その日私は、およそ半年ぶりに彼女に呼び出されてDUOへ向かった。 喫茶店DUOは未亡人の女性が一人で経営するお店で、その店長と彼女が旧知だという理由でそこに連れて行かれたのが最初。 それからしばらくしてそこは彼女と私の待ち合わせの場所になり、あるいは一日そこで過ごしたりもした。 やがて私は彼女無しでもそこに入り浸るようになって、そして更に時が経つと、私が彼女とそこに入ることは無くなった。 きっかけはすごく些細なことだったと思う。些細だけど大事なこと。 私は部屋が汚いのが許せなくて、でも彼女はそんなことを全然気にしないタイプで。 足の踏み場もないくらいに散らかったワンルームに怒る私と、能天気に床に寝転がって雑誌をぺらぺらめくる彼女。 それは性格の違いから価値観の違い、やがては血液型の問題なんていう根拠の無い定義にまで発展した。 片付けろ、面倒だ、そんな母親と思春期の息子みたいな言い争いだった。 そして私は家を出た。それが今年の1月。半年前のことだ。 その後私は決してDUOには近づかなかったし、たぶん彼女もそうだったと思う。 DUOという場所は、私たちにとってお互いがいるってことと同じくらいに近しい存在だったから。 6ヵ月という時間は冷却期間としては長すぎるように思ったけど、でもそれはきっとそれだけ大切なことだったんだと思う。 親元を離れて一人暮らししながら学校に通っていた彼女のアパートに転がり込むようになったのは高校1年の終わり。 それから、高校3年間、大学4年間を経て社会人2年目の今年の頭まで、ずっと一緒にいたのだ。 大学院で何だかの研究をしている彼女と違ってOLとしてまともな職業についている私は、彼女のアパートを出た次の日に新たな部屋を借りた。 それは実際のところ私を追い出した彼女へのささやかな報復のつもりだったりしたのだが、彼女が連絡をしてくることは無かったしうちに来ることも無かった。 彼女が好きだと言ったショートの黒髪は長い金髪に変わり、たいして親しくなかった同僚の男と2回寝て終わった。 そして突然、メールが来た。 『7月25日の午後8時、DUOで待ってる』――と。 * 半年ぶりのDUOは、半年前と何も変わっていなかった。 派手さの無い穏やかで優しげな店内には耳障りにならないくらいの適度な音量でクラシックが流れている。 ドアを開けたとたんにふわりと香るかすかな薔薇の匂いが私に半年前を思い出させた。 「いらっしゃい」 半年ぶりの店長はさして驚いた表情も見せず、ゆったりと笑うと店の奥にちらりと一瞬だけ視線を送る。もう来ているのか。 カウンターの向こうにかけてある壁時計が指す時刻は7時55分。遅刻常習の彼女にしては珍しいことだ。 「お久しぶりです」 私は奥にいる彼女が気付くようわざとらしく大きな声をあげて店長に会釈して、奥へと歩く。大通りに面している窓に接するそこは半年前までの指定席。 そこに一歩一歩近づくたびに、自分の鼓動が大きくなるのが判る。 これはなんだろう。緊張? 不安? それとも‥‥期待。 彼女の後姿が見えた。髪がずいぶん短くなっている。それに心なしか色が薄くなったような。脱色でもしたのだろうか。 私は努めて冷静を装いながら彼女の正面に回り、座る。 虹をぐしゃぐしゃにしたような不安定なマーブル模様の自分の心に苦笑しながら、私は半年ぶりに彼女の顔を見た。 「――」 まっすぐ私を見つめる真摯な瞳。 おバカで能天気で思慮が足りないくせに目だけは綺麗で吸い込まれそうで、私はいつでも彼女のそれに心を奪われていた。 それを思い出す――この瞳。私のこの半年間に足りなかったものを一つだけ挙げるとすれば、きっとこれに違いない。 店長が何も言わずにジンジャーエールを私の目の前に置いて去る――コーヒーの飲めない私の為にいつも作ってくれるジンジャーエール。 それからしばらく、私も彼女も何も話さなかった。ただ目だけが、彼女の目が私を捕らえて離さなかった。 「髪、伸びたね」 何の予備動作もなく、いきなり彼女が言った。 「あんたは短くなった」 「うん、そうだね」 あんたはいつでも自分勝手で自分本位なのに、時々そうやって寂しそうに笑う。 それがあんたの中の逡巡して葛藤する不安定な内面をこれでもかってくらい私に見せびらかしてくる。きっとあんたは無意識だろうけど。 「男と寝てみた」 「――」 また突然だった。私は瞬間的に動揺し、返事のしようがないために沈黙した。 「痛いだけだったよ。2回でやめちゃった」 自分の失敗を申し訳なさそうに笑うその癖も変わってないね。 こっちがどれだけ心配しても、あんたがそうやって笑うと私は何も言えなくなるんだ。 でも、そうやってあんたはいつだって自分の中にいろんなものを詰め込んでいるんだ。いつか絶対にパンクするよって警告したくなるくらいに。 「あんた」 私はそれ以上彼女のそんな顔を見たくなくて、思わず声を出していた。 ふと笑いを止めて私を上目遣いに覗き上げてくるその顔を懐かしく思いながら私は続けた。 「部屋、まだ汚いの」 「――え」 予期していた範囲の質問ではなかったらしく、彼女はぽかんと口をあけて問いの意味を図りかねていた。 やがてそれを理解できたのか、今度はいたずらっ子のような苦笑いを浮かべる。 「一応掃除はしてるんだけど」 「毎日?」 「‥‥1週間に1回」 「うそ。1ヶ月に1回だ」 私が言うと、彼女はむっと私を睨んで口を閉ざしてしまった。その様子を見ると間違ってはいないようだ。 「そんなんだから男が逃げるんだよ」 言ってからどきっとする。それってまるっきり自分の事じゃないか。私は男ではないが。 彼女はそんな深意に気付いたかどうか、子供みたいに頬を膨らませて黙ったまま私を睨みつけている。 「院生だからってのは言い訳にならんよ」 「わかってるよ」 むすっとした表情をあからさまに浮かべる。私は内心でため息をついた。 「で。呼び出した理由は?」 まさか彼女が素直にヨリを戻したいなんて言うと思ってなかったし、呼び出されたという立場上、私から言うのもためらわれた。 だからそう促してみると、彼女は私に不信感丸出しの視線を突きつけながら口を開いた。 「引っ越そうと思うの」 「は?」 「引っ越すの」 私が聞き返したのは聞き取れなかったからじゃなくて、その意図が判らなかったからなのだが。 「部屋汚いから引っ越すの」 「‥‥引っ越せば綺麗になるのか」 「掃除しなくてもいい部屋に引っ越す」 何言ってるんだこいつは。 本気で私は頭を抱えたくなった。私の知らない間に謎の電波を受信したのか。 「お前勉強のしすぎじゃないのか」 「そんなことない」 彼女の威圧的な視線は全く威圧的ではない。 じゃあなんなんだ、と私は軽く肩をすくめた。 「メイドは高いぞ」 「普通はね」 目の前の女の意図が全くつかめない。 「就職決まったんだ」 「なに?」 言っていることが理解できないわけではない。ただ流れが理解できないだけだ。いい加減イライラしてくる。 「教授の助手だけど」 「給料は?」 「内緒。でもそっちの初任給よりはマシだと思う」 あんたは大学院で何の研究をしたんだっけか‥‥顔を見ただけじゃ教えてくれないだろうが、改めて訊くのも癪だ。だから私は黙っていた。 「手料理作ってる?」 「いや」 また話が飛んだ。 私が料理が壊滅的に苦手だってことを知っておきながらそんなことを言う。確かに食事は、唯一彼女がイニシアチブを取れる領域だった。かつては。 毎日コンビニや弁当屋の出来合いものを食べてもやっていけるくらいの金は入ってきているのだ。一人暮らしだから。 「悪いか」 「健康に」 最近の弁当屋はカロリーや栄養摂取のパーセンテージにも気を遣ってくれることを知らないな、この無知は。 「さてと」 わざとらしく一呼吸置いて、彼女が私をまっすぐに見つめた。その吸い込まれるような瞳で。 「以上のことから、私が何を言いたいのか当ててください。霧越藍さん」 彼女は本当にいろんな種類の笑顔を持っている。 私がそもそもあまり笑わないタイプだからかもしれないが、彼女の笑顔はたくさんのパターンがあって、それぞれにそれなりの意味や感情が込められている。 ではその経験上、今現在浮かべているこの笑顔の意味は何か。 解答、満ち満ちた自信。 「引っ越す」 「どこにでしょう」 「知らん」 「はずれ」 知らないってことに正解も外れもあるか。 「でもさっきのは惜しかった」 「さっきの?」 「メイド」 そういえばそんなことを言ったっけか。記憶に無い。 「メイドより手っ取り早い方法があるよ」 「あんたは人工知能の研究をしてたんだっけか?」 「そうだけどメイドロボはまだ作れないな」 だろうな。 「解答、A型の恋人を作る」 こうやって能天気に突飛な発想を生じさせるのは研究者としては得がたい才能なのかもしれないが、とりあえず日常生活には邪魔なだけだ。 「じゃあんたにとってゴリラは全員お気楽でマイペースなわけだ」 「血液型分類は人間の性格だけに対応してるんだよ。でも確かにそうかもしれないね」 確かにそうかもしれないと私も思う。だがここの問題はそんなことではない。 「O型らしい見解だ」 血液型なんていう性格判断を未だに信じているやつがいるとは到底思えないのだが。 「大学教授助手の給料と2年目OLの給料を足せば、それなりのマンションに住めると思わない?」 やっぱりあんたはO型だよ。 「2LDKくらいかな」 「新宿辺りで」 「それは無理」 「そうかなあ」 「それから」 ん、と首を傾げる彼女を、私は正面から見据えた。 「メイド雇った方が安かったんじゃないかって後悔することになるよ」 「それは楽しみだ」 零れ落ちそうな満面の笑顔。20代も中盤に差し掛かろうといういい年齢のくせして、あんたはこんなに子供っぽい。 |