第一部 |
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「藍、早く寝なさい?」 「まだ眠くないよう」 「ダメよ、早く寝ないと、魔女がやってくるのよ」 「魔女?」 「そう。魔女。村の外の森の奥には、怖い魔女が棲んでいるの」 「うそだぁ」 「嘘じゃないわ。本当よ。その魔女は、普段は暗い部屋の中にいるんだけど、時々、夜になると外に出てくるの」 「夜になると?」 「そう。ちょうど今日みたいに、月の出てない暗い夜にね」 「うう‥‥」 「そしてね、魔女は、夜になっても起きてる子供を見つけると、魂を吸い取ってしまうのよ」 「たましい? 吸い取られるとどうなるの? 死んじゃうの?」 「死んじゃうの。ずっと昔、夜中にこっそり家を出て、魔女に会いに行こうとした子がいたんだけど、その夜に、どこかへ消えちゃったのよ」 「ええっ? 魔女に食べられちゃったの?」 「どうでしょうね? まだ見つかってないから、お母さんにもわからないわ」 「えええっ‥‥?」 「さあ、寝なさい、寝ないと魔女がやってくるのよ?」 「‥‥おかあさん」 「なに?」 「怖くて眠れないよう」 「‥‥あら」 それから私は、毎晩のようにお母さんから、魔女の話を聞いていた。 そして、そのたびに怖くなって、お母さんに抱きつかないと眠れなくなった。 ――私の目が、光を見られなくなるまで、ずっと。 * * * 森の奥には、魔女が棲んでいる。 魔女は、人の魂を吸って生きている。 だから、魔女は、決して死なない。長い間、生き続けている。何十年も、何百年も。 村の人々が、恐れて近づかない森の奥深く。 そこには木で立てられた小屋があり、そこには確かに魔女が棲んでいた。 * * * 「ただいま戻りました‥‥」 「遅いわよ節穴! どこで道草食ってたの!?」 「ご、ごめんなさい! 途中で転んでしまって‥‥」 「そんなの言い訳にならないわ! ‥‥ああっ、なんてこと! お母様、お母様!」 勝手口から帰ってきた私を出迎えたのは、どうやら台所に立っていたらしいお嬢さまだった。 お嬢さまが奥さまを呼ぶと、どすんどすんと大きな音を立てて、奥さまが勝手口までやってきた。 「どうしたの?」 「見てお母様。節穴ったら、また道端で転んでお野菜をダメにしてしまったのよ」 「まあ!」 「そんな‥‥お野菜は綺麗なはずです!」 「お黙り。めくらのお前にそんなことが判るわけないでしょ!」 判る。判るのだ。 なぜなら、転んでしまったのは八百屋さんのすぐ目の前で、だから私が転んだのを八百屋のご主人が見ていた。 そして、汚れてしまった野菜のかわりに、新しくて綺麗な野菜を頂いてきた。だから、汚れているはずがない。 「どうしましょうお母様。こんな汚い野菜では、美味しい夕飯なんてできませんわ」 「しょうがないわね。余っているお肉を使って夕食にしましょう」 「はい、お母様。‥‥あ、でも、お母様? お肉、あまり残っていませんわよ?」 「そう。じゃあ、藍」 「は、はい」 「お前の夕飯は抜きです。部屋に戻っていなさい」 「あ‥‥」 手からバスケットをひったくられる。 商店街からここまでずっと持ってきた野菜の重みがなくなって、とたんに不安になってくる。 「あ、あの、奥さま!」 「なによ、うるさいわね」 「そのお野菜、どうするのですか?」 「ん? ああ、こんな汚い野菜、捨てるしかないでしょ、そんなことも判らないの、このグズ!」 「‥‥っ」 蹴り飛ばされるかと思ったけど、どうやら無事に済んだようだ。 思わずびくっと身体を縮こませてしまった。そのさまを笑われているような気がして、恥ずかしくなった。 「あの、捨てるのでしたら、私にいただけませんか? お野菜、私が‥‥」 「ふざけたこと言ってるんじゃない! 夕飯は抜きだって言ったでしょ! お前なんかにやるものなんかないのよ!」 頬を張られる。 ばちぃ、と、皮膚が裂けそうなほどの痛みが走る。 「ほら、判ったら、さっさと部屋に戻りなさい。明日はいつも通りの時間に起きて、きちんと朝ごはんを作るのよ!」 「は、はい‥‥お休みなさいませ‥‥」 寝る間もなく働かされるのも辛いけど、まだ日も落ちきっていないこんな時間に寝かされるのも辛い。 指定された時間に起こされることは苦にならないから、全部が全部嫌だってわけでもないけれど。 私は、3年い続けて、もうすっかり慣れてしまった階段を上り、屋根裏の自分の部屋へと戻っていった。 「‥‥寒い」 奥さまやお嬢さまの前では、決して口に出せない弱音。 怒られるから、じゃない。負けた、と思いたくないのだ。 私は決して、暴力なんかに屈さない。 お母さんが言ってた、決して人を恨んではいけない、でも決して負けてはいけない。 心が折れなければ、どんな酷い目にあっても、絶対にあなたは負けない。だから、心を折ってはいけない。 ドアを閉めて、地面を擦るように歩いて、床までやっとのことで辿り着く。 この部屋に窓があるかどうかさえ判らない。あったところで、私の目に光は届かないから意味もない。 紙切れみたいに薄っぺらい布団に横になる。背中がごつごつして痛いけど、その痛みにすら慣れてしまった。 枕元に手を伸ばせば、小さな板の入った袋がある。私のお守りだ。 中には、お父さんとお母さんを描いた絵が入っている。 そして、お母さんの形見の、婚約指輪。お父さんから貰ったものだ。 「お母さん‥‥」 お守りを抱いて、猫みたいに身体を丸くする。 それだけで、昔そうしてもらったみたいに、お母さんのぬくもりを思い出す。 魔女の話をしては、私を怖がらせていたお母さん。 でもきっと、お母さんは気付いていない。 私が夜更かしを続けたのは、お母さんに魔女のお話をしてもらって、怖くなったと告げて抱いてもらうのが好きだったから。 何度も何度も聞いているうちに、魔女の話は怖くなくなっていた。 お母さんが抱きしめてくれる魔女の話を、私は楽しみにしていたくらいだ。 だから私は、ゆっくり、ゆっくりと。 お母さんの声、魔女のお話を思い出しながら、眠りに落ちていく。 * * * 魔女は、森に迷い込んだ者を連れ去り、魂を吸い取ってしまう。 けれど、魂を吸い取られなかった者も、中にはいる。 そういう者たちは、無事に帰ってこられるかというと、決してそうではない。 魔女は、連れ去った者たちを相手に、魔法の実験をするという。 どこかに瞬間移動させたり。 動きを止めたり。 動物に変身させたり。 魔女は、魔法が得意だから。 * * * 目が覚めたときに真っ暗。 そんなことにも、もう慣れた。 それでも、夢は見るから、不思議だ。 私は起き上がって、ゆるゆると着替えを始めた。 外が何時だかなんて、判らない。 それでも、長い間の習慣が、私を自然に、この時間に起こしていた。 「藍、朝ごはんはまだなの?」 「もうすぐできますから‥‥」 「早くしてよね、もうお腹ぺこぺこ。飢えで死んだら藍のせいだからね!」 このおうちには、奥さまと旦那さまと、その娘であるお嬢さまの3人が住んでいる。 奥さまは、私のお父さんの妹。だから、この家族は私の親戚ということになる。 3年前、盗賊に襲われて両親を失い、また私自身、光を失ったとき、唯一の親戚である奥さまが、私を引き取ってくれた。 だけど私は知っている。 奥さまは、お父さんの財産が欲しかったんだ。それだけなんだ。そのために、私を引き取ったんだ。 だから、私は、言ってしまえば邪魔者でしかない。 それでも財産のためには私を手放すわけにはいかないから、表面上は、優しくしている。 それは例えば、私が買い物にでかけたときなんかに、判る。 奥さまは、普段から私を、できの悪い子だと言いふらしているらしい。 そんな私を引き取った自分は、寛大で優しいのだと。だから、莫大な財産を貰うのも正当なのだと。 「お待たせしました‥‥」 台所からリビングまで、食事を運ぶのも慣れてしまった。 未だに少しふらふらするけど、前みたいに転んで落としたり、こぼしてしまったりすることもない。 もっとも、こぼすたびに叩かれて蹴られていたら、嫌でも身につく。 「あら、なにこれ、目玉焼き?」 「はい。今朝、生まれたての卵を頂いたので‥‥」 「わたし、今日、目玉焼きって気分じゃないのよね。スクランブルエッグにしてくれない?」 「で、でも、卵はそれで全部で‥‥」 「アンタのぶんがあるでしょ! それでスクランブルエッグ作って。早く」 「はい‥‥」 「あ、この目玉焼きは、チカラにでもあげてくるわ」 「まあ、優しいのね、さすがうちの子」 お嬢さまは、事あるごとに私をいじめる。 もう、それが趣味なんじゃないかと思えるくらい。そして、それはたぶん正解だ。 学校でも、さぞ私のことをひどくなじっているに違いない。 ちなみに、チカラというのは、奥さまたちの飼っているペットの犬。 どんな犬種だとか、色や毛並みだとか、そういうことは判らないけれど、とても大きくて凶暴な犬だ。 私なんかじゃ、手に負えない。餌を持っていこうとして、襲われたことが何度もある。 お嬢さまの言葉から、今日は私が餌を持っていく必要がないことを知って、心の中で安心した。 もしかしたら、昨日の夕食を抜かれた私が、チカラの餌を食べるかもしれないと思ってるのかもしれなかった。 「あ、そうそう、ねえ、節穴」 お嬢さまは、私を名前では呼ばない。 ものが見えていないことを『目が節穴だ』と表現する、という比喩を学校で習ってから、好んで「節穴」という呼び方をする。 でも、確かにそれは、すごく正しい気がする。 節穴は、開いているのに役に立たない。私の目は、ついているのに役に立たない。 「はい、なんでしょうかお嬢さま」 「今日の放課後、うちに友達が遊びに来るから、部屋、掃除しといてね」 「はい‥‥判りました」 お嬢さまは普段、お部屋に私を入れようとしない。 掃除のときにだけ特別に、入ってもいいということになっている。 今日はその、特別な日らしい。 「それから、失礼のないように、あなたは友達が来てる間、部屋には来ないでね。呼ぶまでは」 「判りました‥‥」 私は特に何を考えることもせずに、ぺこりと頭を下げた。 この言葉がどういう意味なのか、今ここで考えていれば、あんなことにならずに済んだかもしれないのに。 * * * 魔女は魔法の研究を続けていた。 何年も、何年も続けていた。 もはや、自分がいつから始めていたのかすら覚えていない。 今がいったいいつの時代なのかも、判らない。 ここがどこかも判らなかったし、自分が誰なのかも記憶になかった。 彼女は、自分の名前さえ忘れていた。 だから、このくらい小屋の中で、彼女以外に呼吸する唯一の生物である、黒い子猫にも、名前をつけることなどしなかった。 しようとも思わなかった。 ただ、魔女と子猫は、そこにいた。それだけだった。 何年も、何年も。 何十年も、何百年も。 年をとることも知らず。 老いがくることも忘れ。 ただ、生き続けていた。 * * * お嬢さまがお客の少女たちと部屋で騒いでいる頃、私は外の庭園で、ハーブを摘んでいた。 どれが今夜の料理に合うか、どれが部屋の香りに適しているか。 目が見えなくても、それくらい、匂いで判るものだ。 視力がなくなったぶん、他の能力が少し鋭くなっている。 匂いだけではない。音にも、触れた感覚にも、味にも敏感になっている。 だから、摘んだハーブは、少しかじってみれば、それだけで全部判るのだ。 「あ、いたいた、おーい、ふしあなー」 ふと声がして、私はハーブを摘む手を止めた。 柔らかく流れる風の音。その向こうに、幾人かの吐息が聞こえる。 その一人――さっきの声は、お嬢さまだ。 落としていた腰を上げ、声のする方向に顔を向けて、私は返事した。 「はい、お嬢さま?」 「すごい、見えなくても判るんだ」 「耳がいいのかな?」 「あんなの、気持ち悪いだけよ」 聞きなれない少女たちの声に混じって、お嬢さまの侮蔑するような吐き捨てるような声が聞こえた。 悔しかったけれど、ぎゅ、と口の中で歯を食いしばって、決して表情には出さない。 お嬢さまも奥さまも、たぶん私のことを、何でも言うことを聞く、従順な機械だと思っている。 だったら、それに徹してやろう。そう思っていた。 「こっちよ、節穴」 声がする方向は、少し高い場所にあるらしい。 と思って、気付いた。 この高さは、お屋敷の2階よりも更に高い。 お屋敷の中で2階より上にある場所といったら、天井か、天井裏しかなかった。 お嬢さまは、そのお友達は、なぜか知らないけれど、みんな揃って私の部屋にいるのだ! 絶対にお嬢さまが近寄ろうとしなかった私の部屋に、なぜ、みんなで? 「チカラー。チカラ、おいでー」 お嬢さまは、次に犬のチカラを呼んだ。 私に作業を中断させておいて、何もせずにチカラを呼ぶ。 そのことに首を傾げるよりも先に、私はびくりと身体を震わせてしまった。 チカラは怖い。私が目が見えないということと、この家で地位が最も低いことを理解しているらしいチカラは、3年経った今でも、私に対して強暴だった。 むしろ、最近特に激しくなってきた気がした。 しばらく経って、犬小屋から走ってきたのだろう、息も切れ切れになったチカラの声が聞こえてきた。 「チカラー。いくわよー」 突然、お嬢さまがそんなことを言って、ひゅん、と風を切る音がした。 ぽとりと落ちた何かの近くに、チカラが歩み寄っていく。ハーブを踏み荒らすぐしゃぐしゃという足音。 「節穴、アンタにも落とすからね、ちゃんと取るのよ」 「えっ?」 チカラに投げたものよりも幾分か重そうな音を立てて落ちてきた何かが、私の頭に当たった。 当たった瞬間、天井裏辺りからお嬢さまたちの嘲笑が響いてきた。 「それ拾ってごらーん。何だか判るかなー?」 足元に落ちたそれを手に取る。目が見えないぶん感覚が鋭くなったおかげで、少し手を伸ばせば掴むことができた。 これは何だろう。 そんなに大きくない。手のひらに乗るサイズだ。 一言で言うと円錐。尖ったほうの先に、細い糸がついている。 「その紐、思いっきり引っ張ってみなさい!」 「‥‥」 ぱぁん! まるで銃声。 びっくりして、手にしていたそれを取り落としてしまう。 と同時に、驚いたような声を上げてチカラが走り去る音が聞こえた。 「あはははは!」 私の挙動がずいぶんおかしかったのだろう、上から降ってくる笑い声は、しばらく止まなかった。 「チカラ、森に入っていっちゃった」 お嬢さまが、ひぃひぃと喉を震わせながら言った。 「あのぶんじゃ、ずいぶん奥まで行ったんじゃない? 大丈夫なの、森に入れて?」 「平気平気。あんな犬、またお母様に買ってもらうもの」 お世辞にもチカラは忠実な犬だとは思わなかったけれど、まだ懲りていないらしい。 チカラも不憫だ。それに、次に来るだろう犬も。 私は動物が嫌いじゃない。チカラは苦手だったけど、それでも、動物は好きなほうだ。 次の犬は、優しいのだといいな、と思った。 「あ、そうそう、節穴」 「‥‥?」 ふと思考を止めて耳を澄ます。そんな私に、お嬢さまは笑いながら、とんでもないことを言った。 「さっきチカラが咥えてたの、アンタの汚い布団の枕元にあった、変な布袋よ」 「――え?」 「チカラは帰ってくるかもしれないけど、あんなちっちゃな袋、絶対途中で落としてるはずよ。ごめんね、大切なものだった?」 けらけらと笑いながら、そんなことを声高らかに宣言するお嬢さま。 けれど私の耳には、そんな言葉など届いていなかった。 今、お嬢さまは、何と言った? チカラが、持っていたのは、枕元にある、袋? それって、つまり、お母さんと、お父さんの、 だから、その、 あれは、 私の、 お守りだ。 「――!」 気付けば私は、脱兎の如く走り出していた。 チカラが向かった方角へ。大事に育てたハーブたちを無残に散らしながら、無様に走った。 「気をつけてね、節穴! 帰ってこなかったら、森に逃げたって言っておくわ!」 お嬢さまのそんな声が、小さく耳に届いた。 私は、走っていた。 木々に入って、枝葉にぶつかり、幹に遮られ、根に転びながら、走っていた。 知らず知らずの間に流れていた涙をぬぐうこともせずに、ひたすらに、走っていた。 * * * 魔女は、滅多に外に出なかった。 日の光が苦手だった。 もちろん、浴びると溶けてしまうとか、そういう妖怪みたいな必要条件によるためではない。 ただ、断罪されているようで、嫌だった。 この世に正義と悪があるように、この世に光と闇がある。 悪が滅びるべきであるように、闇は嫌われるべきである。 ならば自分は、決して正義ではないし、決して光の住人ではない。 自分の目的のために他人を貪り、制圧して、闇の中に生きている。 だから、決して光とは相容れない。 光は、闇たる自分を、断罪している。 お前の棲む世界はここではないと、もっと薄暗く湿った闇であると、糾弾している。 だから、光が嫌いだった。 とはいっても、ずっと闇に篭っているわけにはいかない。 彼女とて日用の食事は必要とするし、たまには光を浴びてみたいなどと、気まぐれなことを思うこともある。 ごく普通の人間が、闇や悪に憧れることがあるように、彼女も光を欲することがある。 一週間ぶりの直射日光は、肌を刺すようだった。 魔女は、全身を真っ黒のローブで覆っているが、その肌は抜けるように白かった。 日に当たっていないのだから当然であった。 魔女はつばの広い三角帽子を被り、目を細めて天を仰いだ。 「‥‥だから昼は嫌いだ」 遠出をするときは、夜より昼がよい。 夜に出歩くと、獣たちに襲われるからだ。 野生のものに負けることはありえないと思っているが、無駄に殺生をするのは趣味ではない。 ものを殺すのは、どうしても身を守るために必要なときか、あるいは、食べ物として自らの糧とするときのみ。 そのように、師匠から教えを受けていた。 だから、殊更身を守るために殺さなければならない状況に会いたくなどなかった。 そのためには、昼のほうが都合がよいのだ。 それに、遠出といっても、森の中の結界を確認するだけだ。 よほどのことがない限り、小屋を認識されない不干渉の結界。 それでも間違ってやってくる人間が数十年に一度ほどいるにしても、結界を確認しないことは死を招く。 魔女などというものが人里近くに棲んでいられるのも、その存在が、人間にとって「伝説」としてしか認識されていないためだ。 本当にいるかどうか判らないものに対して、わざわざ探索や討伐に出るほど、この辺りの人間は戦好きではなかった。 「‥‥?」 小屋を囲む8つの結界を大方確認し終えたとき、ふと違和感が生じた。 結界に生じたわけではない、恐らく、それよりは外側に、何かが侵入した。 森の中といっても、全てが魔女のテリトリーではない。 人間も、木々の隙間から集落が見える辺りまでは、入ってくることがある。 だからその辺りに視野を広げることはしなかったが、それ以上進むと結界に触れる可能性がある場所に、何かがいた。 生き物だ。 まっすぐに、小屋に向かっている。 気配は多くない。討伐に来たにしては殺意もない。 首を傾げながら、魔女は木々を抜け、小屋へと戻った。 小屋に着くと、入り口の扉の前で、黒猫がまどろんでいた。 冬場にしては太陽も照り暖かい気候だとは思っていたが、呑気なことだ。 近づいても一向に動こうとしない。というより、起きてすらいない。 すぐ近くまで寄って片足を振り上げてみるが、黒猫は魔女を完全に信頼しきっているように、微動だにしない。 魔女は諦めて、肩をすくめた。 杖のひとつなくとも、侵入者をどうにかするくらい簡単だ。ただ、疲れるだけで。 魔女は黒猫の前に立ち、気配をする方角をまっすぐに見つめた。 生い茂る緑の暗がりの奥から、草木を蹴散らす音がする。 「‥‥獣か」 野生ではない。家畜か愛玩か、どちらにせよ、あまり躾のよろしくない家に住んでいるようだ。 低木の幹を折るばきばきという音が響き、茶色い大きな犬が、小屋の前の広い場所に現れた。 短い間隔で呼吸し、口からだらだらと涎をこぼしている。 飼い犬だ。それも、野生より遥かに腐った環境で暮らしていたようだ。自分に勝てるものは何一つないという目をしている。 こういうときにも眠れる根性は豪胆というのか鈍感というのか、気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らす黒猫に、魔女は呆れを禁じえない。 飼い犬は、地の底に響くような唸りを上げ、魔女を威嚇する。 対する魔女は、全くの無感情、無表情で、黙って犬を見下ろす。 ぴんと尻尾を立て、前傾姿勢になって、飼い犬が魔女を睨む。 そのまま睨みあう状態が続いた。 魔女が、ほんの少しだけ、足を動かした。地面の砂が、じゃりと音を立てる。 犬が怯えた。軽く数歩は後退して、半ば草木の間に身体を隠すような形になった。 思わず逃げた自分を恥じたのか、犬が地面を蹴った。 城門をこじ開けるために大木をぶつけるような勢いで、犬が魔女にまっすぐ飛んでいく。 魔女は一歩も動くことなく、左手をかざして。 犬の首を、下から捉えた。 首根っこをつかまれ、釣らされた犬が後ろ足をばたつかせる。 魔女はなおも無表情のまま、一分の遠慮もなしに、思いっきり近くの巨木に投げつけた。 およそ生物の放つ声とは思えない呻き声をあげ、犬はずるずると地面に落ちた。 魔女は倒れた犬を一瞥すると、左の掌に視線を落とした。 鼻先に持ってきて、匂いをかいでみる。愚劣な獣の匂いだった。 洗い流そうと井戸に歩み寄ろうとして、 「――?」 そこで、感じた。 結界を踏んだ者がいる。 魔女の結界は、高レベルのものではない。 踏んだところで、感電したような衝撃を受けるか、悪くて気絶する程度だ。 この辺りには動物が多いから、結界の自動反撃に反応するのは人間だけだ。 「‥‥アレの飼い主か」 井戸のそばに置かれた桶には、水が溜まっていた。 それに手を突っ込み左手を念入りに洗うと、魔女は帽子を被りなおして、新たな侵入者のもとへと向かった。 犬を隠そうとも思ったが、どうせこの森に入った段階で、死は覚悟しているはずだと思い直し、やめた。 そして魔女は、草花の間に倒れこむ少女を見つけた。 |