演劇集団三色旗 第三回公演

人生最大の苦悩
-to be, or not to be-

[天衣無縫][霧越藍×奈良原白夜]


 帰らない、と決めた。



 雨。
 終電。
 明日の授業は重要度が低い。
 なんて言い訳してみたって、結局、私がしたいことはひとつだ。

 彼女のそばに、いたい。

 一度そう決めると、なんだか心のつかえが取れたようにすっとして、とたんに楽しくなった。
 今私は、彼女の家にいるのだ。
 そのうえ、彼女は目下睡眠中。
 それはつまり、彼女の寝顔を好きなだけ眺めることができる――というだけじゃない。当たり前だ。それ以上の境地へとたどり着ける可能性があるわけだ。
 どくん。
「――っは」
 一瞬、息が止まるほどの鼓動。
 それは、表現するならば、スリル。
 こんな緊張感は、生まれて初めてだ。
 もしかしたら、もういたずらの領域を超えているかもしれない。
 一歩間違えば、犯罪になりかねない。というか、私の中では既に犯罪行為を行っているくらいの背徳感が生まれていた。
 彼女の眠るベッドの脇に、膝を立てて腰を落とす。
 小さな寝息が耳まで届く。窓の外に降る雨は、この部屋だけを外界と遮断しているバリアのようで。
 私は、震える右手をゆっくりと彼女の頬に伸ばして、体温を感じる距離まで近づけた。
「‥‥ただ触るだけなのに」
 ごくっ、と喉がなる。雨の音より彼女の寝息より、自分の心臓がうるさかった。
 伸ばした手を、彼女の頬に。落とす。
 よくシルクのように滑らかだとか、もちもちした若い肌とか言うけれど、この感覚は、表現するならそう――。
 ふわふわしている。
 幼い頃、露店でひよこ売りを見かけたことがあったことを、唐突に思い出した。
 そう、そういえばあのとき、その段ボールからひよこが数羽、逃げ出したんだ。
 そのうちのひとつを捕まえようとして、よちよち一生懸命歩く彼らの一羽を両手で掬うように持ち上げたとき。
 あのふわふわ感だけは、忘れられなかった。
 そして今、それが目の前にある――。
「‥‥」
 また喉がなった。
 と同時に、まるで一人でコックリさんをしているときみたいに、手が勝手に動いた。
 彼女の頬に触れていた人差し指と中指が、ゆっくりその顎のラインをたどって、やがて規則正しい呼吸を続ける口元まで伸びていく。
 自分の息が荒くなっているのがわかる。なんで私、こんなに。
 私の指を操る、本能という名の無意識は、一瞬のためらいを見せながら、指を彼女の薄紅色の唇、その右端に触れさせた。
「――っ」
 背筋が総毛立つ。イヤなんかじゃない。正反対の感覚だ。いけない。これは危険すぎる。
 わずかに残った理性がそんなことを叫んでいるのを、本能は完全に無視していた。指が上唇を滑る。
「ん‥‥」
 その喉の奥から、小さく喘ぐような声。びくっとして、指が止まる。
 彼女の唇がまた決まった音律で寝息を奏ではじめるまで、私はそのまま、時間が凍りついたかのように微動だにしなかった。
 ゆっくりと指が動く。向かって右側からじりじりと移動してきたそれは、ゆったりとしたペースで反対の端までたどり着く。
「‥‥ふぅ」
 ため息をつく。それでも、私の指は彼女の唇の端から離れなかった。離れがたかった。離れられなかった。
 ふと思いついて、それをしてみることにした。
 あとは真っ直ぐ指を横に引けば彼女の下唇を撫でられる位置に指を置いて、私は目を瞑った。
 どくん。
 心臓が破裂する、なんていう比喩、本当に使う機会があるとは思わなかった。
 高校の頃にやらされた十キロマラソンなんか、このどきどきに比べれば子供の遊びだ。
 感覚を一つ奪われたせいで、別の感覚が強くなる。
 聴覚。彼女の寝息と雨の音。
 嗅覚。香水なんか野暮なものじゃない、彼女自身の香り。
 味覚。自分の汗が口にまで流れてきているようで、しょっぱい感じさえした。
 触覚。全てはそこに集約されていた。
 目を瞑ったまま、指を横に引く。ゆっくりと、ゆっくりと。
 彼女の唇の感触をイメージする。自分の指が、自分の唇になることを想像する。悪寒にすら似た快感が走る。
 そしてその指がちょうど下唇の真ん中あたりまできた瞬間。
 何か、生暖かいものにくるまれた感触がして。
「――え」
 目を開ける。
 私の指が、彼女の口の中に入っていた。
 それだけじゃない。
「うあ」
 思わず悲鳴。いや、嬌声かもしれない。
 私の視界から隠れてしまった私自身の指が、ぬるっとした何かに触れた。それは、私の指を愛撫するように撫でまわし。
 ゆっくりと視線をずらすと。
 奈良原白夜が、うっすらと目を開けて、こちらを見つめていた。
「‥‥」
 時が止まる。感覚が消える。思考が閉ざされる。
 ただ、右手の二本の指に、これまで感じたことのない異様なまでの快楽を得ていた。
 ちゅる、ちゅる、と、聞きなれない音。でもそれは、明らかに、私の快感と連動していた。
 二つの指の間を、なにかが通った瞬間。
 私は、達した。
「――ッ!」
 と同時に指を引く。ちゅぱ、という、卑猥な音が耳についた。
「‥‥」
 しばらく、私の荒れた吐息だけがその部屋を占領していた。
 やがて私がぼんやりとした頭の霧を払うように頭を振ると、それを見計らったかのように、私じゃない唇がこう告げた。
「えっち」
 その声色がまた背筋を撫でた。
 視線を動かせば、彼女はベッドに横になったまま、こちらをじっと見つめていた。
 さっきまで私の指が入っていた唇は、蟲惑的にしっとりと濡れている。
「あ‥‥」
 声が出ない。喉がからからで息もできないくらいだし、そもそも何て言っていいのかわからない。
 ただ、彼女の唾液に濡れた右手の指をぼんやり見つめていると、魅惑的な衝動に襲われた。
 ――それを、口に含んでみたい。
 濡れててらてらと光る自分の指を、私は恍惚の表情で見つめているのだ。
「気持ち、よかった?」
 彼女が言った。その口元は妖艶とすらいえる。
 私は、こくんと頷いていた。それを見て彼女も満足したのか、
「よかった」
 目を細めて、そう呟いた。
「‥‥奈良原、さん」
 私がやっとそれだけを告げると、
「なっちゃん」
「え?」
「なっちゃんって呼んで。そんなに他人行儀にしないで」
 彼女が、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
 私はそれに触れることもそれを振り払うこともできずに、されるがままになっていた。
 いつか私自身がそれを白魚のようだと表現した指が、私の頬を撫でる。
「あいちゃん‥‥」
 彼女の唇から漏れる、聞きなれない呼び名。それが私のことだと気付くまで、数秒のロスがあった。
「――え?」
「夢かな‥‥あいちゃんがわたしの目の前にいるなんて‥‥」
 そんな名前で呼ばれたことなど、これまでの短い人生で一度として存在していない。
 私は、彼女の口から告がれるその名前に、自然に反応していた。それは私だと。私以外にないのだと。
「夢でも、いいや‥‥初めてなんだもん、こんな近くにあいちゃんがいるの‥‥」
 その笑顔は、本当に夢の世界にいるかのように、とろんとした極上の笑顔だったから。
 私も唐突に、これは夢なのかもしれない、なんて思った。
「そうだね‥‥夢かもしれない」
 私はそんなことを言っていた。現実味がまるでない。頭に霞がかかったようだ。
「夢でもいいよね‥‥」
「‥‥うん」
 私は、ぼうっとした頭のままで、ゆっくりと彼女のベッドに上がった。
 これがもし、一夜の夢幻なのだとしても。
 こんなに幸せなことは、二度とないと思った。



 ふと目を覚ました。
 私にしてみたらありえないくらい、寝覚めがよかった。
 ぼんやりと見上げる天井は見知らぬもので。
 隣に感じる寝息は、ああ、やっぱりそういうことなのか、って。
 嬉しくなって、猛烈に外を駆け回りたくなって、私はベッドから起きだした。
 そういえば、ここに来る途中にコンビニがあったはず。
 普段どういう食事をしているのか判らないけれど、とりあえず今日は、それでいっか。
 玄関の戸を開ける。
 夜のうちに止んだ雨はすっかり空気中のゴミを洗い流したみたいで、空気はとってもきれいだった。青空も明るかった。
 こんなに満ち足りたのは、生まれて初めてかもしれない。



 何が好きなのか何が嫌いなのかよく知らなかったから、私は適当に、おにぎりとサンドイッチとコーヒーとお茶を買った。
 朝はご飯派でもパン派でも対応できるように、だ。
 部屋に帰って戸を開けると、奥から衣擦れの音がする。起きたのかな?
「おはよう」
 と言いながら、顔をあわせないように視線を外して部屋に入った。
「‥‥」
 なんというかとても決まりが悪いというか、こんなにも恥ずかしいものなのかなと思っていると、彼女はこちらを見つめたまま、何も言ってこない。
 不安になってちらっと横目で彼女を見れば、
「‥‥」
 一糸まとわぬ姿の上に夏がけの毛布に包まって、彼女がこちらを真っ直ぐ見つめていた。
「‥‥ど、どしたの」
 思わず不安になってそう呟いた私に、彼女はあろうことか、
「霧越さん?」
「え――」
 まさか。
 いや、でも確かに、彼女は昨日ずいぶんとお酒を飲んでいた。前後不覚になるくらい。
 隣にいた私が、この子お持ち帰りされるんじゃないかって思うくらいに飲んでいた。
 ということは。
 記憶がなくなっていても、それはありえることで‥‥。
「あ、いや、えっとその」
 だったら、私だけが覚えているなんて不公平きわまりないだろう。
 私は、ちょこんと首をかしげて私の動揺を見つめる彼女の視線から逃れようとして、部屋をうろちょろしながら、どう言い訳したものか考える。
 こんなの、典型的な送り狼じゃないか。羊の中の狼って、まさか私自身のことだったなんて。そんなバカな。
「ふふ‥‥くすくす」
「え?」
 私の思考にあまりに不釣合いな笑い声に顔を上げると、彼女は例の、口元に手を当てるお嬢様笑いを漏らしていた。
「そんなに慌てなくても」
「え‥‥いや、けど」
「――」
 くすくす笑いがぴたっと止まったかと思うと、彼女は今度は妙に真剣な顔をする。ついていけない。
「‥‥あいちゃん?」
「えっ」
 今度のそれは。
 昨日の夜、何度も何度も聞いた、彼女だけの私の呼び名。
 どきっとして、一気に脈拍が上がって、顔がほてってくるのがわかる。なにこれ、純情乙女みたいじゃないか。
「あいちゃん」
 呼びかけ。それは、確認というより呼びかけだった。だから私も、ごくっと喉をならして、彼女に正面から向かい合って、言った。
「なに、なっちゃん」
「‥‥」
 そう、私が言ったとたん。
 彼女は、呆然とした表情を浮かべたのだ。
 何か間違ったか。まさか、やっぱりあれは本当に夢だったなんて――。
「ああ、よかった」
 ――え?
 私の疑問を一瞬ですっ飛ばす笑顔を浮かべて、彼女は言った。
「夢じゃなかったんだ‥‥よかった」
 私はこの瞬間。
 奈良原白夜への恋を、自覚した。


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