演劇集団三色旗 第七回公演

灰の中の黄金
-in the ash-

[前途多難][椎葉朱里×霧越藍]


 私が見つけたその少女は、あたかも西洋人形のような映える金髪をしていた。
 ふわふわで純白のドレスを身に纏い、少女は上目遣いで私を見つめていた。
 こんな少女がたった一人で居る場所ではない。
 私は思いがけず高価な拾い物をした心持ちで、彼女の手を引いて自宅まで帰った。

 私の家は六畳一間のあばら屋である。
 ラジオだのテレビだのといったハイカラなものは何一つ置いていないし、隣り合っている工場の排気が、窓を閉めても遠慮無く侵入してくる。
 それゆえ私は、病気で死ぬならきっと肺を病むだろうとここに越してきた六年前から確信していた。
 そんな灰色の私の部屋が、少女を連れ込んだだけで宮廷の広間に様変わりしたようだった。
 きょろきょろと物珍しそうに私の狭苦しい部屋を見渡す少女を横目に、私は窓を閉め、道端から拾ってきた新聞紙で更に窓を塞いだ。
 これでは煙だけでなく光すらも遮断してしまうことになるが、少女に汚れた空気を吸わせるよりは遙かにましであった。
 窓を完全に封じてしまうと、新聞紙の向こうからかすかに降ってくる西日だけが、ほんのわずかに部屋の中を照らした。
 その光の真ん中で少女は、ちょこんと小首をかしげて私を見上げる。
 まるで西洋映画の主役に降り注ぐスポットライトのように太陽光を浴びながら、少女は自分をぼんやりと見つめる得体の知れない日本人に対して、無垢な笑みを向けた。
 私は少女のそんな様に胸がときめくのを覚えながら、膝を折ってしゃがみ込んで、少女と同じ目線の高さまで顔を持ってきた。
 恐がりもせず楽しそうににこにことする少女に、私も自分の頬が緩むのを感じた。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
 日本語が通じるようには見えなかった。
 しかし、何となく会話ができるように思えて、私は少女に声を掛けた。
 少女は黙って首をかしげる。やはり通じていないのかも知れない。
「どこから来たのです?」
 私がそう質問しても、少女は黙ったままであった。
 黙ったまま、私の瞳をじっと見つめる。
 写真や映画でしか見たことのない、青色の瞳。
 吸い寄せられて、取り込まれて、まるで引き付けられるかのような感覚が、体を突き抜ける。
 この世の全てのものが、きっと面白く、不思議で、好奇心を掻き立てられる素材なのだろう。
 純粋できらきらと輝く目が、そう告げていた。

 さて、問題は、私がこの少女、藍(私が名付けた。西洋人であろう彼女に日本名を付けるのは多少憚られたが、その藍色の瞳が私の印象を強く引き、そう名付けることとした。)を、道端から拾ってきてしまったことである。
 新聞紙ならばともかく、一人の西洋少女を手に入れたというのは、ただ事ではない。
 お人形のように美しい少女であるということもさることながら、藍も人の子であるならば、親兄弟があるはずである。
 なぜ藍があのような場所に居たのかについて私が知る由はないのだが、しかしながら、意図的に放り出されたのでない限り、藍の親類は今現在、彼女を捜していることだろう。
 幸い、藍を見つけた界隈からここまではずいぶんと歩くので、そう簡単にここにいることが発覚するとも思えないが、しかしいつまでも内緒にしておくわけにもいくまい。
 そのような現実問題を一度考えてしまうと、仕事である執筆作業に気が入るはずもない。
 私は、だから、万年筆を手に文机に向かいながら、そんな私の仕事の様子を珍しそうに覗いてくる藍をちらりちらりと視界の隅に映し、そして考えるのであった。
 これから私はどうすればよいのだろう、と。

 私の仕事は文章の執筆である。
 それも、新聞社や雑誌社で記事を書くような類の仕事ではない。
 歴とした作家。小説家こそが、私の生業なのである。
 ある日私は、これっぽっちも進まない仕事に焦りを感じた編集者に呼び出され、いつも彼女と仕事の打ち合わせをしているときに使っている喫茶店へ向かった。
 藍は付いて来たがっている表情を見せたが、そういうわけにもいくまい。
 不用意に外に出して、見回り中の警官や藍のことを知っている連中に見つかってしまっては、元も子もない。
 決して隠すつもりはないのだが、やはり心の準備ができるまでは、藍を手放したくはなかった。
 それに、もう一つの目的もあったからだ。

 外に出て初めて思い出した。
 今の季節は晩夏。蜩の鳴く声が止んで久しい。次は鈴虫の出番であろう。
 その丁度中間に当たるここ数日は、時期を外した蝉達がたった数日の儚き天下を謳歌しているような鳴き声が辺りを取り巻いている。
 窓を閉め、外からの音を遮断している私にはさっぱり判らぬことであったが。
 そういうわけでようやく気付いた季節の変化に翻弄されながら、私は待ち合わせ場所である喫茶店へ、約束の時間を多少遅れて到着した。
 戸を押し開くと、からんころんという鈴の音が店の中に響く。
 客が入ってきたことを知らせる合図らしい。すっかり顔馴染みになった店主が、私の顔を認めると微笑していらっしゃい、と頭を下げた。
 私は沈黙してそれに会釈し返すと、店内をぐるりと見渡す。
 裏通りに面する窓の席に、編集者が一人で座っていた。
 こちらに背を向けていたのが、くるりと振り向いた。
 およそ日本人らしくない整った顔立ちに、眼鏡が理知的に光る。
 女性はあまり着用しないだろう洋物のスーツが、彼女には誂えたように似合っていた。
 一言で表現するならば、秀才。
 それが、私の彼女に対する第一印象であり、現在でもそれは変わっていない。
 尤も、今はそれに「口うるさい」だとか「世話焼き」だとか「規則に厳しい」だとかいう付加要素が付いているのだったが。
「十二分の遅刻ですよ、先生」
 お久しぶり、と声を掛けて彼女の正面の席に座るなり、そう切り出された。相変わらず、仕事熱心なことである。
「それは悪かった。随分と久しぶりだったもので、道に迷ってしまったよ」
 テーブルの上、私の目の前に、店主が水を置いてくれた。店主に向かって私はアイスティーを注文して、水を一気に飲み干す。
 異様なほど喉が渇いているのは、外が暑かったから、だけだろうか。この編集者の前に居ると、嫌でも緊張してくるのが自分で判った。
「先生。早速ですが、最近の動向をお聞かせ下さい」
「動向だって」私は無意識のうちに肩を竦めた。まるで私が原稿の執筆をせずに別のことをしていたかのような口ぶりである。「調子、の間違いではないのかい」
「いえ、動向です」
 彼女は、いやにはっきりと述べた。その眼鏡の奥の瞳が、私を射抜くように真っ直ぐ向けられる。
 私は腹の底を探られるような、気味の悪い、居たたまれない気分になって、彼女から顔を逸らした。
「確かに原稿が遅れているのは申し訳ないと思っているよ。しかしね、最近ようやく新しいイメージが湧いてきたんだ。これからはいいものが書けると思うよ」
 苦し紛れに言い放った方便のようだな、と自分で思ったが、しかしその言葉はあながち虚言ではなかった。
 つまり、私は今でこそあの少女、藍についてのことで頭が一杯なのだが、それさえ乗り越えられれば、藍によって生まれたイメージで物語を書くことができると踏んでいた。
 これまで、私の書く物語に、西洋人が出てきた試しはほとんど皆無といってよかった。
 しかも今回は、飛びっきり可愛い少女である。イメージが浮かばないほうがどうかしていた。
 それに、どちらにしろ藍を養うためには書かなければならない。書くことは今や、私自身にとっての至上命令だったのである。
「先生」
 編集者が何か言いかけたとき、コトリと音がして、私の前にアイスティーの入ったガラスのコップが置かれた。
 見上げると、店主が穏やかに頬笑んでいる。
「有り難う」
 私は店主にお礼を言って、ひんやり冷えたコップを手に取った。冷水の雫が掌にじっとりと広がる。
「先生、宜しいですか」
 と、編集者は苛立たしげにこちらを見やった。
 どうやら今日の彼女は機嫌が余り宜しくないらしいぞ、ということに私がようやく気付き始めた頃、彼女はふと私から視線を外し、窓の外を見つめた。
「どうかしたのかい」
「いえ」
 私が見ている前で、彼女は私に横顔を向けたまま、目を瞑り、大きく一度深呼吸をして、そしてこちらに向き直り、いつもの感情など欠片も残っていないような冷たい瞳で、私を見据えた。
「先生。申し訳ありませんが、もう書いて頂かなくて結構です」
「――え」
 聞き返した。思わず聞き返した。聞き返さざるにはいられなかった。
「ですから、もう我が社で書いて頂く必要は無くなりましたと申し上げました」
 その言葉がどういう意味であるのか、そのときの私にはさっぱり理解できなかった。
 いや、実際にはきっと理解できていたのだろうと思う。
 しかし、それを受容できなかったのだ。
 だから、頭が真っ白になって、がつんと後頭部を殴られたような衝撃を受けて、目の前が真っ暗になった。
「ちょっと――待ってくれよ。それって――」
「ご理解頂けて光栄です」
 誰が理解しているものか。
 このときばかりは、今まで適当に聞き流していた彼女の毒舌に腹が立った。
 煮えくり返るような思い、というのは、恐らくはこういうことを言うのだろう、ということを、私は作家になって始めて知った。
 成る程、これからは物語の中で登場人物が怒りに震える場面を、もっと巧く書くことができるな、などと場違いなことを考えながら。
 これからはそんなことを考える必要すらないということも、頭のどこか片隅で気付きながら。
「先生の作品は、人物の描写がとても巧みです。恐らく、現代で先生と同じように小説を書いている方で、それが先生以上に長けている人間は無いと私は思います」
 だったら何故私を切り捨てるのか。
 とは、私は聞かなかった。聞いても仕方なかった。
「先生の場合遅筆が目立つのが玉に瑕というところでしょうか」
 確かに遅いかも知れない。締め切りなど守ったことは一度として、無い。
 だが、それが何だと言うのだ。他の連中だって、締め切りというのは有って無いようなものではないか。
「もしかして――後任は決まっているのか」
「一応は決まっています。先生と同じ女流作家ですが、この方はご家庭を持っていらっしゃるので、主婦の層を狙っての抜擢だと」
 そういうことか。つまり私は、この年になって一度も結婚していない、女として間違っているような人間は、お呼びではないということか。
「先生の作品は女性的な文体と男性的表現の入り交じった、とても個性的なものが多いので、他の出版社でも必ずお仕事が貰えると思います」
 思います、思います、などと、推測で話すんじゃない。
 もはや私の頭は、編集者の言うことが一つひとつ、苛つきの原因になっていた。
「うちのような女性雑誌ではなく、男性の読むような雑誌や新聞社に応募してみては如何です」
 取り繕ったようにそんなことを言ってくる彼女に、私は拳の一発でもくれたい気分になった。
 だがそんなことをしたところで、悪いのは彼女ではないし、それにそんな行動にすぐ出るから、女性らしくないとか非難される原因になるのだ。やるだけ無駄なのだ。
「それから、先生の場合は、まるで宝塚歌劇団の男役のスタアのような人気がありますから、きっと成功しますよ」
 世の女性達に対し、私の作品が予期せぬ人気を博していることは私も知っていた。しかしその人気は私の書く物語の主人公たる女性へであって、私本人へではない。
 その後も編集者、いや、元編集者は、これまでそんなこと一言たりとも言ったことのないような褒め言葉を私に与え、私の分の伝票まで握って、店を出た。
 それから更に一時間が過ぎても、私は氷が丸っきり溶けてしまってすっかり薄くなったアイスティーのコップの前から動くことすらできなかった。

 どうやって家まで辿り着いたのか、記憶がなかった。
 ふと気付くと、しかしそこは我が家であり、私は暖かくて柔らかい何かを頭の下に敷いて眠っていたらしかった。
 ついでに目が痒い。どうやら泣いたらしい、というのは、後から鏡を見て始めて気付いたことだった。
 目を開けてみると、そのすぐ前に見知った藍色の瞳があった。
 私の言うことも判らないはずなのに、そんな私に膝枕をして、藍は母親のように柔らかく笑んでいた。
 私が覚醒したことに気付いた藍は、ゆっくりと顔を私に近付けて、私の額に刹那だけ、口付けを落とした。
 そういえば西洋では口付けは挨拶代わりに行われる風習なのだった、などということに気付くのはずっとあとのことで、そのときの私は、そうして額に藍の唇が触れた途端、一気に体中が火照ったように熱くなった。
 きっと顔が真っ赤に染まっているだろうなと思いながら見上げると、しかし藍は恥ずかしそうな素振りを微塵も見せず、穏やかな顔の向こうにほんの少しだけの心配そうな雰囲気を覗かせた。
「心配させたかな」
 私は呟いて、体を起こす。
 藍が私の言葉を理解できないことは判っていても、そうやって何かを言わずにはいられない、それが藍の持っている性質のような気持ちがした。
「銭湯にでも、行くか」
 少し前から、自分の体が汗に濡れて気持ちが悪いことに気付いていた。それでもそんな私の側に居てくれた藍に心から感謝をしつつ、藍と住むようになってから数度顔を出している銭湯へ向かうことを決めた。
「藍。お風呂へ行こう」
 言いながら財布から小銭を取り出すと、藍が喜んでいるのが判った。
 まだ知り合って十日ほどしか経っていないが、いくつかの名詞については認識をしているらしかった。
 食事や風呂、仕事などは、彼女も理解できるようになっている。
 藍も少女とはいえ女だからか、どうやらお風呂は嬉しいようだ。
「それじゃあ早速――どうしたんだい」
 くい、と私の袖が引っ張られる感触がして、私は藍に向き直る。
 藍は私を見上げながら、私の裾を握るほうと反対の手で、文机を指さしていた。
 仕事はいいのか、と問うてるらしかった。
 思わずくすり、と私は笑って、藍の頭に手を乗せる。
 さらさらの金色は、やはり毎日でもお風呂に入れてあげたいという気分にさせる。
「いいんだよ」
 私はそれだけを言うと、私の袖を掴んでいる藍の手に自分の手を重ね、その手を引いて部屋を出た。
 あの文机に向かう日がまた来るのかどうかは判らない。
 しかし、せっかくもらった、予想だにしない余暇だ。存分に好きなことをしよう。
 遅筆とはいえ真面目に仕事をしてきたから、一年は何もせずに生きていけるだけの蓄えはあることだし。
「明日からどうしようか、藍」
 私が問うと、自分が呼ばれたことに気付いた藍が、こちらを見上げて小首を傾げた。
 沈みかけた西日が少女の白磁のような肌を染める。
 もう少しだけ、この小さくて暖かい少女の手を握っていたいと思った。



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