない。
 魔女はこの森が、意外と居心地の良い場所だと感じていた。
 手放すのはもったいなかった。が、もはや仕方ないだろう。
 解決する手段はない。――少女を殺す、という方法を除いては。
「‥‥」
 扉を開け、外と中とを繋げる。
 一歩足を外に出そうとして、魔女はそこで止まった。
 ここで出て行けば、少女は逃げるだろう。
 そうすれば、魔女の日々は終わる。
 ここで殺せば、全ては元に戻る。
 今日のこの出来事も、ちょっとしたイレギュラーとして、処理できるしすぐ忘れることもできる。
「‥‥それから」
「え?」
 少女ひとり、手を触れずともこの距離でも殺すことくらいできる。
 魔女の意識は少女へとゆっくり伸び、そして。
「その猫に名前が必要なら、お前が勝手に付けろ」
 扉を閉めた。
 小屋の中に、少女と黒猫を残して、魔女は日が落ちかけた森を歩き出した。
 限りなく広がる深い闇が、魔女の心を癒した。

 月が天に昇る頃、小屋へ戻ってきた魔女が見たものは。
 少女の姿が消えたベッドと、そこにまどろむ黒猫、そして、解読できないくらい汚い字で書かれた一枚の置手紙。
「ねこちゃんのなまえ、いっしょにかんがえましょう またあしたきます」
 かろうじて、そう読み取ることができた。


* * *


 私がお屋敷に着いたのは、夜もふけた頃だった。
 不思議なことに、一度も入ったことのない森の中だったのに、帰り道に全く迷うことはなくて、木にぶつかったり転んだりすることもなく、森を抜けることができた。
 お屋敷で待っていたのは、お嬢さまと奥さま。
 奥さまは烈火の如く怒り出して、私が気絶しかけるまで、殴ったり蹴ったりを続けた。
 お嬢さまは直接私に出を出すことはしなかったけれど、きっとそんな私を見て笑っていたに違いない。
 皮膚が裂け、骨が折れて、体中ぼろぼろになった頃、やっと奥さまはその暴力を止めた。
 それを見計らい、お嬢さまが私に告げた。
「ねえ節穴? チカラはどうしたの?」
「‥‥」
 ゆるゆると首を振る。痛くて身体を動かすことも辛い。それでも首を横に振った。
 私は見ていない。魔女に出会ったのかもしれないしそうじゃないかもしれないけど、とにかく見ていなかった。
「この子ってば、娘の可愛いペットを逃がしておいて、見つけることもできなかったというの!?」
 お腹を思いっきり蹴り飛ばされる。胃の中のものは吐きつくしてしまったのに、それでも吐き気がおさまらない。
「そうだ、お母様、こういうのはどうかしら?」
 お嬢さまの声が、スキップするように弾んでいた。とても面白いことを思いついたときの声。
 そして、その面白いことは、私にとっては、辛いことでしかない。
「明日から、この子を森に行かせて、チカラを見つけるまで探し続けてもらうというのは?」
「森に? 目が見えなくて見つかるかね?」
「いいじゃない、見つからなかったら夜に帰ってくるように言えば。どうせうちにいても、掃除も食事も満足にできないんだから」
「‥‥‥‥」
 沈黙が訪れた。奥さまが私を見下ろしている、その視線を感じる。
 どんな顔で見ているのだろう。怒りだろうか。哀れんでいるだろうか。それとも、嘲っているだろうか。
 その表情を見る能力がなくて、少し幸せだと思った。
「そうね、そうしましょう」
 奥さまは、お嬢さまの機嫌を取るときの猫なで声でそう言った。
「いいこと藍、これから毎日、チカラを見つけるまで、朝から夜まで森に入ること。怠けることは許しませんよ」
「はい、奥さま」
 と返事をしたつもりだったけど、掠れた声しか出なかった。届いたのか不安だ。
「家のことはやらないで結構。明日から新しい家政婦を雇うわ。明日の朝までに、お前の部屋を綺麗にしておきなさい。これからは新しい家政婦がそこに住むのだから」
 ならば、帰ってきたとき私はどこに寝ればよいのだろう。
 そんな質問を許してくれるほど奥さまは優しくなかったし、質問せずとも察知してくれるほど頭もよくなかった。
「その代わり、きちんと夜には帰ってきなさい。もっとも、のたれ死んだら帰ってこられないでしょうけど」
「判りました、奥さま」
 これはつまり、明日からまた魔女のところへ行けるということだ。
 正直言って嬉しくて叫びだしそうだったけれど、そんなことをしたら怪しまれてしまう。
 奥さまもお嬢さまも、森に魔女が棲んでいることなど本気にしているはずがない。
 もし魔女が見つかってしまったら、その存在を知られてしまったら、奥さまは何をしでかすかわからない。
 直接討伐に行くどころか、森を全て焼き払ってしまう可能性もある。
 そんなこと、許せるはずがない。
 だから私は、無表情を貫いた。

 部屋に帰って、布団に包まる。
 薄っぺらい布団が、普段と同じはずなのに、凄く痛くて、凄く悲しかった。
 枕元に手をやって、お守りを失くしたことを思い出す。
 私は、身体を丸めて、声を上げずに泣いた。
 これが私の最後の夜。明日からは、こんなところで生活することもない。
 そう、自分を励ましながら。


* * *


 翌日、目を覚ましても、少女の姿はなかった。
 当然だ、と思う。何を期待していたのだろう。
 昨日の夜、少女が迷わないように自然に少し干渉したことを思い出して、自嘲した。
 なぜあんなことをしたのだろう。あの少女とて、戻ったら森に魔女がいることを言いふらすだろう。
 そんなことをされたらもうここにはいられない。黙って逃げるか、村人を全員殺害するかの違いはあれども、森を離れなければならないことになるのは必定。
 自分の呑気さ加減に、魔女は呆れた。
 ベッドから降り外に出て、井戸の水を汲む。
 顔を洗い身体に水をかける。冬場だから冷たいといえば冷たいが、魔女はさして気にせずに行水を続けた。
 一通り水浴びを終え、腰の辺りまで伸びる長い髪の毛が吸った水分を絞る。
 そのさなか、黒猫がこちらへ歩み寄ってくるのを見つけた。
 黒猫は魔女の足元までやってくると、詰問するように小首をかしげる。
 あの少女はどこに行ったのだ、とでも言いたげに。
「そんなこと、わたしが知りたいよ」
 吐き捨てるように言って、魔女は桶に汲まれた冷たい水を、猫にぶちまけた。
 黒猫は一瞬硬直して、しっぽを立てぶるぶると震えた。全身から水を剥がす。
 恨みがましい目で私を見上げ、猫は呻いた。
 魔女はそれを無視して桶をつるべごと井戸の中に戻すと、小屋へと帰った。

 人が恋しい、と思ったことはない。
 昔はあったかもしれないが、今はない。だから、それがどういう気分なのか、記憶してすらいない。
 ただ、そうした気分を味わえない以上、自分は人間ではないのだなと、そのたびに確証するくらいだ。
 それでも、恐らく、かつては、そうした感情を持ったことがあった。
 記憶になくとも、それは確かだ。
 そうでなければ、魔女の元にいる黒猫の説明がつかないのだ。
 ――そういうことを、魔女は久しぶりに思い出した。
 黒猫が擦り寄ってくる。
 魔女と少女を間違えているわけではないだろうが、昨日ずいぶん可愛がってもらったことが記憶に新しいらしい。
 昨日みたいに構ってもらえると信じ込んでいるようだった。
「余計なことを」
 思わず一人ごちる。
 黒猫と魔女とはずいぶん長い共存生活だが、こんなにも甘えてくることは今まで皆無だった。
 一人と一匹との関係は、ただ同じ場所に住んでいるということでしかない。
 お互いに勝手に起き、また勝手に寝て、勝手に生きる。
 黒猫が長いこと小屋に戻ってこなくとも魔女は気にしなかったし、可能性はゼロに近いにせよ、魔女が小屋を離れてもそれは同じだろう。
 猫が魔女を待つことなどしないはずだ。
 そういう関係だった。ただ一緒に住んでいるだけの、淡白な関係だったはずだ。
 それなのに。今日の黒猫は、随分と愛情を欲している。
 そして魔女は、それを蔑む気にはなれなかった。
 ぐしゃり、と、その頭を撫でてみる。
 力加減がうまくなかったらしく、頭を押しつぶされたように身体を伏せた猫は、魔女の手から逃れてベッドに飛び移った。
 そして、ちらりと魔女を流し見る。
 まるで、ヘタクソ、と笑われているようだった。
 反論しようもないので、それを無視する形で、魔女は日課の研究に手をつけた。

 日が高く昇り、南中を過ぎ、正午を過ぎ、やがてゆっくりと沈み始めようとした頃。
 魔女はその手を止めた。
 結界を通り抜けたものがある。
 間違いなく、昨日の少女だった。
 思わずベッドに視線をやると、黒猫はいつの間にか姿を消していた。
 少女を迎えに行ったのか。あるいは、全く別の理由ででかけたのか。
 魔女は肩をすくめると、作業を続けるべきかどうか一瞬悩んで、やめた。
 少女が来るのは勝手だ。だが、それによって自分の行動が変わるわけもない。
 出迎えて歓迎するなんて、以ての外だ。
 しかし魔女は、少女が小屋の扉を開くときには、薬品を使った研究をやめ、読書を始めていた。
「こんにちは、魔女さん」
「‥‥」
 黙ったまま本に視線を落としていた魔女が、少女は盲目であるということを思い出し、慣れない返答をした。
「なぜ、また来た」
「なぜって。昨日、置手紙したじゃないですか。猫ちゃんの名前、考えましょうって。あ、読めなかったですか? ごめんなさい、わたし字が汚いんで。――もちろん自分で確認できるわけじゃないんですけど」
 まくし立てるように言い、少女は笑う。
 だが彼女は、馴れ馴れしくそんなことを言いながら、扉を開けた格好のまま、一歩も中に足を踏み入れようとはしなかった。
 あたかも、帰れと言われればそのまま踵を返しそうな軽々しさだった。
「‥‥あの?」
「客人を迎える用意はない。茶が飲みたければ自分で用意しろ」
「えっ?」
「入るなら早く入ってくれないか。わたしは日の光が嫌いなんだよ」
「あ‥‥は、はいっ!」
 少女は一歩小屋に足を踏み入れて、そっと扉を閉めた。
 少女が動く。摺り足でゆっくりと歩み、昨日自分が眠ったベッドへと歩み寄った。
 それが、のんびりではあるが淀みなく、また目が見えないにしてはふらつきもしない歩き方だったので、横目で見ていた魔女は内心舌を巻いた。
 なるほど、盲目の者はこうして歩くのか、と、自分でも忘れるほど長く生きていながら始めて得た知識に感嘆した。
「これ、ベッドですよね」
 スプリングを確認するかのように、押したり引いたりしながら、少女が言う。
「それがどうした」
「座っていいですか?」
「‥‥勝手にしろ」
 魔女は、あまり口を開きたくなかった。
 喋ることがそもそも好きでないというのもあるが、少女と対峙していると、必要ないことまで喋ってしまいそうな恐ろしさを感じる。
 何だかんだと魔女に回答を促そうとする少女の質問の仕方に、魔女は自分が気付かぬうちに饒舌になっていることに気付いていた。
 そして、そんな自分を嫌悪する。
 昨日からずっと、そんなことを考えていた。
「あれ?」
 少女が言った。
「あの、魔女さん」
「なんだ」
「猫ちゃんは?」
「‥‥さあな」
 知らないものは知らないから、知らないとしか言えない。
 顔も上げずにそう答えると、少女は寂しそうに笑った。
「そっか。猫さんって気まぐれだもんね。でも、そのうち戻ってくるといいな」
 独り言なのかそうでないのか判らなかった。
 だが魔女は、はっきり質問されたこと以外に答えるつもりはなかった。読みかけの本に意識を戻す。

 結局、黒猫が戻ってきたのは、日も落ちかけた夕方だった。
 昼過ぎにやってきた少女はベッドに腰掛けたまま何をするでもなくぼんやりとしていたし、魔女は少女がいることすら忘れたように読書に勤しんでいた。
 だから、黒猫が専用の出入り口として愛用している壁の穴から戻って一声挙げたとき、小屋の中の空気ががらりと変わった。
 そして黒猫は、鳴いた拍子に、口に咥えていた何かをぽろりと落とした。
 一瞬魔女に視線を投げた黒猫は、落とした何かを咥えて一旦外に出て、再び戻ってきたときには何も咥えていなかった。


* * *


「猫ちゃん、こんにちは!」
 待ちわびたその可愛い泣き声に、私は心を躍らせた。
 すると、私に気付いてくれたのか、猫が私の胸に飛び込んでくる。
 まさかそんな形でやってくると思わなかったから、思わずベッドに寝転んでしまった。
 猫が倒れた私の頬を舐めてくれる。覚えていてくれたみたいで嬉しくなった。
「元気だった?」
 私が問うと、まるで言葉がわかるかのように、にゃあ、と返事してくれる。
 ふわふわで暖かくて柔らかい感触。
 同じ動物でも、お屋敷にいたチカラとは全然別の。
「――あ」
 しまった、完全に忘れていた。
 そもそも今日森にやってきたのは、最初からチカラを探すためだったのに。
 森に行ける、そう思ったときから私は、魔女と猫とに会うのが楽しみで、それ以外のことを忘れてしまっていたのだ。
「そうだ、お姉さん」
「‥‥‥‥なんだ」
「あの、えっと、犬を知りませんか?」
「知っている。狼の仲間の四本足の動物だろう」
 バカにするな、とでも言いたげに、魔女の声が不満に彩られていた。
 けれど、私が聞きたかったのはもちろんそういうことではない。
 そういうことではなかったから、つい、噴き出してしまった。
「あはっ」
「なんだよ」
「ううん、えっと、そうじゃなくて。犬っていう動物の種類じゃなくて。昨日、この辺りに犬が一匹来なかったかな、と思って」
「‥‥それならそうと言え」
 確かにその通りかもしれなかった。
 けれど、まさかそういう答え方をされると思わなかったのも事実。
 この魔女のお姉さん、意外と面白い人かもしれない。
「それで、どうかな、知りません?」
「――知っているよ」
 お姉さんが言った。
 その後、当然続けてくれるものだろうと思っていた私は、お姉さんがそれ以上何も言わないことに驚いた。
「あ、あの?」
「ああ。犬。犬だな。‥‥あれは、お前の犬か? 飼い犬か」
「飼い犬だけど‥‥私の犬、じゃ、ないですよ」
 私の住むお屋敷の犬である以上、あれは私の犬と言ってもいいのかもしれない。
 でも、いろんな意味で、あの犬を「私の」と呼ぶには抵抗があった。
 あの家じゃたぶん私よりランクが上だし。それに私は、あの犬が嫌いだ。
「そっか。知ってるんだ」
「知っていてはまずいみたいな言い方だな」
「あ、いや、そんなこと――」
 私は相手の表情が読めないから、そのぶん声色で機嫌を伺う能力に長けている。
 その反動で、自分の声色に感情を混ぜることを極力避けているし、それができるように苦労した。
 だから、そんな風な言い方をしたはずはなかったのに、お姉さんに一発で看破されてしまった。
「ひゃ」
 いきなり、猫に肌を舐められた。
 腕だ。昨日散々殴られたり蹴られたりしたところだったから、いきなり触れられて、びっくりしてしまった。
 ぺろぺろと、傷を癒してくれているみたいだ。
 私は逆の掌で、怪我を舐めてくれている猫の背中をそっと撫でた。
「おい」
 声をかけられて、はっとする間もなく、猫がその場から去ってしまう。
 飛びのいたという感じではない。無理やりどかされたような。
「お前。骨が折れているのか」
「え」
 猫の舌には触れられたけど、お姉さんには一切触られていない。
 なのにお姉さんは、私の腕がおかしいことに気付いた。
 骨折しているとしたら、凄い方向に曲がっているのかもしれない、そんなことを思い至る。
 見えなかったのだから気付けなくてもしょうがない。小さく笑った。
「‥‥あの?」
 お姉さんが私を見下ろす気配。
 どういう表情をしているのか、全く読み取れない。
 もしかしたら、ただの無表情なのかもしれないけど。
「服を脱げ」
「は?」
 ――いきなりお姉さんは、とんでもないことを言った。
「服を脱げ。今すぐだ」
「え、ええっ?」
 服を脱げ?
 服を脱げというのはつまり、衣服を脱ぎ給えということですよね?
「当たり前だろう。脱げと言っている。自分で脱げないなら無理に脱がすが」
「あ、ええ、えと、その、な、なんで」
「わたしがそうしたいからだ。理由なんかない」
 そうしたいから?
 わたしがそうしたいって、それは一体どういう。
 そりゃ私はいつからか魔女に憧れるようになったし、声を聞いて素敵だと思ったし、お話してみて案外普通の人間と変わらないところもあるんだなと思ったりしたけども。
 いくらなんでもそれはプロセスぶち抜きすぎじゃありませんかぁ!?
「こ、心の準備が‥‥」
「そんなもの必要ない。自分で脱ぐ気がないなら脱がしてやる。身体を抱いても無駄だぞ。魔術で吹き飛ばしてやる」
「そ、そんなっ!」
 最近の若者は早熟だなんてよく言われるらしいけど。
 これはあまりにも展開が速すぎる。早熟なんてものじゃない。芽が出た瞬間に摘むようなものだ。
「こ、困ります、こういうのは、きちんと段階を踏んでですね‥‥」
「面倒なのは嫌いなんだ。――そこまで頑ななら、いいだろう、心配するな、新しい服は用意してやる」
「へっ?」
 ばしゅん、と。
 強烈な風が吹いたかと思ったら。
 私は、素っ裸になっていた。
「わひゃああ!?」
 自分がどんな格好をしているかなんて、見るまでもない。
 どんな服をしているのかは見なければ判らないけれど、服を着ているかどうか程度を理解するには視力なんかいらない。
 ああ、なんてこと、こんな突然貞操の危機がやってくるとは。
 でも実は、心のどこかで、この人ならいいかもって思えてしまう自分がいる。
 怖いけど、どこの誰とも判らない男性に奪われるくらいなら、今ここで、お姉さんに奪ってもらったほうが幸せかもしれない。
 そう、それに、私はお姉さんが好きなんだ。
 恋愛なのかとか言われると確かに困るけど、でもそれは、これから育んでいくものなのかもしれないし。
 やっぱり、魔女と人間とでは、そういう考え方とか違うのかなあ。
 と。
 お姉さんに、両手をとられた。
「‥‥!」
 かっ、と、頭に血が昇ってくる。
 たぶん、自分の顔を見ることができたら、真っ赤になっているんだなと思うことができるかもしれない。
 頭がぼんやりして、何が何だか判らなくなる。
 とられた両手がゆっくりと持ち上がり、やがて万歳する格好になる。
 ああ、こんな、まるで無理やり襲っているみたいなかたちになるなんて‥‥。
「あ、あう‥‥」
 ぼうっとしてくる。頭の中が真っ白になっていく。
 心臓が胸を突き破りそうなくらいどきどきしている。
 ごくりと、気付かないうちに生唾を飲み込んでしまう。
 ああ、もしかしたら私、頭から湯気が出ているかもしれない――。
「動くなよ」
「え」
 お姉さんは、頭の上に持ってきた私の両手首を片手で掴みなおした。
 片手で掴んだ。ということは、もう片方の手は空いているわけで。
 それをいったい、お姉さんはどうやって使うつもりなのだろうかと思っただけで、身体が熱くなってくる。
 こんなふうな熱さを感じたの、熱を出して寝込んだとき以来だ。
 そしてあろうことか。
 お姉さんの冷たい手は、私の右手の二の腕からわきに降りて、そのままゆっくり私の素肌を撫で回していくのだ。
 胸の近くにひんやりとしたその手が届いたとき、思わずびくりと背中を逸らしてしまった。
「動くなってば」
「あ、えと、その、ひゃあ‥‥」
 2つの乳房の真ん中までやってきた手は、そこからおへそに向かってまっすぐ降りる。
 その途中で、ずきんと痛みが走った。
 昨日、最後に蹴られた場所だ。
 こんなときに、昨日の夜のことを思い出してしまうなんて。
 恥ずかしさとか嬉しさじゃなくて、悔しさと悲しさで、涙がこぼれそうだった。
 嫌でも、昨日のことを思い出してしまうから。
 ふと、両手首を抑える感覚が消えた。
 と同時に、お腹にあった手も離れる。
「‥‥?」
 私が痛みを感じたのに気付いて、引いてくれたのだろうか。
 だとすれば、お姉さんは、魔女だと言うわりにずいぶん優しいのかもしれない、なんて思ったとき。
「その怪我、どうしたんだ」
「――えっ?」
「体中に痣が走っている。腕も折れているし。裂傷の部分もある。そう古くはない。――まさか昨日か」
「え、ええと‥‥」
 あれ? 傷?
 どういうことだろう。
 つまりお姉さんは、ずっと私の傷を調べていたのだろうか?
 と、思った瞬間。
 今度は単純な恥ずかしさで、顔に血が昇った。
 うわ、なんてこと考えてたんだ、私。
 口に出さなくてよかった‥‥。
「この怪我はどうしたと聞いている」
「そ、それは、昨日の帰り道に――」
「転んでできた、か? 冗談を言うな。道端ですっ転んだくらいで、こんな傷になるか」
「あ、あう」
「‥‥‥‥」
 お姉さんが黙り込んだ。
 諦めたわけじゃない。じっと私を見つめている。
 私は、答えることができなかった。
 お屋敷で奥さまやお嬢さまにいじめられています、なんて、言えるわけがない。
「まあ、いい」
 唐突に、お姉さんの気配が遠ざかった気がした。
 思わず引きとめようと手を伸ばすけれど、届かない。無残に宙を切った。
 呆れられてしまっただろうか。嫌われてしまっただろうか。それが悲しくて辛かった。
「‥‥チ、無駄に思い出させやがって」
「え?」
「お前、いつまでここにいるつもりだ」
「――え、あ、ええと、えーと‥‥」
 話がぽんぽんと飛ぶその速度に、私は追いつけない。
 それに、まるで早く帰れと言われているようで、辛かった。
 お姉さんと一緒にいたいし、猫とも一緒にいたい、それに、できるならあそこに帰りたくはなかった。
 チカラを探せというのはつまり。
 森でのたれ死ねということに他ならないのだから。
「犬を探しに来たんだったか」
「あ、は、はい」
「――その犬ならたぶん、昨日わたしが殺したよ」
「え‥‥?」
「ずいぶんと躾の悪い犬だったな。どんな家庭環境に育ったんだか」
 どうでもいいとでも言いたげに、感情の篭っていない声でそんなことを言った。
 それには同感です。
 躾が悪いのは事実だし、家庭環境も最悪。
 番犬として置かれているはずなのに態度ばかり大きくなって、あれじゃあただのペットとしても役に立たないくらい。
 ――と、そこまで思って、自分の内心が判った。
 私は、喜んでいる。
 あの犬が死んでしまったことも、お姉さんがあの犬を悪く言うことも。
 私は、喜んでいるのだ。
「おおかた、あの犬を逃がした叱責として暴行されて、探しに行けと言われたんだろうが」
 なんでもないことのようにお姉さんは言った。でも、それがほぼ完全に正解であることに、私は驚いた。
 この人は凄い。本当に魔女なのだ、と。
「わたしが殺してしまっては、連れ戻すこともできないだろう。どうする?」
「え? どうするって‥‥」
 どうする、などと、お姉さんが私に問いかける必要があるのだろうか。
 きっと、お姉さんがチカラを殺してしまったのだって、止むを得ない状況になったからだろう。
 躾が悪いとも言っていたから、問答無用で襲われてしまったのかもしれない。
 だから、死んでしまったことは事実だとして、それを私に伝えるだけなら判る。
 でも、これからどうする、なんて、私に質問する理由があるのか?
 私がお姉さんの真意に悩んでいると、彼女は私の二の句を待たずに、続けた。
「わたしが殺したのは事実だから。それくらいの責任はとる」
「責任、って‥‥」
「きみがどうしたいのか言ってくれ。骨を用意して持たせることもできるし、殺した犬にそっくりな犬を連れてくることもできる。蘇生させるのはさすがに無理だが」
「‥‥それじゃあ」
 私は、たぶん、考えるよりも先に、口にしていた。
「私をここに、匿ってください」



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