演劇集団三色旗 第三回公演

人生最大の苦悩
-to be, or not to be-

[天衣無縫][霧越藍×奈良原白夜]


「え? 藍がそんなこと言い出すなんて珍しいね?」
「そうかもね」
 ふう、と小さく嘆息。
 私の机の周りに集まってきゃいきゃいと騒ぐ彼女達を尻目に、私はあまりいい気分ではなかった。
「それでそれで?」
「それで、って‥‥それだけ」
「へ? お誘いじゃないの?」
「‥‥そうだけど」
 そう返事をすると、私の顔を覗き込んでいた彼女達が一気に顔を綻ばせる。
 おいおい、そんなに喜ぶもんじゃないよ?
「あたしの弟だよ?」
「君近大サッカー部の、でしょ?」
「‥‥そうだけど」
 私が肯定すると同時に、教室に響く黄色い歓声。
 周囲の連中が何事かと見つめてくる視線が痛い。
「乗り気なわけね」
 私が言うと、
「もちろん!」
 と、女子大生三人組は大きく首を縦に振った。
「ったく‥‥。なんだって弟と合コンしなきゃなんないのよ」
「いいじゃん、他にもイイ男がたくさん来るんでしょ?」
「どうだかね」
 百人ほどは収容できる大きな講堂に、今二十人程度しか人がいない。昼休みだから仕方ないんだろうけど。
 頭の上で行われているやかましい喧騒を無視して、頬杖ついてぼんやりと、所在無げに視線をさまよわせる。
 と。
(‥‥あ)
 一人の女性が目にとまる。
 ここは女子大なんだから女しかいないのは当然なのだけど、その女性だけは、なんとなく他とは違って見える。
 そして私は、ここのところ最近、無意識のうちにその後ろ姿を探しているのだ。
 そのくせ、見つけたら見つけたで、胸がおかしな鼓動を放つから、冷静になれない。
「ねえ、藍」
 そんなふうに私が動揺してるなんて微塵にも思ってないだろう友人の一人が、私に声をかけた。
「でもさ、姉貴のあんたがそんなに男前なんだから、きっと弟クンはもっとかっこいいんだろうね」
「アンタが義理の妹になるなんて、真っ平御免」
 大きく息を吐いて、髪の毛を無造作にかき回す。
 私の髪は短い。髪質はそれなりに気にしているけど、長さなんてものは大して気にはならないから、いつもこんなものだ。
 もちろん、髪の毛の理由だけではなくて、私はよく女っぽくないとか言われるわけで。
 余計なお世話だ、と思う心情を押さえきれない。
「藍も、顔立ちはすらっとしてて美人なんだから、うまくやれば綺麗になるのに」
「それはどうも」
 こういう人間に、意識してなったわけじゃない。なりたくてなったわけじゃない。
 ただ、ぼんやりと子供時代を過ごしている間に、弟やその男友達を従えるガキ大将の立場を得てしまっただけだ。
 そこからまあ、ずるずると。
 つまり、今更年頃の女の子っぽい格好や行動なんて、できるわけがなかった。
 そして、だから余計に、私は彼女が気になっている。
 頭上では、まだ三人の会話が続いていた。
「で、人数は五人。あたしたちで四人だとして、もう一人必要だけど」
「江美子は?」
「ああ、あれはダメ。一週間前に男の家に外泊したっていうし。藍、誰がいいかな?」
「――誰でも」
 本心からそう答えて、私は彼女の背中に意識を向けなおした。
 私のいる席は、彼女の座る席の斜め後方にある。
 ここからだと、昼休みだというのに読書にいそしんでいる彼女の横顔が、まるで清流のせせらぎのようにさらさらと風になびく黒髪の向こうに、ちらちらと見え隠れするのだ。
 手にする大判の本は、ここからでもよく見える。シェイクスピア全集、それも四大悲劇の巻。私は、授業で取り上げられた『ハムレット』しか知らない。あとはテストのために、作品名を覚えたのみ。
 そんなのを読んで何が面白いのか判らないけれど、ともかく彼女は、白魚のように透き通った手でそれのページをめくる。聞こえるわけのないその音すら、耳に届く。
 本に向けられた瞳は垂れ気味で黒目がち、頬は白く、といっても遺伝子的な色素の薄さではなくて、あまり陽の下では活動しなさそうな色合いでありながら、どこかなまめかしく、絹のようなつややかさ。
 ――ああ、何を言っているんだ私は。相手は女の子なのに。
 そう思い至ってしまうと、盗み見ているような自分の視線が彼女にとってとんでもなく汚らしいものに思えて、私は彼女から視線を逸らした。
 そしてその一瞬。
 突然こっちを向いた彼女と目があった気がした。
(うわ)
 まずい、見られたか。
 冷静に考えれば、焦って目を逸らすほうが怪しいこと然りなのに、どうも彼女の前では、そういうふうにはふるまえない。
「奈良原さん、こっち見てるよ」
「――」
 奈良原というのは、間違いようがなく、彼女のファミリーネームだ。
 私は視線を逸らした反動で、口を開けても言葉をひねり出すことができなかった。
「聞いてみよっか」
 と、三人のうちの一人。
「何を?」
「合コン。誘ってみようか」
「ええっ!?」
 声にこそ出さなかったけれど、その驚きには私も同感。
 いきなり何を言い出すのか、このトンカチは。
「誘っても来ないって」
「だから、ダメもとでさ」
「ええ〜‥‥」
 残りの二人が抗議するのも頷ける。
 私は興味のないふりをしつつ、制止を振り切って彼女の元に向かった友人の様子を伺っていた。
 やがて、友人は彼女の元へたどり着く。
「ね、奈良原さん」
「はい‥‥?」
 目の前まで歩み寄っておいて名前を呼ぶこともないだろうに、と思ったけれど、私はあくまで無関係を装う。
 たぶん、マンガだったら耳が頭よりも大きくなっていることだろう。かっこ笑い。
「あたしたち、今度の日曜に合コンやるんだけど、一緒にどう?」
「え」
 ほら、返答に困ってる。
 私は、呆れと恥ずかしさの入り混じった微妙な感情を抱いていた。
 彼女がこっちを見ていることは間違いない。つまり、私も合コン参加者の勘定に入っているはず。それが、なんとなく恥ずかしかった。
「合コンって‥‥」
 彼女が困惑した声を出す。ああ、その涼風が新緑の木々を撫でるような穏やかで優しげな声色。無意識のうちに、頬が緩んでしまう。
「藍いるでしょ、霧越藍。ほら、あいつ――」
 友人が私を指差しているらしい。
「おーい、藍。あいー」
「‥‥うっさいな」
 そう返事して、そちらを向く。
 それまでのコンマ五秒の間に、私の中で自分を冷静にさせる十三の手段を講じたことなど、知る由もないだろう、ヤツは。
「あれの弟が、君近大の法学部でサッカー部なんだって。知ってる? 君近のサッカー部」
「‥‥?」
 ほんのりと首を傾げるその姿がたまらない。なんてよどみなく、清純な動きなのだろう。
「えっと、まぁいいや、とにかく、藍の弟が他に四人連れてくるんだって。だから、奈良原さんもどうかな、って」
「‥‥人数合わせ?」
「えっ?」
 首をかしげたままそんなことを言うものだから、友人も、私も、他の二人も、みんな一斉に固まった。
「いえ、冗談です」
 そんな私たちの姿を見て満足したのか、彼女は口元に片手を持ってくるお嬢様笑いを漏らして、そう言った。
「えっと、迷惑だった、かな」
 反応に困ったらしい友人が、ううん、と唸った。
 けれど彼女はそれにゆっくりと首を振って、
「いいえ。そういうことでしたら、ぜひ参加させていただきます」
「――え」
 彼女が冗談を言うということにも驚いたけれど、それ以上にこの言葉に驚いた。
 だって。まさか。
 絵に描いたようなお嬢様で、深窓の令嬢とでも言うべき穏やかさと気品を兼ね備えていて、実は学科内で隠れたアイドルとまで噂される彼女が、合コンに参加するなんて誰が思う?


「よっ、待ってました!」
 会場に指定された居酒屋に五人揃って入ると、もうすでに出来上がっているらしい我が愚弟が、そんな歓声をあげた。
「合コンのくせに男だけで先に飲んでるなんて、ずいぶん勝手ですこと」
 私はありあわせの皮肉を漏らして、私のあとに続く四人を迎え入れた。
 友人A、友人B、友人C、そして彼女――奈良原さん。
 彼女は、空色のブラウスに薄紅のストールを羽織り、くるぶしあたりまである浅黄のフレアスカートといういでたち。
 居酒屋には多少不釣合いではあったけれど、それがとても彼女らしくて、私は思わず笑顔になった。
 その私の笑みをどう解釈したのか、彼女は私をちらりと見ると、頬をまるで桜の花を散らしたかのように淡く赤らめた。
 もちろん、からかってるつもりも呆れているつもりもないのだけれど、彼女にそう捉えられてしまったのだろうか。ちょっと後悔。
「さ、どうぞどうぞ、座って」
 愚弟及びその連れたちは、登場した女性陣に口笛でも吹きたそうな顔をしながら、あくまで紳士的な態度で接しようと躍起になっているらしかった。
 だから私は、あえてそれを無視して、不安と恥ずかしさで顔を紅潮させている奈良原さんに触れようとしていた男の手をさりげなく振り払い、自分の隣に彼女を座らせた。
 うん、これで一安心。
 振り払われた名も知らない男は、なんとも表現しづらい微妙な表情を浮かべていたけれど、そんなことは知らない。
「さぁて、早速自己紹介ターイム!」
 弟が叫ぶ。今時こんな合コンがあるのか。
「では女性の方々から――」
「そっちが呼んどいて自分たちは後回しなんて、最低」
 私が言うと、一気に場がしぃんとする。
 個人的には楽しむつもりは毛頭ないから、別に構わないのだけど。
「じゃ、俺たちからやりますか――」
 というわけで、全く興味のない男達の自己紹介が終わり、友人三人衆も終わり、いよいよ彼女の番。
 彼女は、頬を赤らめたままゆっくりと立ち上がると、恥ずかしそうに俯きながら、口を開いた。
「えっと‥‥同じく美嶋台女子大学三年、文学部国文学科の奈良原白夜、です」
「白夜ちゃん。いい名前だね〜」
 それには同感だけど、とりあえず男は黙れ。
 と言いたい気持ちをぐっと抑えて、私は隣に立つ彼女を見上げる。
(ならはら、びゃくや)
 心の中で反芻する。
 彼女とは三年間同じはずなのに、彼女の名前を今の今まで知らなかったことが恥ずかしかった。
 ほとんど喋ることもなくて、ただ遠くから見つめていただけだから、それも当然なのだけれど。
「趣味は‥‥その、読書、とか」
「うんうん、それっぽい」
 いちいち茶々を入れる愚弟と不愉快な仲間達を蹴り飛ばしたい衝動に駆られつつ、私は彼女が休み時間に視線を落とすハードカバーを思い浮かべた。
「あとは、テニスを、ちょっと」
「おおっ、お嬢様っぽい!」
 男達がわめくと、さっき同じようにテニスが趣味だと言った友人Bが、
「あたしのときそんなこと言わなかったのに〜」
 なんて、くすくす笑いながら批判している。雰囲気は悪くないようだった。
「じゃあ最後は――」愚弟が私を見て、「――まあ、いいや、最後は。うん、じゃあ、皆さん、かんぱーい!」
 無視しやがった。別にいいけど。でもなんとなく納得いかないので、しとやかさの欠片もなくげらげらと笑う友人三人と男連中を睨みつけてやった。

 それから、二時間ほど経った。
 席をちょろちょろと交換する輩が出てきて、その右隣には私がいる奈良原さんも、左側にやってきた男にビールを注がれたりして、思ったよりも楽しそうだった。
 でも、瞳の焦点も合ってないように見えることもあるし、顔の紅潮ぐあいがちょっと上がってきている。連中が無茶に飲ませようとするからだ。
 目的は明白。あわよくば、お持ち帰りというヤツだ。
 それを防ぐための手段として、私はうちの女子大の近くに合コン場所を指定した。
 これで、少なくとも家が遠い男共には連れ帰られたりしないはずだ。自分から男を連れ込む場合は‥‥私の知ったことじゃない。
 私の右隣にも男が来るには来たけれど、私がつっけんどんとした態度を崩さないせいか、あるいは単純に友達の姉ということで遠慮しているのか、あまりがっついてくる様子はない。
 というか、奈良原さんが大人気であるという現状を鑑みるに、私のような女は入り用じゃないってことだ。好きにしろ。
 こういう調子だから、私も普段以上に酒が入っていた。支払いは全額男連中の持ち、ってこともあって、けっこうペースがいい。
 店員を呼びつけてソルティードッグを頼むと、私は手元の、ほとんど空になったカシスオレンジを一気に煽った。
「霧越さん〜」
 ひと段落したところにいきなり、耳元に暖かい吐息が当たって私は思わずのけぞった。左側からだった。
「――だいじょうぶ?」
 どこからどう見ても大丈夫そうではないけれど、一応そう聞くのが礼儀。
 お酢でふにゃふにゃになったような笑顔を浮かべてこっちを見つめてくる奈良原さんの目が、どこか潤んでいた。
「霧越さ〜ん」
「はいはい」
 バカ連中が、こんなに飲ませやがって。酔いつぶれさせようっていう魂胆があからさまに見え見えなんだよ。
「ずいぶん飲むんだね、奈良原さん」
「はい〜。飲まされました〜」
 ぼうっとしていてどこか焦点の合わない彼女の顔が、間近にある。
 ただでさえ私に酒が入っていて理性の壁が低くなっているというのに、そんなに間近に‥‥わ、息を吹きかけないでー。
「飲んでますか〜?」
「飲んでますから、心配しないで。あなたこそ、あんまり飲むとあとでキツイよ」
「平気ですぅ〜。わたしのおうち、ここからすぐ近くなんですよぉ」
 どこまでも楽しそうに話す彼女に頬を緩ませられてしまう。なんていう破壊力。
 とはいえ、家が近いってことはあまりおおっぴらにしないほうがいいだろう。バカなことを考える連中が更に増長する。
「霧越さぁん」
「な‥‥に?」かろうじて返事ができた。危ない危ない。
「なんだか、眠いですよう」
「こんなところで寝ちゃダメだって‥‥」というか、そんな無防備な顔を私の前にさらさないで。
「ふあぁぁ‥‥ふにゅ」
「のあっ!?」
 奇声みたいな声をいきなりあげたものだから、残りの八人が一気にこっちを見た。
 そして彼ら彼女らが見つめる私、その太ももの上で、赤ちゃんみたいに穢れない寝顔をさらす彼女――。
「あれー。奈良原さん、寝ちゃった?」と、友人C。
「おーい、白夜ちゃーん」男は彼女に声をかけるな。
「あんたらが大量に飲ませるからじゃない。ったく‥‥」
 と口先では呆れながらも、私の心臓の高鳴りはますます大きくなる。
 やばい。やばすぎる。何がやばいとかどうやばいとか、何がどうやばいとか、そんなこと説明できるほど冷静になれない。
 可愛い寝顔。「――き」綺麗な黒髪。「――ねき」ほんのり赤く染まった張りのある頬‥‥。「姉貴!」うるさいな。
「姉貴ってば」
「うっさいわちょっとは黙っとれクソガキ」
 膝で彼女が寝ているのだから、大きな声は出せない。だからドスの効いた低い声でそう言ったら、愚弟の顔が青くなった。
「‥‥ああ、失礼。うん、何?」
「え? あ、いや、その‥‥」
「ほら、この子寝ちゃってるし。あんまり騒がないで? ね?」
 翻訳すると、ちょっとでも余計な音立てやがったらタダじゃおかねぇぞ覚えてろ、ということだ。
「それはいいんだけど‥‥これから俺たち、カラオケ行くけど?」
「好きにしたら」
「‥‥だよな」
 ちら、と仲間の男連中を見やる愚弟。
 ふとそちらを見た。男は五人。女は、この子を除いて四人だけど、私が行くという選択肢は最初からないから、三人。
「――あたしの友達に軽々しく手を出したらどうなるか、充分考えてから行為に移ること」
「了解」
 愚弟が、声を震わせていた。
 例え年子であったとしても、私の優位は揺るがない。姉と弟という、絶対的な権力の差だ。
「あたしはこの子かついで帰るから。気にしないで先行っていいよ」
「お姉さん」
 声をかけられて振り向くと、眼鏡をかけたインテリチックな男が、人のよさそうな笑みを浮かべている。
 見目麗しく、紳士的。こういうキャラが本当に紳士である可能性は、地球外に知的生命体がいる可能性より低いことを私は知っている。
「何」
「お姉さんもカラオケ行ったらどうですか?」
「‥‥」すでに会話の本題は見えているけれど、私は一応聞いた。「どうして」
「どうして、って。さっきからあまり楽しそうに見えないから」
「よく判ってるじゃない。だから帰るの」
「彼女、僕が送っていきますよ?」
 ほら来た。
「そういうわけにはいかない」
「そうですか? 僕、車で来てるんですよ。多少遠くても――」
「警察に通報したら即行で捕まえてくれるね、飲酒運転」
「‥‥」笑顔が微妙に、読み取れないほど一瞬だけ、歪んだ。そうそう、それが男の本当の顔だ。羊の中の、狼。
「――そういえばさ」突然、私の友人の一人が声をあげた。「奈良原さん、日向荘に下宿してるんじゃなかった?」
 日向荘。わが美嶋台女子大学の経営する、いくつもの女子寮のひとつだ。
 女子大の女子寮。当然、入出のチェックは厳しい。男なんてもってのほかだ。絶対に入れない。女が入れたくても、入れてくれないのだから。
「というわけ。残念ね」
 それが本当かどうか確かめる術は今のところなかったけれど、それを事実として利用してみる。
 つまり、管理の厳しい女子寮だから、男は近づくことも許されない、と。
「なんとかならないのかな?」男はまだ未練がましくひっついてくる。
「しつこい男」
 心の底から蔑むように言った。いや、事実、心の底から蔑んでいたのだ。
 私が言うと、男はぐっとつまった。顔が面白いように、怒りと屈辱に歪んでいる。
「ねえ、奈良原さん、ちょっと」
 私は、寝息をたて始めている彼女の頭を揺すろうと手を伸ばして――彼女の肩に手を置いた。
 肩ならなんとか大丈夫だ。でも頭はまずい。髪の毛、顔はまずい。触れた瞬間、壊れてしまいそうだ。私も、彼女も。どっちも。
「んう〜‥‥」
 やっば超可愛い。
「奈良原さん、おうちは日向荘?」
「ん〜‥‥うん、日向荘です〜」
 意外とまともな返答が帰ってきた。ちょっと寝ただけで、それなりにすっきりしたのだろうか。
「門限とかあったよね、確か」
「えーっと‥‥。ごーこんがあるって言ったら、遅くなってもいいってりょうちょうさんが言ってましたぁ」
「で、何時?」
「じゅーいちじ‥‥」
「って、もうあと二十分!?」時計は午後十時三十八分を指していた。「間に合わないとまずいよね、やっぱ‥‥」
「でも藍、ホントにいいの?」
 友人の一人が、申し訳ていどに申し訳なさそうな顔をして、私の顔を覗き込んでくる。
「こっちは平気。それより、あんたたちこそ酒に飲まれてお持ち帰りされたりしないでよ」
「うん、がんばる」
 ということは不安ということじゃないか。このアホ女子大生。
 とか以前に。正直な話、このシチュエーション、最高じゃないか。この機会を逃すわけにはいかない。一生に一度のチャンス。神の思し召しだ。ありがとう、神。
「それじゃ、姉貴。気をつけろよ」
「はいはい」
 しばらくしてから店の外に出ると、ひんやりと冷たい風が私の頬を撫でた。
 愚弟たちカラオケグループに別れを告げて、私は寮へ、うろ覚えの道を辿っていった。


「確かこっちだったような‥‥」
 一年のときに、同じ寮に住んでいた友達がいたから、そこに行った記憶はある。
 日向荘は、男にはめっぽう厳しいけれど、女であればかなり寛容だったりする。
(つまり要は、こういうときに困るからだろうな)
 私は、背中に担いだ彼女の寝息を耳に感じて、はしたなくもぞくりと背筋をふるわせた。
 しかしまあ、なんと軽い。これが人間の体重なのかと思えるくらい、彼女は軽かった。いくら私でも、人を一人かつぐなんて無茶な話だと思っていたから。
「奈良原さん‥‥?」
 もし意識があれば道を尋ねようとしたけれど、返答がない。どうやら、無理らしかった。
「こんなところでのたれ死んだらイヤだなぁ‥‥」
 でも彼女と一緒ならまだいいかも――あれ、私、いつの間にこんな思考に?
 そりゃ、彼女のことは可憐で清楚な一輪の白百合だとは思っていたけれど、花は遠くから眺めるからこそ美しいわけで。
 歩み寄っていって花弁に触れたり、その匂いをかいだり、あまつさえ折るなんてこと、できるわけもないし、やろうとも思わなかった。
 ――つまり。
 ほんの数日前まで、まさか私が彼女を、彼女の家まで送り届けることになるなんて思ってもいなかったのだ。
(飲みすぎかな‥‥)
 ぼんやりと見上げる空はどこまでも真っ暗で、恐ろしいとさえ感じた。
「これがほんとの、空恐ろしい‥‥なんつって」
 判ってる。判ってるよ。何も言わないでくれ、冷静な私。今は酔ってるんだ。緊張もしてるんだ。きっとどこかネジがぶっ飛んでるんだ。
 そんなことをぐだぐだ考えながらしばらく歩くと、果たしてそこに日向荘はあったのだ。
「着いた‥‥」
 助かった。


 女子寮である日向荘の管理人さんは、当然のごとく女性であった。
 どんなご都合主義ドラマだって、管理人だけ男なんて、ありえないだろう。
 その管理人さんは、私の背中ですやすやと眠っている彼女を見やると、なっちゃんがこんなになるなんて初めてだわ、とか、中年女性みたいなおおげさな驚きかたをしつつ、彼女の部屋まで案内してくれた。
 ちなみに、この管理人、うちの大学を出たばかりのフリーター。正確には先輩だけど、私はご存じなかった。ここはバイトの管理人をやとっているようだ。
「ここがなっちゃんの部屋。あんた、鍵は?」
「ない(なっちゃん?)」
「仕方ないね‥‥ほら」がちゃりと、なんの遠慮もなく合鍵を差し込んだ管理人が、ドアを開けた。「介抱してやんな」
「私が?」
「他に誰がいるの」
「でも私、明日授業が‥‥」
「そんなもん、サボればいいじゃん。それに、終電までまだ二時間近くあるし」
 そんなふうにして、最初から結論の決まっている議論を繰り返しても意味がないことに私が気付いたとき、私は彼女をベッドの上に寝かせて、部屋のど真ん中にぼんやりと立ち尽くしていた。
「何で立ってんだ」
 自分でその行動にツッコみつつ、床にどっかと腰を落ち着けた。
 そして、改めて部屋をぐるりと見渡す。
 一言でいえば、きれいな部屋。それに尽きる。
 壁紙はほとんど真っ白に近いけれど、どうにも薄い朱か黄色であるようだ。
 1Kのさして大きくない部屋の中には、家具としてベッド、テレビ、DVDデッキ、カーテンのかかった本棚。そして机。椅子。
 クローゼットは壁に埋め込まれているのか、部屋の入り口のすぐ横に横開きの扉があった。
 純粋にきれいな部屋だと思う。けれど、イメージと突き合わせてみれば、それはどちらかというと、拍子抜けに近い。
 そう、私は、勝手に想像していたのだ。窓のカーテンは白いレースでフリルがついていて、ベッドの上には無数のぬいぐるみ。どこまでもファンシーでファンタジーな、王宮の姫さまの個室みたいな、そんな部屋を。
 だから、拍子抜け。そんな感じだった。
(そりゃ確かに、一人暮らしじゃこんなもんだよな)
 社会人ならともかく、学生なのだし。通常四年で出られる部屋に、そんな好き勝手な装飾を施せるかといわれれば、そうとは言い切れないのだろう。
 所在無げにあたりを見渡す。キッチンには冷蔵庫もあるけれど、勝手に開けて中を物色するのは、なんとなくためらわれた。
 いや別に、何か危ないものが入っているかもしれないとか考えているわけではないのだけれども。なんとなく。なんとなくだ。
(おや)
 ふと視線を戻すと、ベッドの下に収納されているいくつかの箱の一つに、馬鹿でかく『DVD』と記された箱があった。
 どう見ても手書きなのだけれど、これは彼女の筆跡なのだろうか。なんというか、もっと慎ましやかでおしとやかで、可憐な字を想像していたのだけれど。ちなみに、可憐な筆跡ってどんな筆跡かと問われても困る。
「ちょっと覗かせてもらうよ〜‥‥」
 聞こえるわけはないと判っていても、そう断らないと気分が悪かった。
 というわけで、形式上断ってから、その『DVD』の箱を引きずり出す。ずいぶん重かった。
「えっちなビデオとかだったらどうしよう‥‥」
 いや、それはそれで。何を考えているんだ私は。
 無意識のうちに、ごくりと喉がなる。カバーとしてかけられていたらしい布をゆっくりと持ち上げて、静かに、静かに蓋を開ける‥‥。
「‥‥え」
 そこにはDVDが陳列されていた。確かにDVDだった。
 ついでだから、私がこれを開くまで、この中に入っている可能性のあるDVDを想像した、そのランキングを発表しよう。
 古い恋愛映画。
 最近流行のファンタジー映画。
 スタジオジブリのアニメ。
 名前を出すだけでお金を取られる可能性のある、ネズミのバケモノのアニメ。
 正解は、どれでもなかった。
 そこに陳列されていたのは。
 007の廉価版DVD二十巻。
 X−FILEのシーズンコンプリートボックス。
 マトリックス三部作、を含めた十枚セットのボックス。
 刑事コロンボのDVDボックス。
 その他、もろもろ。スパイ映画、アクション映画、パニック映画。
 これを見れば、一瞬で持ち主の趣味がわかるだろうと思えるような、きっちりとした分類。すばらしくきれいだった。
 ただ。
 これよりも先に本人を知っている身としては、ぽかんとするしかなかった。
「あ‥‥『シークレットウィンドウ』だ‥‥」
 これ、最近出たばっかりだったはずだ。スティーブン・キングの原作。映画が面白かったかどうかは知らない。
「ミッションインポッシブルU、結局見たことなかったっけ」
 名前だけは有名なはずなのに、テレビでやるのは最初のほうだけだから。
「スピードはやっぱりワンだよね‥‥」
 うーむ。映画の趣味が私と合うというのは、あまり女の子っぽくない傾向があるような。
 ベッドを見れば、彼女はまだ眠っていた。
 部屋を見れば、住む人の性格が判るという。
 好きな映画を知れば、その人の性格が判るという。
 諸説あるのだろうけれど、ただ、今私は、彼女のことがまた少しだけ判った気がした。
 私のイメージの中の彼女と、目の前で気持ちよさそうに眠る彼女は、必ずしも同一人物じゃない。
 でも、仮にそうだったとして、それがなんだというのだろう。
 イメージの中で無意識に美化されるより、よっぽどいいじゃないか。
 それに。
 彼女に対する、他の連中のイメージを想像してみる。
 もしかして、彼女がこんな趣味の持ち主だってことを知ってるのは、私くらいなものじゃないだろうか。
 彼女を遠巻きに見つめる人間はあっても、親しげに話しかけていく人間は、そうはいなかったはず。
 ――うん。思い出してみる限り、いないはずだ。
 そう思った瞬間、口元が緩んだ。なるほど。彼女の秘密というわけか。
 もちろん、隠したくて隠していたわけではないかもしれない。ただ、口にする機会がなかっただけかも。
 そんなことはどうでもいい。ただ今は、彼女の秘密を知れたという喜びだけで、胸がいっぱいだ。
「‥‥あ‥‥雨」
 いつの間にか、降っていた。
 唐突に、今朝の天気予報を思い出してみようと努力したけれど、無理だった。
 でも、まさか雨が降るとは思っていなかった。傘も無い。
 どうしよう、と思いながら玄関に目を向ければ、そこに、緑色の女性用の傘がひとつ。
「‥‥」
 時刻は十二時になろうとしている。
 恐らく、今すぐ出なければ電車には乗れないかもしれない。
 明日は二限目から授業だ。
 ここは彼女の家だから、傘が無くても問題ないだろう。
 でも、明日の朝まで降っていたら?
 書置きを残していけば。
 そういえば、彼女は明日午後からだったはずだ。三限目の中世文学特殊研究にいるのは知っている。
 ここまでの道は覚えた。明るい昼間なら、もっと簡単に来られるかもしれない。
 雨がやむのを待ったら、きっと電車も終わってしまう。
 明日の二限は、ただ趣味で取っている心理学だ。サボるのにはもってこいの授業。
「‥‥どうしよっか」
 私は、幸せそうに眠る奈良原さんの顔に、ゆっくりと自分の顔を近づけていく。
 彼女の静かな寝息が聞こえる位置まで来て、私は動きを止めた。
 なんとなく、そのほっぺたをつついてみる。
 ――ぷに。
「やわらかい」
「んむ‥‥」
 奈良原さんが身をよじる。私はゆっくりと、彼女から顔を離した。
「‥‥さて、どうするか」
 前進か、後退か。
 そういえば、この前の欧州古典文学概論でやったシェイクスピアのハムレット。
 あの主人公が悩んだのも、同じようなことだったっけ。
「To be, or not to be...」
 あるべきか、あらざるべきか。
 生きるべきか、生きないべきか、と訳されることが多い。
 復讐の念を抱いて生き続けることも、それを諦めて死ぬことも、どっちも優劣つけがたい。そういう意味かどうかは判らないけれど、私はそう解釈した覚えがある。
 だったら、さながら今の私は。
 ――To do, or not to do.
 やるべきか、やらざるべきか。それが問題だ。
「我が人生最大の苦悩‥‥」
 私は、ベッドに眠る奈良原白夜を見下ろした。


---帰る---

---帰らない---


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