「いい天気やねぇ」 窓のへりに腰をかけて、白夜さんがそんなことを呟いた。 開け放たれた窓。真っ青な空。季節は夏。今日の最高気温は、31度。 「ありえんって‥‥暑い‥‥」 わたしは畳張りの床に寝そべって、扇風機のぬるい風を足に浴びながら反論する。 対する白夜さんは、雲一つない空にぷかぷかとタバコの煙を浮かべつつ、ぼんやりと外を眺めていた。 前のボタンを三つ空けたワイシャツに、スラックス。カジュアルなOLといえばそんなふうな出で立ちだけども、見てるこっちは暑苦しいったらありゃしない。 なのに、彼女は汗もかかず、ただのんびりとタバコをふかす。 「クーラー付けようよぉ」 「必要ないやろ。それともあんたが金払うか?」 「アンタ社会人だろ‥‥」 親の仕送りで生きている寮暮らしの女子高生に言うセリフか、それが。 「勝手に出てきてええの? 部活ちゃうん」 「えーの。白夜さんこそお仕事は?」 「自主休業や」 「ただのサボリやんか」 奈良原白夜、当年とって2X才。バリバリのオフィスレディだ。 「白夜さんの名前って、なんか涼しそうだよね」 「クーラー代わりになるやん」 ならんだろ。 ‥‥それに引き換え、わたしはといえば、規則だけは厳しい、たいして有名でもない山奥の学校に通う高校1年生。 よく考えたら、いや、考えるまでもなく、寮にはクーラーがついてるのだから、こんな扇風機と風鈴と住人の名前でしか涼がとれない場所に来る合理的な意味なんてない。 それでも毎日来てるんだから、わたしも健気なことだ。 「こんな暑いのによくタバコなんか吸えますねえ」 「あんたはトイレ行きたくなったときトイレ行くやろ?」 「は? ‥‥当たり前やん」 「だったらタバコを悪く言うなや」 どうやら彼女にとっては、トイレとタバコは同価値らしかった。 寮にもそれなりに友達はいるけど、今は夏休みでほとんど誰も残っていない。 田舎に帰るにも、わたしの両親はアフリカ辺りで貧しい人々のための医療に余念がないようだから、誰もいない寮から誰もいない実家に帰るしかない。 そしてわたしは、人並みに寂しがり屋なのだ。 といった理由で、現在わたしこと椎葉朱里は、父の妹である白夜さんのアパートに入り浸っているというわけだ。 ちなみに、白夜さんは滋賀の出身なのだけれど、わたしは東京生まれの横浜育ち。このエセ関西弁は、白夜さんのが伝染しただけなのだ。 「ねえびゃくやん」 「誰や」 「だめ? かわいくない?」 「あたしはあんたのこと、あかりんって呼んでええの?」 「あ、勘弁」 「はは」 白夜さんは受け流すように軽く笑った。ちょっとショック。 「ねえ白夜さん」 「やり直しかい」 「いーじゃん。 ねえ、部屋の中、すっごくタバコ臭いよ。ファブリーズしたら?」 「なんで商品名直球やねんな」 「有名やし」 白夜さんはフィルターの直前まで吸いきったタバコを、階下から窓の外に放り投げ、身体をこちらに向けた。 「って、こら」 「なん?」 「捨てんな」 「平気や。下ドブやもん」 「そーじゃなくて‥‥」 自分の家族の自慢をするわけじゃないけど、わたしの父はそれなりの良識者で、医者という職業のせいもあるのか、かなりできる人だ。 その妹が、こんなズボラで能天気で、この年になってもいい人の一人もできない寂しい女性だという事実は、メンデル先生の大法則に疑問符を投げかけたくなるような現象だったりする。 あ、でも、メンデルの法則は1/4で劣性遺伝子の形質をもつ子が生まれることも説明しているのだから、四人兄弟である父の家族だったらそれはそれで納得できるのかもしれない。 「他人を劣性扱いすんな」 殴られた。 この人の小突きは"小"なんて漢字が必要ないくらい強くて痛い。これじゃただの突きだ。 「そういえば、思い出したんだけど」 白夜さんが首を傾げた。 「まえ、教えてくれたよね。お相撲さんのなかで大関になれるのは、本名が小関って人だけだって。立派にして成長した小関さんだけが、小関から大関にクラスチェンジできるって」 「そんなこともあったか‥‥?」 「あれってほんとなん?」 「ウソやんか」 「ええー!?」 「気付けよ」 ちりんちりん、と風鈴が鳴る。 風流だねえ、なんて白夜さんは呟くけれど、風流は涼しくなんかない。 「そんなので涼しくなったら苦労せえへんって」 「ほうか?」 「そうです。クソ暑い道端に"納涼"とかいう昇り旗が立ってるだけで、むしろムカつきますもん」 「やったらあんた、道端そこら中に"熱波"とか"酷暑"とかいう真っ赤な昇りが立ってたほうがええん?」 「‥‥」 それは想像するだに地獄だ。 「ごめんなさい。訂正します」 「よろしい」 白夜さんは満足そうに頷く。 窓枠から降りて床に腰を下ろすと、仰向けのわたしを覗き込んでくる。 さらに、無言で窓を閉めた。 「‥‥なに?」 訝しげに訊いてみると、 「我慢大会」 「負けました」 「早っ」 0.4秒で敗北宣言すると同時に、身体を起こして窓を開ける。 「暑さもそうだけど、匂いだって篭るんだから」 「あかりんの乳臭い匂いが?」 「あかりん言うな。乳臭くもない。タバコだよ、タバコ」 「‥‥そんな匂うん?」 白夜さんが眉をひそめる。 ありゃ、思ったよりも気にしてたのかな? 「そりゃまあ。住人がヘビースモーカーだって程度には」 「そっか」 「――香水でもつけてみたら? まさか持ってないってことはないと思うけど」 「‥‥」 「まさか」 「悪いか」 ぷいっと顔を背ける彼女がなんだかとても可愛らしかった。 「や、悪いことはないんけど‥‥そっか。そっか」 「なんや腹立つ‥‥」 「はは。そだ、せっかくだし、わたしの貸してあげよっか」 確かバッグの中に入っていたはずだ。 今日は気合入れて来たから。外出た瞬間に暑さでやる気を根こそぎ吸い取られたけど。 「あっくんの?」 「そう」 どうにも女の子っぽくない呼び方だけど、あかりんよりはこっちのほうがどれだけマシだろう。 16年も呼ばれ続けた名前なんだから、そりゃあ、慣れるよね。 そんなことを考えながらかばんを漁っていると、突然背中にやわらかい衝撃とずっしりした重さ。 「‥‥」 しばらく沈黙してから、一言、答えた。 「暑いちゅーの」 「まあまあ。気にせんと」 「するわ」 いつも通りといえばいつも通りのスキンシップなので、ことさら激しい反応をとりはしない。 ――もっとも、それは外面的なものであって、心臓は恐ろしいほどばくばく鳴っているのだけれど。 やばいよ。やばいって、白夜さん。そんなふくよかなお胸を押し付けないでって。ただでさえ熱でおかしくなりそうだってのに。 ああ、えっと、そんなことより香水香水。どれだっけ。これかな。違う、ボールペンだ。なんでボールペンと香水瓶間違えるんだわたしのアホ。 これは。違うこれはペットボトル。だから取り出す前に気付けよわたし。 じゃあこれだ。うん、これは寮のクーラーのリモコンだ。うわあなんてものを持ってきてるんだわたし。ごめんルームメイト。 今度こそ。あれ、これなんだ。ええっと、そうだ、七味唐辛子だ。おいおいいい加減にしろよわたし。このオタンコナスが。しかし香辛料は香るという字を使うんだしこれを使ってもそれなりの香りが出るんじゃないかってやっぱりなに考えてるん 「わひゃあ!」 思わずのけぞって、ごちんと後頭部に衝撃。 と同時に、「がっ」っていう悲鳴。 「ななな、何をしやがりますか我が姪!」 「それはこっちのセリフですよ叔母!」 「おばさん言うな!」 「だって事実叔母さんじゃん‥‥じゃなくって!」 首筋を触ってみる。まだ胸がどきどき言ってる。今のはやばかった‥‥。 「首元で吐息を吐かないでください!」 「あほ。吐息は吐くものであって吸うものやないやん。吐く息って書くんやねんもん」 「そういう問題ちゃうわー!」 叫んだ私の声は、窓がびりびり鳴るくらいの衝撃波だったらしい。 わたしが肩で大きく息をついていると、白夜さんはまた拗ねたみたいで、唇を尖らせる。 「あっくんが香水付けとるなんて言うから」 「は?」 「どんな匂いなんやろって思っただけやん」 「‥‥だ、だからって」 あんなぞくりとくる生暖かい息。彼女の息吹。彼女の体温。耐えられるわけがない。 「でも、ええ匂いやな。気付かんかったけど」 「‥‥」 そうやって無造作に褒めてくるのも、彼女の嫌いなところ。 だって、この怒りに変換した恥ずかしさをどう表現したらいいかわからなくなっちゃうんだから。 「もしかして、これまでも毎日付けてたん?」 「‥‥悪い?」 「いやいや。いやいやいやいや。悪いことない。悪いとしたらあたし。あたしが悪い。タバコばっかり吸っとって、あっくんの匂いに気付かんなんてアホや。アホの頂点や」 なんでいきなりこんな真剣に謝りだしてるんだろうか。 ということをふと思って、初めて気付いた。 あれ、わたし、泣いてる? 「これがあっくんの匂いなんやなあ。‥‥もっと嗅がせて」 「嫌」 ずりずりと畳を這う白夜さんから、ずるずると畳を後退して逃げるわたし。 「これまでも時々ふわってええ匂いしてたんけど、全部それだったんか。謎が解けて感動」 にぱっ、と、無垢な笑顔。 だから、そんな顔しないでよ。わたしを狂わせないでよ。 「だから、な? 吸わせて。あっくんを吸わせて」 「近寄るなこの変態!」 「ええー、そう言わんと‥‥」 「‥‥」 ふと、思いついた。 上手くいくとは思えないけど、ダメで元々って言葉もあるし。 とか論理的な理由を思いつく前に、私は口に出していた。 「タバコ止めて」 「え?」 「タバコ止めてくれたら、ええよ」 「‥‥」 わたしも彼女も床に座っていると、彼女のほうが弱冠背が高い。 だから、彼女がわたしを見下ろす形になるのだ。 じっ、と、まっすぐ、わたしを見つめる彼女。 「‥‥あっくんのそれ、ホンマにええ匂いやん」 「――はい?」 「それがあっくんの匂いなんよね。感動したわ」 「‥‥?」 会話の流れがつかめない。意図もつかめない。わたしは首を傾げた。 「で、ときにあっくん」 「なに」 「あたしの匂いって、どんなの想像すん?」 「‥‥タバコ」 「そうやん。そうやろ?」 がば、と詰め寄ってくる彼女に、わたしは上体を逸らされる。だから不用意に近づかないでよ。 「あっくん、タバコの匂いなくなったら、あたしはあたしやないやろ?」 「‥‥」 確かにそれはそうかもしれない。 いつでも一つの銘柄しか吸わない白夜さん。 部屋にも、服にも、彼女自身にも、その匂いが染み付いている。 小さいときからその匂いと共にあったから、わたしもそれを、彼女の一部として、いつしか認識してしまっている。 その不思議な匂いが好きだったのも事実だ。 白夜さんの匂い、と言われれば、確かにそうかもしれなかった。 「でも‥‥」 「あっくん、覚えとる? あっくんが幼稚園入る前くらいに、『おねえちゃんの匂い好き』って言ってくれたん」 覚えている。というか、今思い出したのだけれど。 それを思い出したと同時に彼女がそんなことを言ったのに驚いた。まるでシンクロだ。 「‥‥あたしな。そんときあっくんに嫌いって言われとったら、タバコ止めとったと思うんよ」 「え‥‥」 「ああ、せやかてあっくんのせいにするつもりやないん。ただ、嬉しかったことだけはよう覚えとる」 わたしも覚えていた。 わたしは白夜さんに抱かれるのが大好きで。 お母さんと違う匂いのする、白夜さんの胸の中が大好きで。 とことこと近くに寄っては、いつでも抱きついてた記憶がある。 さっき、白夜さんがわたしにしたように。 「てなわけで」 にこ。 その笑顔があまりよろしくないことを運ぶ笑みであることをわたしは既に学んでいる。 10年以上前から、ずっとだ。 「あたしは、あっくんのその匂いが好きなんよ」 ああ、この人は、こうやって、昔から。 人を、何の予告もなく、すとんと落としきってしまうことが得意なんだ。 そしてそれは、きっとわたしも同じ。 お父さんに流れなかったそんな遺伝子が、わたしと白夜さんを繋いでいる。 なんだかとても楽しい気分になった。 「わたしも好きだよ。白夜さんの匂い」 一世一代の。きっと永遠にできないだろうと思っていた、そんな告白。 気付いてもらえないかもしれない。きっと気付いてもらえない。白夜さんは、わたしなんかよりもっともっと子供っぽいんだから。 でも、だからこそ。 オトナのニオイがする、白夜さんが好きなんだ。 |