帰る、と決めた。 | |
帰ろう。 「‥‥ま、それが妥当なところか」 もう二年以上同じ教室に机を並べているとはいえ、まともに口をきいたこともない。 彼女がどんな性格をしていてどんな生活をしているのか、今日この瞬間まで、ほとんど知らなかったといえるだろう。 今でこそちょっとばかり知ったと思えるけれど、それもまだ彼女の"かけら"でしかない。 まだ、彼女と仲良くなったと判断するには、気が早い。早すぎる。 だいたい、今回合コンに付いてきたのだって、男が欲しかったからじゃないか。 本人からはっきり聞いたわけじゃないけれど、それ以外の目的で合コンに来るやつなんかいるわけがない。 「やっぱ男か‥‥」 こんなお嬢様でも、人恋しくなることがあるのだろう。当たり前だ。人間なのだから。 「でも、まあ」 これで、彼女に一歩近づけた。 明日学校に行ったら、彼女にノートを借りよう。そして今日の話をして、盛り上がろう。 部屋の中を勝手に物色したことを謝って、映画を見せてくれとせがんでもいい。 とにかく。 「これからだね。うん、これから」 ベッドでぐっすりと眠っている彼女の寝顔を眺めれば、あるひとつの確信がもてた。 私は、奈良原さんが好きだ。 ずっと、目で追いかけていた。 それは、私にないものを持っているから。 私の憧れだったのだ。 そして今。 目の前で無防備な身体をさらして眠っている彼女を見て、思う。 私は、貴女と仲良くなりたい。 友達だっていい。クラスメイトでしかなくてもいい。 でも私は、貴女ともっと仲良くなりたい。 だって、判ってしまったのだ。 私は、彼女に恋をしているのだ、と。 私は、彼女の机の上に置かれていたメモ紙を一枚拝借して、書置きをした。 一応、傘を借りることだけは断っておかないと。 明日も雨が降り続いていたら、かわいそうだし。 もしそうだったら‥‥傘返しに、ここまで来ようかな。 さて。 あまり長居するわけにもいかない。終電の時間が近づいてきた。 私は、傘の件といくつかを書き残すと、ペンと鉛筆を机の上に置きなおす。 そして、眠っている彼女の漆黒の髪の毛を、ゆっくりと撫でた。 「‥‥おやすみ」 また、明日。 | |
次の日。 二時間目の授業が行われる教室は、前の時間の授業がないので、まだ誰もいなかった。 こういうときに限って知り合い連中がこぞって休むのは、いったいどういうつもりなのだろう。 私は、そのさして広くない教室に入ると、電気をつけていつもの指定席に向かった。 「あの、霧越さん」 足が止まる。 後ろから、声がした。 呼び止められて、止まって。 そして、止まってから初めて、その声の主に思い当たった。 心臓が高鳴る。緊張する。私はなんでもないように、ことさらゆっくり振り向いた。 「‥‥あれ、ああ、おはよう」 彼女の顔がそこにあった。 「この授業取ってたんだ?」 「ううん、その‥‥お礼が言いたくて」 「わざわざ?」 「家、近いから」 「そっか」 会話が止まった。 彼女はどこか恥ずかしげに俯いている。私は、何を言うべきか悩んで、何も言えないでいた。 「‥‥霧越さん」 「――なに?」 私は、この冷たい返答をする癖をどうにかしたほうがいいと思う。 今まで家族や友人に言われても直そうとしなかったそれを、今ほど後悔したことはなかった。 「昨日はありがとう」 それは、朝顔が花開くような明るさを持っていて。 向日葵のように元気ではなかったけれど、それが余計に、彼女のはかなさを印象付けていた。 綺麗。素直にそう思った。 そして今、その彼女の笑顔は、私に向けられていた。 それだけで、胸が弾む。高鳴る。耳元に心臓があるみたいだ。 「どういたしまして」 その一言を出すまでに、数秒の時間が経ってしまった。 無意識のうちに、喉がごくりと鳴る。 「それで、あの‥‥その」 もごもごと、口の中で何かを言おうとして、でも言えない。そんな葛藤が感じられた。 ――彼女もどきどきしてるんだ。 私だって緊張しているけれど、彼女はきっと、それ以上に緊張しているんだろう。 なぜなら、彼女にとって私は、たぶんただ冷たいだけの女という印象しかないんだろうから。 そういうイメージを持たれるように行動してきたから、当然なのかもしれない。 でも。それはイヤだった。 彼女とおしゃべりしたい。彼女と仲良くしたい。彼女の笑顔をもっと見たい。 そして今、その彼女は、何も言えずに俯いている。 彼女が何を言いたいのかは判らない。でも、後押しすることくらいはできる。 彼女がこんな性格の人間だってことくらい、充分判るじゃないか。そう簡単に、見知らぬ人に声をかけることなんかできるはずがない。 だったら、せめて私が。 私が、貴女を助けてあげる。 そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。 「えっと‥‥あっ」 彼女の体が一瞬で硬直する。 私が、彼女と肩を組んだからだ。 さすがに、正面から抱きしめることはできなかった。それは、いつかのために取っておこう。 「風邪とか引いてない? 大丈夫? 昨日あのまま寝たでしょ。着替えもしないで」 「え、えっ‥‥と」 「まさかなっちゃんがあそこまで飲むなんてね。びっくりしたよ、私」 「へ? い、今、なんて‥‥」 「奈良原だからなっちゃんか。可愛いね」 「えっ」 私が言うと、彼女は顔を真っ赤にして俯いた。うん、やっぱり可愛い。 しかし。誰もいない教室で、肩を組んで会話する二人の女子大生。なんておかしな図。 そう思うと、余計にゆかいな気持ちが押し寄せてきた。彼女が、数年来の気の合う友人であったかのように思えてくる。 ――数年前からずっと見ていたのは事実なんだけど。 「なっちゃんの部屋、思ったより何もなくて驚いたよ。日向荘って、そういうところ厳しかったりするの?」 「そ、そんなことはないけど‥‥あまりごちゃごちゃしたのは好きじゃないから‥‥」 「へぇ、意外。ぬいぐるみとかがひしめいてるところを想像してたんだけどな、私」 「あっ、それなら」 ぱっと顔を上げた彼女と私の顔が、ぶつかりそうなくらい近づいていた。 「わっ」 「ご、ごめんなさい」 ふたりして猛スピードで顔を逸らす。私の顔、赤くなってないかな‥‥。 「私の実家‥‥長野なんだけど」 「うん?」 彼女は、照れたように笑い、そして言った。 「実家の私の部屋、ぬいぐるみがたくさんあるの。持ってこようとしたらお母さんに怒られちゃって‥‥」 ちっちゃく舌を出す仕草が、たまらなかった。 「そっか」 「うん。だから、私がぬいぐるみ好きっていうの、合ってる」 もしかしてこの子は、私を気遣ってフォローしてくれたのだろうか。 嘘だとは思えなかったから事実なのだろうけれど、そんな彼女のさりげない優しさが好ましかった。 そして、気付かぬうちに私は言っていた。 「じゃ、いつか見に行きたいね」 「えっ?」 「私もね、実はぬいぐるみは大好き。可愛いものは好きなの」 貴女みたいに、可愛いものはね。 「そうなんだ!」 顔がほころぶ彼女が素敵だ、と心から思った。 「意外かな?」 と私が言うと、 「ううん、そんなことない。私も好きだから」 どきっとした。 貴女はいつか、その言葉を、私に向かって告げてくれるだろうか。 と、おかしな想像なんかしてしまって。 「あ、それから」 私は、そんな妄想を悟られないように、慌てて話題を変えた。 「007、好きなの?」 「えっ!?」 私が彼女のDVD収納箱を覗いてしまった話をすると、照れながらも、でも楽しそうに微笑んだ。 「でも、やっぱりおかしいよね‥‥」 苦笑する彼女に、私は心から言った。 「いいと思うよ。私も好きだし。ただ、全部は見たことないけど」 「実は、私も。あるだけで、全部はまだ‥‥」 恥ずかしそうに笑う彼女に。 「じゃあさ」 私は、言った。 「今度、徹夜して二十巻制覇してみよっか」 「‥‥」 ぽかん、と、彼女は私を見つめて。 「わあ、面白そう!」 満面の笑みを、浮かべるのだった。 貴女といる時間が、きっと好きになれる。 今まで以上に、もっと。 だから。 いつか、貴女の家に行こう。 たくさんのお酒と、たくさんの話題と、ちょっとのお菓子を持って。 時間はたくさんある。きっとたっぷりある。 きっと、楽しい夜になるよ。 ね、なっちゃん。 | |