演劇集団三色旗 第十回公演

梅雨の晴れ間のある日曜に
-pass the past-

[栄枯盛衰][椎葉朱里×霧越藍]


 私は結局、到着するまでに理由を思いつくことができなかった。
「今日はどこまでも私の好き勝手に回るから、覚悟しておけよ?」
「平気です。無理言ってついてきたんですし。先輩と一緒ならオールオッケーですよ」
 今更言ってももう遅いとは思っていながらも、ホームを降りて改札を通ったところで忠告した私に、彼女はそう言って笑った。

     *

 神奈川県横浜市港南区。
 私が、8年ほど前まで住んでいた土地だ。
 正確な年月は、計算しようと思えばできないこともないが、面倒なのでしていない。
 だいたい8年くらい前、で充分だ。
 この日、もはや誰も知っている人のいない故郷を巡ってみようと思い立った私に、彼女が突然メールをしてきた。
 曰く、今日は暇ですか。
 実はこういうことをしようと思っていてね。
 わあ、面白そう。私も連れて行ってくださいよ。暇だったんです。
 いいけど、きみにとっちゃ面白くないんじゃないの。
 問題ないです。暇なんで。
 電車代かかるよ。
 お昼を奢ってくれるならいいですよ。
 ちゃっかりしてるな。
 そんなわけで、今に至る。
 時刻はお昼前。着いてすぐ昼食にしようとは思っていたので、タイミングはいいといえた。
「先輩」
「うん?」
「変わってますか? 先輩のいた頃と」
「うん‥‥そうだな」
 不思議なもので、到着するまでは、この駅がどんな様子だったのかほとんど想像することも思い出すこともできなかったのに、こうして着いてみると、なんとなく見覚えがある気がしてくる。
 実は、5年ほど前に一度来ていたのだが、あのときはバッチリ記憶があったのに、今回は本当にうろ覚えだ。
 正直、不安になってきた。
「よく覚えてないや」
「でも、懐かしい?」
「そうだな。懐かしい」
 言いながら、左側の出口を歩く。
 確かこの先に、デパートがあったはずだ。
「ああ、そうだ。このデパートだ」
「覚えてますか」
「うん。すごく覚えてる」
 お昼ごはんを何にするか、実はずっと決めていた。
 小さい頃、家からこのデパートまで家族で買い物に来ることがよくあった。
 子供の足で、30分くらいかかったはずだ。長いこと歩いてようやく到着すると、デパートの屋上のレストランでお昼を食べるのだ。
 デパート屋上なんて、どこも似たような味だし高いわりに決しておいしくはないのに、あのときの私は、外食っていうだけでハッピーな気分になれた。
 その思い出に浸ろうと思ったのだ。
「ねえ」
「はい?」
「お昼はデパート屋上のレストランでいいかな」
「いいですけど‥‥お目当てでもあるんですか?」
「いや。ただ、懐かしいと思っただけ」
 店の名前すら覚えていないから、もし店が全部変わっていたとしても、私は気づかないだろう。
 それでもよかった。ほんの少しでも面影を残しているのなら、それは素敵なことだと思った。

     *

 私はカレーを食べた。彼女はオムライス。
 レストランらしい、実に無難な味。悪く言えば、印象に残らない料理。
 それでも私は、あと8年はこの味を忘れないだろう。そんなふうに、確信がもてた。
 食後のコーヒーを飲みながら、しばらく今後の予定について考えてみる。
「これからどうするんですか?」
「うん。とりあえず、昔住んでた団地に行ってみようと思ってる」
「団地?」
「団地。5階建ての古い団地だよ。確か20棟だか30棟くらいあったかな」
「へえ‥‥多いですね」
「まあね」
 物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回しながらコーヒーをすする彼女を見ながら、ふと思った。
 思い出に浸りに来たのに、そばにいるのは向こうでの知り合い。
 断ろうと思えば断れたはずだ。それでも連れてきてしまったのはなぜだろう。
 話し相手が欲しかったと思った。でも、それだけじゃないと思う。自分のことなのによく判らない。
 まさか、今の生活の命綱が欲しいと思ったわけでもないだろう。
 命綱がなければ、横浜で過ごした日常に舞い戻ってしまうというわけでもないのに。
「なんですか、ヒトの顔じろじろ見て」
 頬を染めて苦笑する彼女を見て、気づいた。
 きっと、一人でいるのが怖かったんだ。
 この町に過ごした過去、その思い出の真ん中にいる一人の少女のことを思い出すのが怖かった。
 5年前この町に訪れて、それまで文通していた彼女に、しっかりと別れを告げようとして、それすら出来ずにまた会おうと言い合ったあの日を思い出すのが怖かった。
 ――いや。それも違う。
 彼女への未練が生まれるのが、嫌だった。
「藍ちゃん」
「はい?」
 目の前の少女の目を見つめて、私は自分の心に刻み込むように言った。
「大好きだよ」
「は‥‥?」
 案の定、彼女はぽかんと口を開けて絶句してしまった。
 そりゃ、いきなり言われたらそうなるだろう。
 私はそれに苦笑しながら、レシートを取って立ち上がった。
「行こう。もしかしたら迷うかもしれないし」
「え、あ、ちょっと、先輩‥‥!」
 わたわたとバッグを手にとって彼女が立ち上がる。
 私は、自分の言葉を胸に刻んだ。
 私には今の生活がある。彼女と共にある、向こうでの生活がある。
 郷愁の思いに負けたりしない。今日のこれは、ただの気分転換だ。
 ‥‥でも、だったら。
 そもそもこの旅が、間違いだ。

     *

「つっかれた‥‥」
「どうやら正解だったようだね、この道」
「何度往復したと思ってるんですか‥‥」
 完全に記憶に頼って駅を出発し、うろうろと歩くこと1時間。
 子供の足で30分なら、今の自分で20分前後だろうと思っていた。もちろん、迷うことも考えていたけど。
 それにしたって、これはあまりに大きなミスだった。
 さすがに疲れた。
「ここが昔の家?」
「うん。14号棟。懐かしいな」
「でも、ほんとに団地ですね。全部番号が振ってあるし‥‥」
 駅から歩いてくると、最初に見えたのが20号棟だった。
 19、18と番号が若くなっていき、今私たちの目の前にあるのが14号棟。
 もっと行くと、1号棟までさかのぼる。そして、その先に幼稚園。
 私の通った幼稚園だ。
「次は幼稚園」
「えぇ? まだ歩くんですか?」
「まだもなにも、休むところなんてないよ」
 芝生だけの公園ならあるけど、ここは基本的に団地だ。
 しかもかなり古い部類にあたる。ベンチのある気の利いた公園など存在していない。
 そこは、今も昔も変わらないようだ。
「幼稚園まではそう遠くない‥‥はず」
「はず、ですか」
 しょうがないな、と呟いて、彼女は私の横についた。
 そして、おもむろに私の手を握る。
「いいですよね、これくらい。迷惑料だと思ってください」
 暑いから嫌だ。
 などと、口が裂けても言えない。
 私たちは、そのまま手をつないで幼稚園まで歩いた。

     *

 幼稚園は名前が変わっていた。
 建物も変わっていた。もはや面影などなかった。
 だから、もしかしたらここは別の幼稚園なのかもしれなかった。
 とはいえ、道行く人に「たけのこ幼稚園ってご存知ありませんか?」とは聞けない。
 いい年した若い女が二人で、幼稚園に何の用があるというのだ。
 というわけで、幼稚園散策はやめ、小学校へ向かうことにした。
「小学校もなかったらどうするんですか?」
「平気だよ。調べてきた」
 ネットの地図で検索したし、小学校のホームページも見つけた。
 見覚えのある懐かしい概観と校章。
 そして、ページを開いたとたんに流れてきた、校歌。
 最初は唖然として何が何だか判らなかったけど、何度も聞いているうちに、歌詞すら思い出せた。
 5年間の習慣というのは恐ろしい。
「5年間? じゃあ、先輩は6年生のときに引っ越してきたんですか」
「うん。弟がちょうど小学生になるときだったから。タイミングいいと思ったんじゃないかな」
 そのおかげで、私はたった1年間だけ新しい小学校に通うハメになったのだけど。
 新しい小学校と、小学校からほとんどメンバーの変わらない中学校。
 人当たりのよくない私にとっては、その中学2年までの3年間は苦痛だった。
 だから、ここに住んでいた「昔の友達」と、よく文通や電話をした。
 私のいなくなった学校で起こった出来事や中学校での生活などを聞いては、羨ましいと思った。
 どうして私がその場にいないのか、と思った。
 小学5年のときに私は、中学校でいう生徒会にあたる、児童会の副会長に立候補した。
 他に相手がいなかったから信任で当選して、1年間仕事をした。
 次は会長しかない、と思っていた。
 そして引越し。
 新しい学校で、そんなリーダーシップを発揮しようなど思ったこともないし、したいと考えたこともない。
 ただ、波風立てないように生きようとしただけだった。
 通っていたスイミングクラブもやめてしまった。
 背泳ぎなら大会に出られるといわれていた。
 でも、引っ越した先には通える範囲にクラブはなかった。
 ‥‥結局、思い出に浸っている。
 今更、どうこうしようもないことばかり。
 そんな自分が、情けないと思った。
 隣にいる彼女が、不安そうに私を見つめていた。
「ねえ、先輩」
「うん?」
「ここにいたとき、初恋とかしなかったんですか?」
「‥‥え?」
「恋ですよ、恋。親友でもいいけど。離れたくないって友達、できなかったんですか?」
「‥‥」
 いたかいなかったかと言われれば、いたに決まっている。
 幼稚園とか小学生とかの女の子は、だいたいそんなものだ。
 たった一人の親友と、その他大勢の友達。
 そんな区切り方を、誰に教わったのでもないのに、みんなしていた。
 私自身も。
 だけど、それは彼女に話してよいものか、判らなかった。
 とはいえ、他に話すこともない。
 学校まではけっこうかかる。話題としては悪くないだろう。
「‥‥いたよ」
「本当ですか?」
「うん。いた。女の子だったけど。大好きだったな」
「そうですか」
「私が守ってあげなきゃいけないって思った。いっつもいじめられてたしね。よく泣く子だった。‥‥そういえば藍ちゃんに似てる」
「わたし、泣かないですよ」
 む、と拗ねたように頬を膨らませる彼女。
 大学生にしてその姿が似合うのが、どうも子供っぽくて好きだ。
「幼稚園のときから、ずっと一緒だった。それにね、実は、その子とは、小学校の1年から5年まで、ずっとクラスが同じだったんだよ」
「ホントですか」
「うん。切っても切れないっていうのかな。そんなこともあって、仲良しだった。一番の親友だったよ」
「いいなあ‥‥」
「でもね。私が5年生になって生徒会に立候補して、学校の仕事が増えた頃から、彼女と一緒に帰ることもなくなった」
 小学校の登校といえば集団登校だったから、同じ団地内でも1号棟の彼女と14号棟の私の登校時間が同じだということはない。
 時折、たまたま一緒になったときにはとても幸せな気分になれた。
 だから、帰るときだけは、ずっと一緒だった。クラスが同じだったし、クラブ活動も同じだったから。
「クラブってなんだったんですか?」
「球技クラブ」
 サッカー、バスケ、バレー、ポートボール、キックベース、そんな、ボール以外に道具の要らない球技をしていた。
「ポートボールかあ。懐かしい」
「うん。‥‥私が委員会で遅くなることが多くて、彼女と一緒に帰れない日が続いたんだけど」
 そんなとき、運良く早く帰ることが出来る日があった。
 児童会の部屋に顔を出して、それだけで終わり、という日だった。
 私は嬉しくなって、仕事がないということと久しぶりに彼女と一緒に帰れるという二重の喜びに満たされて、教室に戻った。
 そこで私は、クラスメイトの子と楽しそうに帰っていく彼女を見た。
「でも、それって‥‥」
「そう、私が悪いんだし、私に文句を言う筋合いなんてないんだけど。‥‥なんかね、ショックだったよ」
 その彼女の横顔が、とても楽しそうに見えて。
 私じゃなくてもいいんだと、そんなことを思った。
「それからほとんど口を利かなくなった。私は児童会の仕事もあったし、他にも色々やってたから、暗くなる暇はなかったけど」
 でも、彼女は見るからに塞ぎこんでいた。
 私に声を掛けようとして、でも掛けられずにいるのを何度も横目で見た。
 それは私も同じだった。
 私が話しかけようとするときに限って、彼女は一緒に下校している友達と話していた。楽しそうに。
「今思うと、倦怠期ってやつだったのかも。ほんとの親友ってのは、べったりしすぎないで、適当な距離を置いて、お互いに尊重しあえるそんな関係だと思うけど‥‥あのときの私たちは、本当に仲良しだった。それこそ、恋人みたいに」
 キスの真似事をしたこともある。
 そんな子供時代だった。
「それで‥‥?」
「そのまま、引越しすることが決まって。彼女に言い出せなくて、でも親は、私が言ったと思ってたから、彼女の親にも努めて話そうとはしなかった」
 結局、彼女が私の引越しを知ったのは、学校でお別れ会があった日。引越しの二週間前だった。
「ショックだったろうなあ」
「どうだろう。――いや、ショックだったとは言ってたけど。中3のときには」
 あの時初めて、彼女と私は和解したんだと言える。
 幼い頃の別れは、お互いにどうしてよいのか判らないままのさよならだった。
 仲直りしたいけど、言い出せないまま私は横浜を出た。
 その後、文通を始めてからすぐに謝ったけど、やはり直接会って話すのが一番。
 引越し先で不安定な精神状態だったこともあって、中3になってようやくその願いがかなったとき、私は泣き崩れた。
「中3のときの彼女は、どうだったの?」
「うん。なんていうか‥‥一人前に15歳だったよ」
 私のイメージの中の彼女は、いつまで経っても、泣き虫で弱虫で、私にすぐ頼ろうとする、私の後をちょこちょことついてくる、可愛いけど時々うざったい子だった。
 でも久しぶりに会った彼女は違った。
 中学に入って、私とは逆の意味で変身した。
「ファッションにも気を遣ってたし。朗らかで明るかった。会話の主導権、ほとんど握られていたよ」
「ファッションか。先輩、ほんと気にしないですからね」
 これでも最近はよくなったほうだ。無論それは私の努力の賜物ではなく、目の前の彼女のおかげだ。
「‥‥先輩」
「うん?」
 坂のふもとに着いた。
 見上げると、小学校の校門が見える。
 恐らく入ることはできないだろう。それでも、目の前まで行ってみたかった。
「先輩、その女の子のこと、今でも好きですか?」
「は?」
「好きだったんでしょ、その子のこと」
「そりゃ‥‥友達だったし」
「そういう意味じゃなくて」
 しまった。完全に悟られていた。
 というにはちょっと直球過ぎて飛躍しすぎているのだけど、おおむね間違いではない。
 私の不安が的中した、という意味では。
 彼女は勘が強い。そして、それと同じくらいには思い込みが激しい。
「いえ、そういう意味でもいいんです。友達として。それでもいいです。それでも先輩は、好きだったんでしょ?」
「‥‥それは、まあ、うん」
 そういう意味でもいい、と言われてしまっては、イエスと答える以外になかった。
 卑怯な手を使うようになってきた。
「じゃあ、今は?」
「‥‥今、か」
 正直な話、ずっと考えていた。
 今日だけじゃない。ここに来てみようと思ったときから、頭にあったのは彼女のことだ。
 何のためにここに来るのか。来たいと思ったのか。
 どんなに理由を見繕ったところで、結局のところはそれに行き着くのだ。
 連絡を取っているわけじゃないし、そもそも5年前に聞いた家の電話番号以外、私は彼女の情報を何一つ知らない。
 それでも私は。
 ここに来れば。
 彼女に会えるのではないかと。
 そんなことを思っていたのでは、なかったか。
「は‥‥女々しい」
 自嘲する。
 5年間、ほとんど忘れかけていた彼女のことを、ここに来た瞬間に思い出して、それでいてまだ好きだというのは、あまりにおこがましいのではないか。
 好きな相手なら、忘れることなどないはずなのだ。その証拠に、最初の3年間は新しいクラスメイトより彼女のことを最初に考えていたはずだ。
 それでも、この5年間は、彼女に思いを馳せることはなかった。
 ネットでたまたま、この小学校のホームページを見つけたりしなければ。
 それがきっかけで、またここに来てみようなどと思わなければ。
 きっと、思い出しはしなかっただろう。
「藍ちゃん」
「はい?」
「愛してるよ」
「‥‥はあ?」
「大丈夫。思い出に溺れたりしない。懐かしさに酔ったりしないよ。私は今に満足してる。こんなにも好きな人がいるんだし」
「何を‥‥急に」
 矛先が突然自分に向いたことに驚いたらしい。顔が真っ赤になっている。
 相変わらず、怒涛の展開に弱いやつだ。あと、クサいセリフに。
「実はね」
「なんですか?」
「なんでここに来ようと思ったのか、判らなかったんだ」
「はい? だってさっき、この小学校のホームページ見て、懐かしいと思ったからって‥‥」
「ああ、うん、きっかけはそう。でも、何というか、そう、目的。ここに来て何をしようと思ったのか、それが判らなかった」
「‥‥そうなんですか。それで?」
「だからね、今決めたよ」
「決めた? ――何に?」
「過去を振り返るのは、もうやめだ」
 昇りかけていた坂道の途中で、私はくるりと振り返った。
 小学校に背を向けて、坂を見下ろす。
 やっぱり、もう見覚えのない景色だ。
 見覚えがない景色の中にある小学校は、だから、見覚えのない小学校だ。
 名前が同じだけの、私とは全く関係ない小学校なのだ。
「帰ろう」
「えっ? 学校、寄っていかないんですか?」
「うん。もういい。もう判ったんだ。だから平気。あーあ、全く、こんなことに気づくのに、往復2300円は安くないな」
「そんなこと言ったら、わたしなんて‥‥」
「来ないほうがよかった?」
「え、いえ、それは‥‥そうは思いませんけど」
「うん。私も、藍ちゃんがいてくれてよかった。藍ちゃんのおかげだ。アイラブユー」
「‥‥下らない」
 一世一代の掛詞を一蹴されてしまった。
 彼女と手をつないで、坂道を降りる。
 途中、男女のカップルとすれ違った。
 その女性の姿が昔好きだった誰かに似ていたけれど、振り返ることはしなかった。
 私には、この手のぬくもりがある。それで充分だ。



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