<<前 | -crying- 『雨』 |
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思えば最初から、その兆候はあった。 それどころか、もう入梅宣言された首都圏にとっては、それは降るべくして降っている。 けれども、目が覚めて最初に耳に入ったのが、窓の外からうっすらと聞こえる「それが地面を打つ音」だったときは、起きたばかりだというのにため息をついてしまった。 そして、隣に寝ていた陽ちゃんを起こさないように寝室を出て、リビングのカーテンを開け放った途端、それは大いなる落胆へと変貌した。 「やっぱり‥‥」 灰色の天からシャワーのように降り注ぐ水の音を聞きながら、僕はがっくりと肩を落とした。 しとしととそれは降り続き、止むことを願っている人々を嘲笑うかのように、決して尽きることなく、弱まることなく、そこにあり続けていた。 一週間ほど前。 買い物から帰ってきた僕を出迎えたのは、事務所の窓から空に向かって何かを一心につぶやいている陽ちゃんの後姿だった。 「何してるの?」「お祈り」「は?」 僕がぽかんとしたままそこに突っ立っていると、彼女は一通りお祈りを終えたのか、くるりと振り返って、笑った。 「雨乞い」 呆気に取られている僕を尻目に、陽ちゃんは僕の手の中にあるスーパーの袋から、彼女に頼まれて買ってきていたプリンを取り出す。 思わず僕は振り向いていた。事務所のドアがある。開けると、ちりんちりんと来客を告げるベルがなる仕組みになっている。 その外。真っ青な空に申し訳程度の雲が浮かんでいる、真夏を思わせる天気と、暑さ。 「暑いの、嫌いだったっけ?」 僕は、買ってきた飲み物や野菜がぬくくなってしまう前に冷蔵庫にしまおうと、居住スペースへ続くのぼり階段に足をかけた。その後方から、幸せそうにプリンをほおばる女子高生の返答が聞こえてきた。 「好きだよ?」「じゃ、なんで雨乞いなんて」「え?」 今度は、彼女がぽかんとする番だったらしい。よく判らなかったが、とりあえず今は両手に抱えた荷物のほうが大事だと思って、唖然とした表情の彼女をそのままにして、階段を上った。 そうだ、と口の中で声を上げて、僕はリビングの端に置かれているケイジを覗く。 どうやら、まだ寝ているらしい。さすがウサギ、寒いのは苦手か。ここ数日の天気は真夏並みだったから、ギャップが。余計に。 小さく笑って、再び窓の外に目をやった。 雨は嫌いだ。記憶のないはずの僕に対して、僕の経験でないような記憶を思い起こさせる。 いや、きっと、本当に僕の記憶ではないのだ。このドッグプレートを過去に持っていて、今は記憶という存在証明を全て奪われてしまった、一人の不幸な少女。 胸にかかった、男性用のワイシャツには似合わないペンダント――ドッグタグという、平べったい板に色々と言葉が書いてある――に視線を落として、ぎゅ、と抱いた。 おそらく、僕が知る以上に、僕を知っているもの。ねえ、どうしてきみは、僕に僕のことを教えてくれないの? ‥‥やはりだめだ。雨の日は存在しないはずの過去に思いを馳せてしまう。よくない兆候だ。僕は前向きに生きなければいけないのに。 ふと、窓に映る自分の顔を見て、ずいぶん暗い顔をしてるな、と思った。きっと、空が暗いからだけではないだろう。 一軒家の2階の高さから、空から降る水をぼうっと眺めていた。 勢いは緩まない。 「デート」 階段から降りてきた僕を、陽ちゃんがふくれっ面で待っていた。そのフグのクチから出た第一声が、それだった。 「デート?」「忘れたの?」「忘れたって、なに‥‥」「‥‥ひどい」 陽ちゃんは一瞬、愕然とした表情を浮かべた。そしてすぐにぱっと視線を逸らし、悲しさに耐えて笑いを浮かべる少女の顔になった。 「いいんだもん‥‥どうせ、口約束だもん‥‥」 片や僕はというと、当然、凄まじく戸惑った。そして、恐れた。何に? この、とてつもない状況の急展開に。 何故僕は、暑い中を買い物に出て帰ってきて「ひどい」と云われ、目の前で女の子に泣かれなければならないのか。それも、ただの女の子でなく―― 一瞬。 一瞬だった。 次の刹那には、はっと自分を取り戻していた。 けれど、自分を取り戻してからもずっと、そのことが頭から離れることは無かった。それが余計に、悪いことのような気がして罪悪感が消えなかった。 それはなにか。 彼女が、悲しく目を伏せる横顔が。 今にも涙が溢れてきそうな潤んだ瞳が。 怒りとも恥ずかしともつかぬ高潮した頬が。 つまりは、悲しみと衝撃にさいなまれている立花陽という少女が、背筋が震えるほど美しく感じたことが。 それが、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、僕の心を支配した。次の瞬間には、少女の震える肩を抱き、ソファに押し倒してしまいそうなほどに。 「そうだ」 僕はその場を取り繕うように、全く何も考えていない真っ白だか真っ黒だかの頭のまま、口だけを自然に開かせていた。 「してたね‥‥‥‥‥‥約束」 そして、思い出していた。彼女と約束していたことを。先月の終わりに、学校が創立記念日の平日水曜日、どこかに出かけよう、と。 それが、デート、か。 僕は、視界の端っこで、僕の顔色を伺うように横目で僕を見つめている陽ちゃんの視線を掴んだ。 この家の構造上、シャワーを浴びても寝ている家族達を起こす心配はない。 とりあえず陽ちゃんが起きる前にと、僕は風呂を使った。中には入らない。シャワーだけだ。 そしてふと、姿見に映った自分の裸身に目を合わせる。どちらかといえば、這わせる、に近いかもしれない。もしこれが僕じゃなくて誰か知らない人の視線だったら、本能的に恐怖を感じていたかもしれないほどの。 これだけは誰にも見せられない、お腹にある大きな傷。普通の人の感覚ならば、「お嫁にいけない」と思うことすらできただろうと思う。けれど、僕は思わない。なぜか。お嫁に貰ってくれるヒトなどいないから。違う。ではなぜだろう。 少しの間本気で考えたが、でも答えは簡単に姿をあらわした。 僕は、この傷を、見られているのだ。 陽ちゃんに。 僕が道端で倒れているのを見つけてくれたその夜、ほぼ昏倒状態だった僕を、陽ちゃんの父親である私立探偵、立花旭先生が運んでくれた。 そのあと、陽ちゃんは雪と泥にまみれた僕の服を脱がし、汚れを拭くさなか、それを見つけたということだ。 更に、僕がそのときにそれ以前の記憶をなくしていたことを踏まえれば、事実上、陽ちゃんはこの世の誰よりも早く僕の腹の傷を見たことになる。そう、僕よりも早くに。 だから僕は思っていた。一生を捧げるのなら、この人しかいない、と。 それが恋愛とか結婚とかに繋がるとは思っていないし、倫理的にも社会的にも問題があることくらいはわかっている。 けれど、そういうことを全て無視したところで、記憶をなくした自分に笑いかけてきてくれた陽ちゃんを僕が好きになったのは、それはもはや刷り込みというほかない。 いい加減寒くなって、昔のことを思い出すのをやめて新しいワイシャツに袖を通す。 風呂場から出て居間に入る途中、つい油断してケイジを蹴ってしまった。 「あうっ」 とは僕の悲鳴である。だがそれ以上に、驚いたやつがいた。ケイジの住人だ。 びっくりして起き上がってしまった黒いウサギに、僕は憐れみと謝罪とを絶妙に織り交ぜた苦笑を返すしかなかった。 起こしてごめん。 彼女が雨乞いを始めたのはなぜか。 そもそも、デートに行く、といい、遊園地とか動物園に行きたい、などと小学生のようなことを嬉々として喋る彼女にしてみても、当日が雨などというのは悲劇にしかならないと思った。 そのことを訊いた僕に、彼女は笑って答える。 「今のうちに降ってもらって、当日は晴れてもらうんだから」 それを本気で考えているのかどうか判らないところが、彼女の可愛いところだ、と思う。 世話焼きでおせっかいのくせに、それと同じくらいやきもち焼きで、純粋だ。天然、とまではいかない。僕の面倒を見てくれるくらいだ。しっかりしているに決まっている。 女の子の顔はひとつじゃない、という。彼女を見ていると、ころころと表情が変わるだけでなく、色々な面を持っていることでそれを実感できる。 僕は、一心不乱にお祈りを続ける彼女をからかうつもりで、云った。 「ねえ」「邪魔しないでよ」「今祈ったからって、明日降るってわけじゃないでしょ」「降るよ」 頑として譲らない。僕は苦笑しながらも、心の中で応援しながら、彼女を見つめていた。 僕も楽しみにしてるから。 なぜだか、どんどん窓への叩きつけかたが酷くなっているような気がする。こんなのは6月に降るものではない。もっとあとだ。8月とか。 僕は、すっかり起こしてしまったりおを膝に抱きながら、ソファに腰掛けたまま窓の外に目をやっている。りおは、時々あくびするくらいで、まだ眠たそう。 僕は女だ。少なくとも、生物学的にはそれが証明された。先生の知り合いのお医者さんが、証明書まで書いてくれた。 けれど、だったら、女とはなんなのか。男とはなんなのか。身体的特徴があれば男で、女なのか。 陽ちゃんは、性的にでなく、人間的に好かれる女性だ。と僕は思う。もちろん性的に好かれないというわけではないけど、あの性格と容姿で、性別を問わず人気があるのだろう。 いつも楽しそうに学校のことを話す彼女を見つめるたびに、思っていたことだ。 でも、だったら‥‥。この逆接の接続語も、それに続くようにしていつも絶対に頭に現れる。 でも、だったら、僕はどうなのだろうか。 僕は女といえるのだろうか。口調、一人称、どれも女性らしくはない。それどころか、どうも僕という一人称は、口を突いて出た印象があって、小さい頃から使っていたようにも思える。 容姿。これはまあ。髪の毛をいつも短くしていること以外は、あと服装のセンスがないこと以外は、つまり中身については、陽ちゃんにいいなあ、といわれた記憶がある。何が"いい"のか、よく判らないけれど。 性格。これが一番問題だ。僕はどんな性格をしているのだろう。男っぽい、男らしい、男勝り‥‥どれも、性格とは云いづらい。だいたい、こんなことを考えれば、じゃあ「男」ってなんだ、というところまで思考が延びてしまう。 ではどうやって考えるか。当然判りやすいのは、身近な例を挙げることだ。陽ちゃん。 僕は陽ちゃんと比べて、どうなのだろう。純粋で素直で、優しくて世話焼きで、可愛くて可愛くて、笑顔がとても可愛くて、抱き締めたくなりそうで、美しくて美しくて、悲しむ姿がとても美しくて―― なにをやっているのだ、僕は。 窓に映った自分の頬が、高潮しているように見えた。ぺた、と窓に頬を当てると、ひんやりとして気持ちがいい。 お湯に当たったかな‥‥? 日曜日を前日に控えた日。つまり土曜日。 その夜中、事務所から戻った僕を出迎えたのは、テーブルの上にまるで戦の終わった後の関ヶ原の如く転がっている大量の白い身体。 「‥‥なにこれ」「見てわかんない? てるてる坊主」「なんで?」「‥‥ひどい」 いつかと同じような応酬があって、陽ちゃんはその手に握られていた作られ途中のてるてる坊主をハンカチ代わりに、さめざめと泣く美少女を演じてみてみせた。 「しくしく。ひどいよう」「判ってるよ、明日のでしょ?」「覚えてる?」「当たり前だって」「じゃあ、何時何分にどこに出発?」「え?」 畳み掛けるような彼女の言葉に、僕は返答に窮してしまった。 だいたい(そういえば)、何時に出るとかどこに行くとか、何も決まっていないではないか。 まさかそれすら僕は、記憶喪失の一端としてふっトばしてしまったというのか。 「え、だって、決まってたっけ?」「!! ひどい、今度こそひどい‥‥」「あ、いや、その‥‥」 身体にしなを作って、しくしくと声を上げて(「しくしく」と)泣く彼女に、僕は困った困った思い出せないどうしようと思いながら声をかける。 「あのさ、陽ちゃん‥‥‥‥ごめん、ほんとに覚えてない」「ほんとに?」「うん‥‥ごめん」「‥‥‥‥ふうん」 そのときの僕には、この「ふうん」がとても冷たく聞こえて、ああついに見放されてしまったかと、これ以上無くなるなどと思っていなかった自分の記憶中枢に鉄槌を食らわせる判決を下した。 「よかった」 彼女が笑う。僕が驚いて彼女を見る。彼女は笑っている。僕はワケが判らない。彼女は楽しそうに声を上げている。僕は首を傾げるしかない。 「ほんとに忘れてるんだね、ゆきさん。まだ、行き先だって決めてないのに」 思い込みかもしれないけど、天の灰色の含有量が少なくなってきたように思えた。 それと同時に、水の量も減っていく。ような気がする。 僕は思わずほっと息を漏らす。りおが不思議そうにこちらを見つめた。と同時に、りおからお腹の鳴る音が聞こえてきた。もちろんりおではなくて、りおの身体に密着している僕のお腹だ。 ご飯をどうにかするのを忘れていた。りおの分も。 僕はもう一度だけ窓に目線を投げる。そして笑った。 どうやら、彼女が泣くことにはならないで済むらしい。 crying---End |
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