演劇集団三色旗 第九回公演

キャラメル色の再会
-with a caramel-

[快刀乱麻][霧越藍×奈良原白夜]


「あれっ、もしかして奈良原先生?」
 座席は概ね埋まっていて、立っている乗客が一車両につき数人程度いるような終点間近の七時台の電車の中。
 そう呼びかけられて、私は振り返った。
 そこに、見慣れぬ高校の制服の上から女子高生らしい深紅のダッフルコートをまとった少女が、目をまん丸く開けて立っていた。
「‥‥?」
 私のことをそんなふうに呼ぶ子供はそう多くない。
 とはいっても、急に呼びかけられては咄嗟に誰だか思い出すこともできず、はたと私は沈黙した。
「あたしのこと覚えてない? あたし、霧越藍」
「‥‥霧越‥‥霧越さん?」
「そうそう!」
 少女は嬉しそうにはにかむと、彼女とはまるで対照的な、冴えないくすんだ色の私のコートに抱きついてきた。
「わ、久しぶりだな、先生。まさかこんなところで会えるなんて。今帰り?」
「ん? うん、まあね」
 私は周囲の、疲れきった人間が醸し出す独特のちくちくした空気に気を配りながら、心持ち小さな声で返事をした。
「霧越さんは? 部活?」
「‥‥へへ」
 何とはなしに聞いたのだったが、彼女は苦笑と言って差し支えないようなどこか陰のある笑い方をして、黙ってしまった。
 健康で健全な女子高校生がこんな時間にようやく帰途に着くことの理由を探ってみただけだったが、まずいことを聞いてしまっただろうか。
 と思った私の思考の中身が顔に出てしまったのか、私よりも五歳は年下の少女は、その両手の中に抱きとめた私の左手を更に強く抱きしめると、再び、困ったように笑った。
 どうやら彼女に気を遣わせたらしかった。
「‥‥先生、これから、時間ある?」
「え? ああ、えっと――」
 ふとこれからの予定を模索してみるが、特に差し迫った用事があるわけではなかった。
 というか、差し迫らない用事すらない。来週末までに提出するはずのレポートに取り組むことは、そもそも考えの中になかった。
「大丈夫だけど」
「じゃあさ、どっかでお茶しようよ。せっかく会えたんだし」
「‥‥あなたはいいの? 夕飯とか」
「ああ、平気平気。今日は外で済ますことになってるし」
 よく判らなかったが、彼女が大丈夫だというのならば大丈夫なのだろう。
 私が曖昧に頷くのとほぼ同時に、車内にまもなく次の駅に到着するという旨の放送が流れた。
 少なくともそこが私の最寄り駅でないことは判った。

   *

 この時間内に開いていてある程度時間に余裕のある場所というとファミリーレストランかファーストフードしか思い浮かばなかったが、幸いにもその駅前にはどこの駅にでもあるコーヒーショップが一軒あるだけだった。
 ちなみに私自身はラーメン屋だろうが牛丼屋だろうが立ち食い蕎麦屋だろうが一人で入ることに支障はないが、年頃の女子高生を付き合わせることが正しいことではないことくらいは理解できていた。
 どちらにせよ、そうした店は長居できるようにはできていない。
 大同小異の違いはあれ、駅前には人が密集するものだから、やがて日本中の「エキマエ」は全部同じ姿になるだろうという話を聞いたことを思い出したが、ここを見る限り、中途半端な田舎は発展することも打ち捨てられることもなく、とりあえずまだしばらくはこのままだろうと思った。
「スターバックスかぁ。入ったことないんだよね、あたし」
 そこしかなかったので自然と足が向いて二人で歩いている途上で、隣の少女がそう言った。
「どうして?」
「高いから」
「ふうん‥‥」
 私は首を捻った。奢って欲しいと遠回しに言っているつもりなら、あまりにも直球過ぎると思った。
「とりあえず、今日はその心配はいらないよ」
「奢ってくれるの?」
 少女はぱっと顔を綻ばせた。
「奢って欲しいんでしょ」
 私が呆れたように言うと、少女は恥ずかしそうに笑って、しかし私の申し出を断る素振りは見せなかった。
「あたし、キャラメルマキアートが飲みたいな」
 店に入るまでもなく、外に立てかけられていたメニュー看板に目をやった彼女は、まるで恋人にするみたいに私の腕に自分の腕を絡ませると、そう言って私を見上げてきた。
 なんだか不思議な照れくさい気分になって、私は適当に返事をして店内に入った。
 いらっしゃいませという挨拶が聞こえなかったが、もしかしたらただ私が緊張していただけかもしれなかった。
「じゃあ、その辺に適当に座ってて。注文してくる」
 彼女が私から離れると、私はレジに向かってキャラメルマキアートとエスプレッソを注文した。
 しばらく経って注文の品を手渡されてそれを手に持って店内を見渡すと、窓側の景色はよさそうだがちょっと寒そうな二人分の席を占領した赤い少女が、こちらに手を振っていた。
「お帰り、先生」
「はい、お待ちどうさま」
 私が差し出すと、彼女は律儀にもお礼を言ってそれを受け取った。あったかい、と小さな声で呟いた。
 その声に私は一瞬だけ心を奪われた気がしたが、気のせいだと思って彼女と向かい合う場所に座った。
 しばらく無言の時間が流れる。彼女は手にしたコップを両手で大事そうに抱えながら、時々飲んで、時々外の景色に目をやって、私のほうは無理して見ないようにしているような感じだった。
 何かを言いたそうな雰囲気は読み取れたので、私はエスプレッソをかき回しながら彼女が口を開くのを辛抱強く待った。
 五分ほどの時間を黙ったまま過ごしたあと、彼女が唐突に喋りだした。
「今日、塾だったんだ」
「行ってるんだ、塾」
 私が知っている塾は小学生と中学生を専門にする、私がバイトをしている塾だけで、私が知っている彼女はそこに通っていた二年前の中学三年生だけだった。
「うん。予備校」
 彼女は頷いて、どこかで聞いたことのある予備校の名を告げた。テレビCMか何かだろう。
「今日は何してきたの? 数学?」
 私は私の担当教科が数学と社会だったのでそう聞いたのだが、彼女はそれには応えず、いきなり肩を震わせて嗚咽を漏らし始めた。
「‥‥霧越さん?」
 私もさすがに驚いて、その場から動くこともできずに俯いたまま震える彼女を呆然と見つめていた。
「うん、平気。ごめんね、いきなり」
 少女はぐいっと涙を手の甲で拭うと、笑った。電車の中と同じ、苦しそうな笑顔だった。
「あはは、ダメだな、あたし‥‥先生の前なのに」
「‥‥いいよ」
 私は、できるだけ冷たく聞こえないように注意しながら言った。
「何かあったんだね。私でいいなら、話はいくらでも聞くよ。話せる気分になったら話して」
 お世辞にも上手な説得方法だとは思わなかったが、恋愛小説のように相手の心を射抜く言葉を紡ぐことは、私には過ぎた能力なのだった。
 私のそんな心配とは裏腹に、彼女は一分も経たないうちに自己を取り戻すと、私は泣いてなどいませんとでも言いたげな表情で私を真っ直ぐに見つめた。
「先生、中三のときのあたしのこと、覚えてる?」
「覚えてるよ」
 さっきまで思い出せなかったのは彼女が誰かという根本的な問題であり、それが解決した今、二年前の記憶が少しずつ蘇りつつあった。
「人懐っこかったよね。私をよく質問攻めにしてくれたし。スロースターターだけど、馬力は抜群だったな」
 例えば彼女がどこか別の、うちとは違う大手の学習塾に行っていたなら、合格体験談としてパンフレットに載っていてもおかしくないような、異常なほどの学力上昇を見せたのは事実だった。
 それが塾の実力というよりは彼女自身のエンジンのかかり方による変化でしかないということに気付いたとき、私はバイト暦二年目にして、学習塾講師の限界を思い知った気分になった。
「真面目な子だったと思う?」
「――やるときはやる子、だったかな」
 それがどこまでも月並みなセリフ以上の価値を内包しないことは痛いほど理解できたが、彼女はどうやらそれで納得したらしかった。
「お母さんも、おんなじようなこと言ってた」
「‥‥」
 地雷を踏んだらしいと直感したが、私は黙っていた。
「あんたはやればできるって。高校受験のときの追い上げを思い出せって。だから大学受験も頑張れって言うんだ」
 彼女は私のほうを見ようとしなかった。窓の外の十二月の寒い空気の中を、働きアリのようにせかせかと歩き回る人々をぼんやりと眺めていた。
 霧越さんは小さくため息をついた。まるで、ガラスの壁を隔てたこちら側と向こう側が、異世界であるかのような錯覚をうけた。
「まだ二年なのにね。三年になってからじゃ遅いのよって」
「――」
 それは確かにその通りだと思った。
 一般論でしかないが、虚偽は一般論にはなり得ないものだ。
「お父さんは、藍はスランプなんだって言うけど。そういうのじゃないんだよ。スランプって、最初からできる人が、急にできなくなるようなことを言うでしょ。あたし、最初からできなかったし。できるようになったのは、本当に偶然っていうか、別の理由があって――」
 彼女は探るように私の顔を覗き込み、続けた。
「とにかくね、そういうわけであたし――無気力症候群なんだ」
 これで何度目か判らない、救いようのないような笑い方を彼女はした。
 彼女は随分色んな鬱屈が溜まってストレスになっているんだということは私にも推測できたが、それは私がどうこうできる段階のものではない気がした。
 こういうのはスクールカウンセラーの仕事であって、自分の卒業すら危ぶまれている腑抜けた女子大生の領分ではない。
 しかしながら目の前の少女が困っていて悩んでいて相談する相手に選んだ相手が私ならば、私は是が否にでもカウンセラーにならなければならないようだった。
「霧越さんは――将来、何がしたいの?」
「わかんない」
 彼女は笑った。
「自分で考えてみたんだよ、どうして勉強してるんだろうって。仮に大学に入りたいからだとして、なんで大学に入りたいのかなって思ったら、そこで止まっちゃった。それで判ったんだ、あたし、大学に入りたいわけじゃないってことは」
「でも、他に見つからないんだね」
「うん」
 彼女はこくんと首を縦に振って、そこで初めて手にしているものに気付いたかのような顔で、キャラメルマキアートのカップを見下ろした。
「勉強の他は――学校の生活は、どう?」
「つまんない、かな」
 彼女はこくりとマキアートを一口流し込んだ。
「頭のレベルがついていけないとかは思わないんだけど、なんか違くて。これがあたしの望んでた高校生活なのかなー、とか思うと、悲しくなってきちゃったり」
 殊更明るく笑おうとしているならば、彼女のその手段は明らかな失敗だった。
「部活もつまんない。友達もつまんない。勉強も――むしろその中じゃ、勉強が一番面白いくらいなんだけどね。目的もないのにガリ勉しようとしても、うまくいかなくてさ」
「他に何か趣味があるの?」
「別に何も。最近本読むことが多くなったけど、面白いとも思わないし」
 どうやらクラスで孤立しつつあるような様子であることは想像できた。
「あたし、どうしたらいいかなあ、先生」
 彼女はテーブルにべちゃっと突っ伏して、片方の頬っぺたをつけて聞き取りにくい声で言った。
 私は数秒だけ逡巡したが、やがて意を決して、言うことに決めた。
「それはもしかしたら、相談相手が間違ってるかも」
「んー?」
「少なくとも、同じ悩みを抱えてる人間に模範解答を求めてもムダだよ」
「‥‥」
 彼女はゆっくりと顔を起こして、何か聞きたげに顔を傾げる。
 私は彼女が私に何を言わせたいのかは判っていたので、聞かれる前に答えることにした。
「今年で四年生なんだけど、私、実は卒業できるかどうかも危ないの」
「ほんと?」
「ほんと。去年とかずいぶんサボっちゃってね。サボったって言っても、何かやりたいことがあって理由があってサボったってわけじゃなくて、なんとなくやる気がでなくて、それだけ。一時間半かかる道のりを学校まで行って、図書館にだけ寄って黙って帰ってきたこともある」
 教室に行っていれば寝ていても単位はもらえた授業もあった。
 それでも行く気にならなかったのはなぜなのか、未だに理由は判らない。
「だからね」
 次の言葉は、私自身すら予期せぬ言葉だった。唐突といえば唐突過ぎる。無茶といえば無茶過ぎる。しかしそれでも、同じ悩みを抱える者同士、通じ合える何かがある気がした。
「霧越さんが高校出たら、一緒に暮らさない?」
「――は?」
 ドラマだったら、彼女は自分の持っているカップを落とすべきシーンのはずだった。
「私の家学生寮じゃなくてちゃんとしたアパートだから、大学生じゃなくなっても住めるはずなの。仕事はとりあえず大学の近くで見つければ、家に帰る必要もないし。霧越さんも一人暮らしできれば嬉しいんじゃない?」
「‥‥」
 彼女が何かを考えているような素振りを見せたが、私の口はもはや止まらなかった。
「学費は親御さんに出してもらわないと困るけど、生活費一般は私持ち。あ、でも、お小遣いがほしかったらバイトしてね」
「あの‥‥」
「ルームシェアってのもいいかもしれないね。もちろん、キミがまともに仕事できるようになってからだけど」
「せんせ‥‥」
「あっ、さすがにそんな先まで一緒にいるのはイヤか」
「イヤじゃない!」
 それはあまりにも大きな声で、さして広くない店内が一瞬静まり返るような衝撃だった。
 いぶかしむような視線がしばらく私たちに向けられたが、それが止んだころ、彼女と私は声を漏らさずに同時に笑った。
「いいよ、先生。面白そうだね」
「そう? でも、ご両親に了解とらないと」
「平気だと思うよ。大学入るなら一人暮らしさせてやるって言ってるし。でも、生活費はワリカンだよ。全部先生持ちとか言ったって、お母さんは許さないはずだもん」
「そう?」
 確かに、親としてはあまり気分の良いものではないかもしれないとふと思った。
「いよっし!」
 少女は突然立ち上がり、ぐっと両手を天井に伸ばした。
「やる気が湧いてきたよ、先生!」
「それはよかった」
 やる気が湧いてきたのは私も同じだったが、それは言わなくとも彼女に伝わっている気がしたので口には出さなかった。
「そだ、先生、メールアドレスとか電話番号教えてよ。これからちょくちょく会いたいし」
「ん――ま、いっか」
 生徒とのプライベートな付き合いは慎めと言われたが、元生徒については言及されていなかったことを思い出して私は同意した。
 彼女が私の携帯のディスプレイを睨みながら私のアドレスを登録している間、私は彼女との二人暮しについて色々とこっ恥ずかしい想像というか妄想に駆られていた。
「はい、ありがと、先生。あとでこっちからメール送るよ」
「了解」
「それから先生、これ、ごちそうさま」
 言って、彼女はキャラメルマキアートの入っていたカップを小さく掲げた。
 私はどういたしましてと返事した。

   *

 店を出て駅に向かう道すがら、私は彼女に聞きたかったが聞けずにいた、気になることを聞いた。
「高校受験のときに勉強頑張ったのって、今の高校に行きたかったからじゃないの?」
「専門学科があるわけじゃないし、普通科なんてどこも同じだと思ってたよ」
「じゃあ、どうして――」
「聞きたい?」
 少女は、私よりも一歩前を歩き、くるりとコートを翻して振り返った。
「‥‥教えてくれる?」
「あたしが大学入ったらね。先生と同じ大学に」
 ちょっとだけ悪戯っぽい、少女特有の笑みを浮かべて、彼女は言った。
 年相応の、幼さの残る可愛い笑顔だった。
「これから‥‥」
「ん?」
 独り言のつもりだったが意外にも彼女が反応してくれたので、一息置いてから続けた。
「あなたのことを思い出すたび、あのキャラメルマキアートの甘い匂いを思い出すかもね」
「‥‥」
 彼女は目をぱちくりと瞬かせ、にこっと笑った。
「それ、あたしも同じこと考えてたよ、先生」
 霧越さんが、私の右手を取って両手で暖めるようにして握り締めた。
 ほんのりと暖かくて、少し冷たかった。



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