<<前 | -crescent- 『お花見』 |
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「お花見に行こー!!」 寒さも遠のいた4月の頭。 窓を開けると、新緑の匂いが乗った甘い風が吹き込んでくる、そんな朗らかな春の朝。 いつものように責任者不在の『立花探偵局』。 元気よくドアを開け放ち、少々遅い出勤を果たした紅一点の局員、麻生朋香さんが開口一番に放った言葉が、それだった。 でもそのときは局長どころかもう一人の局員もいなかったため、それに驚いて振り向いたのは僕と陽ちゃんだけだった。 陽ちゃんの膝の上でまどろんでいたりおは、朋香さんのその大声にびくっと体を震わせ、ぱっちりと目を覚ました。 「おはようございます、朋香さん」 苦笑しながら僕がソファから立ち上がると、彼女は満面の笑みを崩さないまま、 「うん、おはよー」 春物のコートを脱ぎながら、歩み寄ってきた。 「いい天気だねぇ」 「そうですね」 開け放たれた大きな窓の向こうには、芸術的な青空が広がっていた。 雲ひとつないわけでもなく、適度に白と青が共存している、春の空。 「こんな日は、のんびりするのもいいよねぇ」 ハンドバッグを自分の事務机に置き、何かを伺うように僕を覗き見る。 「‥‥」 陽ちゃんに目をやると、彼女は困ったように肩をすくめて、微笑んだ。 「ねえ、そう思わない?」 朋香さんがまくし立てる。 「‥‥お花見、ですか?」 僕の代わりに陽ちゃんが答える。 「そうそう! さすが、わかってるね、陽ちゃん☆」 「入ってくるとき自分で云ったじゃないですか」 「あははー」 僕のツッコミに朋香さんは、悪びれるふうもなく明るく笑った。 「でも、仕事はちゃんとしないとダメですよ?」 陽ちゃんが諭すように云う。 それに、わかってるって、と返事をして、朋香さんは自分の椅子に腰をかけた。 「今日、先生は?」 「もう出てます」 青空を臨む窓に一番近いところに置かれている、ひときわ大きな無人の事務机。 ここの局長を務める、立花旭先生の席だ。 「飯塚さんはどうしたの?」 「家族サービスでご旅行だという話ですが」 参った。 この人は、他の局員達の同行を一切頭に入れていないらしい。 それでよく探偵が務まるな、と思う。 「余計なお世話ですー」 「は?」 憮然とした表情の朋香さんを見下ろす。 このときの僕の顔は、ずいぶんと驚愕に染まっていたのだろう。 「そんなに驚かないでよ。呆れてたでしょ」 「‥‥ええ、まあ」 「ふーんだ。ゆきちゃんだってのんびりしてるくせに」 ぶう、と口を尖らせる。 「僕の仕事は事務ですから」 なおもぶーぶーと不満をたらす朋香さんに呆れ笑いを浮かべ、僕は再びソファに座る。 陽ちゃんの太腿の上から動こうとしないりおが、僕を見上げる。 「‥‥夜かな」 「えっ?」 ぼそりとつぶやいた僕の言葉に、陽ちゃんが首をかしげた。 「お花見。先生にも連絡しておかないと」 さすがに飯塚さんは来られないだろうけど。 「せっかくだし、実際お花見してなかったからね」 「‥‥」 目を丸くして、彼女が僕を見つめている。 「どうしたの?」 「あ、ううん、なんでも‥‥そっか。お花見か。やった」 「嬉しいの?」 「とーぜん。麻生さーん」 りおを僕の胸に押し付けて、陽ちゃんがソファを立った。 残された僕は、やはり押し付けられて状況をつかめていないりおを見下ろす。 見下ろしながら、誰に云うでもなくつぶやいた。 「女の子はよく判らないよ」 「お前だって女じゃないか」 ウサギの目がそう云っているように見えて、仕方なかった。 「準備できたよー」 通常、この『立花探偵局』に、開業及び閉業時間はない。 とはいっても、当然一日中番がいるわけではなくて、いわゆる自由業のようなものだ。 事務所を訪ねて誰かいればそれでよし、いなくても、ほとんどの場合は訪れる前に電話が来るから、それで時間を調節する。 なんの前フリもなくやってくる客というのが探偵の仕事というイメージがあったけど、そうでもないらしい。 そういう客というのは、おしなべていい話を持ってこないものだし。 「ゆきさん?」 「え?」 花見のソメイヨシノに合わせたのか、春らしい明るい色のセーターとミニスカート。 どっちにしても夜だから、そこまで色は映えないと思うけど。 「‥‥なに、ゆきさん、じろじろ見て? そんなに可愛い? 惚れる? 結婚する?」 「あほ。夜はまだ寒いから、コート忘れないようにね」 「あほって云うなー」 ミニスカートを翻し、自分の部屋に戻る陽ちゃんの背中を見つめながら、思う。 コートよりスカートをどうにかするべきなのかもしれない、と。 「お待たせ。‥‥ゆきさんは?」 「うん、僕はこれで」 数少ないレパートリーの中でも、春らしいと思える唯一のコーディネートだ。 ほとんど陽ちゃんに助けてもらって手に入れたものだから、あまりそんな実感はないのだけど。 「おめかししたら?」 「誰に見せるの」 そう僕は肩をすくめ、陽ちゃんを事務所の外に促す。 朋香さんは、場所取りの関係で一度家に帰る、といって先ほど出て行った。 なんだかんだ云って、今日も一人として客が来なかったのだけど、その辺については誰も何も云わない。 暗黙の了解というやつだ。曰く、『いてもムダ』。 局長の先生からしてそういう性格だから、よくこの事務所がもっていられるなと不思議でならない。 ━━もちろん、局員のひとたちの能力には脱帽ものだけど。 「そういう陽ちゃんも、誰に見せるのかな?」 「‥‥」 はっ、としたような表情に一瞬なってから、僕を見つめるその表情が赤らんでくる。 「?」 「行こう」 「へ?」 「はやく、行くの!」 ぷりぷり怒ったまま陽ちゃんはドアを開け事務所を出た。 一人取り残された僕は、呆気に取られしばし呆然としていたが、我に返ると鍵を閉め、玄関を出た。 ‥‥ちなみに、りおはというと。 「連れて行きたいよー」 「無理」 「寂しいと死んじゃうんだよー?」 「駄目」 「ひどい、けちー」 「不可」 そんな会話を10分も繰り返した後、このビルの一階に住んでいる大家さんに預かってもらうことにした。 いつものことながら、お世話になっていて顔が上がらない。 「どこにいるんだっけ、みんな?」 既に7時を回り、陽も落ちきった商店街の中を、連れ立って歩く。 特に寒くはないし、花見には適しているかもしれない。 「水無瀬川の土手だって云ってたじゃない。もう忘れたの?」 「うるさいな。‥‥でも、あそこってかなりの人がいるんじゃないかな」 「‥‥」 「‥‥」 「まあ、なんとかなるって」 軽々しく云ってのける陽ちゃんに、僕もなんとなくそんな気がして、 「そうだね」 とだけ返事した。 なんせ、あの麻生朋香が席を確保すると云ったのだ。 少数精鋭というにも少なすぎる、オーナー含めわずか3名のメンバープラスアルファからなる『立花探偵局』。 局長の立花旭先生はいいとして、麻生朋香さんもまた、大いなる秘密を持っている「特殊な」人間である。と思う。 紅一点、という云い方を最初にしたけど、それはつまり、オーナーのほかに男女それぞれが1人ずついるだけ、ということだ。 ちなみに、僕はまだまともな仕事をさせてもらったことはないし(居候の身で図々しいといえば図々しいと思う)、陽ちゃんはあくまで「仕事」には絡んできていない。 普通の女子高生を巻き込ませる仕事ではない、とは先生の口癖だ。 「どうしたの?」 「え?」 陽ちゃんが、純粋に疑問符を顔に浮かべ、こちらを見上げている。 「いや、なんでも」 なんにせよ、行けば判る。 行けば判るのだ。 水無瀬川は、事務所から歩いて15分くらいのところにある。 散歩のルートとしてはなかなか悪くない。 土手は堤防としての側面も持っていて、遊歩道が作られている。 その脇に10万本の桜の木が植えられている――という話だが、数えたことはないので判らない。 「どこかなー‥‥あ」 「あ」 露店やカラオケの音が聞こえてくる中、『それ』はかなり目立った。 桜の木の半分くらいの高さの旗が、一帯を包んでいる。そこには大きく、決して口に出してはいけないと禁呪にすらされている暴力団組織の名が書かれている。 まるでなにかの聖域のように、その周辺には人が誰もいなかった。 『それ』の主以外には。 「あー、来た来た。みなみちゃーん、ゆきちゃーん、こっちこっちー!」 「‥‥」 あまりに大きな声で呼ばれて、二人して顔を赤くしてしまう。 タダでさえ目立つ連中に大声で叫ばれ、周囲の人間が僕らから離れていくのを空気で感じた。 「あんまり大きな声出さないでくださいよ」 「気付かないかと思って」 悪びれる様子もなく笑う。能天気な人だ。 と。 街灯に照らされた周囲が陰り、見上げるとそこには、身長2メートルほどのボウズやソリコミが五人ばかり、僕たち――僕と陽ちゃんと朋香さんと――を取り囲んでいた。 「‥‥」 「‥‥」 思わず絶句する僕ら二人を尻目に、朋香さんがそのゴツイ大男達に声をかける。 「知ってるでしょ。今日の主賓だから、もてなしてあげてね」 そう云っただけで。 周囲の大男どもは、一斉に僕たちに向かって頭を下げ、そして同時に叫んだ。 「いらっしゃいませ、お嬢様方!! 場所は確保してあります、どうぞこちらへ!!!」 「は‥‥はは」 何度やられても慣れるものではない。 陽ちゃんのかすれた笑い声に無理もないと思いながら、促されるまま歩き出す。 大量ののぼりが囲う『それ』の中に。 『それ』には、さっきの大男達とほとんど変わらないような危険味あふれる連中が10人ほど、鎮座していた。 それが一様にこちらに向けて頭を下げているのだから、異様すぎるったらありゃしない。というか、単純に怖い。 「お嬢、こちらに」 男共の真ん中に座っていた、ひときわ異彩を放つヤクザ風の黒服男が、朋香さんを促す。 「三ちゃん、この子達に飲み物出したげて」 「はい! オイてめぇら、さっさとやれ!!」 「おす!!」 「っ!」 凄まじい怒号に、思わず身体をちぢこませる陽ちゃん。 一介の女子高生に「コレ」は強烈だと思う。 「あの‥‥朋香さん」 「はい?」 脇に黒スーツの男が二人陣取っている真ん中に、彼女はいた。 「‥‥すごいですね、相変わらず」 「あははー」 照れ笑いか。 褒めたつもりもないのだけど、そういうことにしておこう。 さっき、「ヤクザ風の」と云った。 申し訳ない、あれはれっきとした詐称だ。 事実は何かというと。 「風の」ではない。「本職」なのだ。 麻生朋香。 広域指定暴力団━━仁義を常とするヤクザ集団【麻生家】のお嬢様。 ‥‥つまり、ヤクザの親玉の娘さん、ということだ。 「うちの衆、好きなように使ってねー」 もう既に酔っているのか、ぽやぽやした表情で云う朋香さんの言葉を引き継いで、一番えらそうなさっきのヤクザさんが答える。 「そうです。パシリでも弾除けでも、仰せの通りにしますよ」 「はは、はは‥‥」 この人たちなら本当にやりかねないというか、本当にやるから、冗談にならない。 引きつった笑いを浮かべながら、心細そうに待っていた陽ちゃんの元へ戻る。 「すごいねぇ‥‥さすが麻生さん」 「ここに近づく連中はアホだよ」 「ささ、姐さん、どうぞ」 僕はなぜか、ここの若い連中に「姐さん」と親しまれている。 朋香さんとの繋がりで会うことはあっても、単独で会うなんてことをするわけがない。 それなのに、なぜか連中は、なにがおもしろいのか僕に引っ付いてくる。 暑苦しい男共に注がれたお酒に口をつけないわけにもいかず、僕はコップを勢いよく煽った。 「よっ、姐さん、いい飲みっぷり!!」 周囲から拍手が巻き起こる。 「‥‥ふう」 「ゆ、ゆきさん?」 「もっとだ!!」 「えー!?」 「さすが!! よし、もっとだ、もっと持って来い、姐さんのご要望だ!!!」 呆れ返る陽ちゃんのことは、この際考えないようにしようと誓った。 「うー‥‥」 あ、頭ががんがんする‥‥。 飲み始めてから一時間くらいしか経っていないのに、もう酔いが回ってきたのか‥‥。 「姐さん、大丈夫ですか?」 さっきまで朋香さんのそばにいた「三ちゃん」こと氏家三平太が、心配そうにこちらを覗きこんでくる。 「‥‥おいサブ」 「は? ‥‥あ、オレっすか?」 「そーだよサブ!」 「うわー出来上がってるよこの人」 「うるせー、酒持って来い、酒ー」 「へ、へい」 がし。 「へ? あ、あの、姐さん? 離してもらえないと‥‥」 「口答えするな!」 「は、はい!」 「なー、サブ?」 「はい?」 「‥‥」 「‥‥」 「ヒトの顔をじろじろ見るなー!」 「そんな理不尽な!」 「うるさい、どうせ僕が居候だからって馬鹿にしてるんだろ!」 「そ、そんな、滅相もない!」 それから先のことは、あまり覚えていない。 あることないこと口走ったような記憶はおぼろげながらあるけど、それだけだ。 気付いた頃には、宴は最高潮に達しており、その輪から外れたところで、陽ちゃんがひとり、ソフトドリンクのコップを咥えていた。 「あのー‥‥みなみちゃん?」 「‥‥」 「えーっと」 酔っていたとはいえ、昏睡状態までは至らなかったらしい。 30分くらい休んだらすっかり酔いは醒めて、今度はさっきまでの威勢はどこへやら、って自分で云うのも変だけど、陽ちゃんにびくびくしなければならなかった。 「怒ってる?」 「べつに」 「‥‥怒ってるじゃん」 「いいな、楽しそうで」 「‥‥」 夜桜にふくれっつらが映える。 ――なに云ってるんだ僕は、女の子相手に。まだ酔ってるのか? 「どうせわたしはお酒飲めないもん。まだ子供だもん」 「まあまあ」 「いいもん、オレンジジュース好きだから」 なんか前にも同じような状況があった気がするなあ‥‥。 クチは災いの元、未だに前回の約束を執行できていない身で、あまり大きなことは云えない。 「‥‥そうだ、陽ちゃん」 「なんですか?」 「素っ気無いなあ‥‥」 「ふん」 コップをあおり、中を空っぽにしてから再びオレンジジュースをペットボトルから注ぐ。 ふとその足元を見ると、もうオレンジジュースのペットボトルだけが4本ばかり散乱していた。 「‥‥ちょっとさ、歩かない?」 「もう暗いからイヤ」 「そう云わないで、ね?」 渋る陽ちゃんを無理矢理引っ張って、僕は川原の土手を300メートルくらい先にあるはずの大橋に向かって歩いた。 宴の区域から少し離れるだけで、とたんに静かになっていく。 まあ、地元では知らぬもののないヤクザの宴会なんかに近づくアホがいるわけもないのだけど。 「あー、涼しいな‥‥」 「ずいぶん飲んでましたからね」 あらら‥‥すっかりご立腹。 「ほら」 僕は立ち止まって、天上を見上げた。 陽ちゃんも数歩先を行ってから、僕のほうを振り向き、やがて空を見上げる。 一面に桜の花が咲き誇り、その向こうに瞬く星々がちかちかと映る。 ざあっと風が鳴り、枝が煽られ、花びらがはらはらと僕らの上に落ちてくる。 「綺麗だね?」 「‥‥」 ご機嫌を伺うように陽ちゃんを覗き見る。 けれど彼女はそれに答えようとせず、じっと空を見上げていた。 その視線の先には、銀色の三日月が浮かんでいた。 流れる雲にぼやかされている、朧月夜ってやつだ。 「‥‥‥‥きれい」 それは、普段ならすぐ隣にいても聞こえないくらいの。 それに、暗くて小さく動く口を、表情を、確認することも出来なかった。 だけど僕には、そんな彼女のちいさな"音"が、風に乗って聞こえた、ような気がした。 「ゆきさん」 「え?」 ぼうっとしていた僕に、彼女が困ったように眉をひそめながら声をかけてくる。 「行こう?」 「‥‥」 半身をこちらに振り返らせ。 髪の毛が風になびき。 スカートがはためき。 花びらが少女を包む。 春の夜の暗闇をバックに、それは、幻想的に浮かび上がってくるように見えた。 口元が微笑んでいた。 表情が優しかった。 そこに、確かに、天使はいたのだ。 「‥‥天使?」 「え? ‥‥なに?」 「あ、いや、なんでも‥‥うん、なんでも」 思わず口を突いていた。 思うだけで、云うつもりも無かったのに。 「なに、なんて云ったの?」 頬を膨らませて不満そうに、それでもどこか楽しそうに、彼女は聞いてくる。 「なんでもないよ」 「えー、教えてよお」 僕の口元も、きっと笑っていたのだろうと思う。 「あ、あそこ」 しばらく無言で歩き続けた。 大橋が見えてきた頃、陽ちゃんがそれを指差して声を上げる。 「大橋だね」 「うん。あそこの下」 「橋の下?」 「誰にも内緒の秘密の場所」 「‥‥陽ちゃんの?」 「そう」 云って、軽く駆け出す。 そしてくるりと回って、こちらを振り向いた。 「行こ?」 「‥‥うん」 彼女が駆け出すと、僕も釣られて走っていた。 走るといっても50メートルもないところだから、さして疲れもしなかった。 確かにそこは、穴場だと思った。 こういう場所って、いろんな先入観があってあまり近づけないけど、不良もホームレスもいないようだ。 陽ちゃんが云うには、誰にも云えない悩みがあって、家にも帰れないときは、ここでしばらく考え事をするという。 そしてまた、彼女が小さい頃、まだお母さんが生きていた頃に、お父さん━━立花先生と親子喧嘩をするたびに、ここに逃げ込んでは夜になると寂しくて泣いていた、なんていう話を教えてくれたりした。 「始めて訊いた」 「誰にも云ってないもん」 欄干の下で、僕と陽ちゃんはコンクリートの壁に背を預け、座り込んでいる。 土手だと聞こえないけど、ここだと川のわずかな流れが、さらさらと聞こえてくるのがわかる。 こんな川でも、やっぱり流れてるんだ。 「わたしが泣いてるとね、どこからかお父さんが来て、わたしを抱き上げてくれたの。そのたびにいつも、近くのファミリーレストランで好きなもの食べさせてくれたな」 口元に手を当て、くすくすと笑う姿がかわいらしい。 「やさしいんだね、先生」 「父親だからね」 でも、と陽ちゃんは続ける。 「大きくなってから訊いたんだけど、わたしが家出するとお父さん、いつもすぐにわたしを追いかけたんだって。それで、わたしが泣き始めたところで助けてくれる」 「正義のヒーローみたい」 「接し方が判らなかったんじゃない?」 彼女の目は、川の水に向けられながら、そのずっと向こう、どこか遠くの記憶を見ていたのかもしれない。 「お母さんが死んじゃってからは、さすがにそうとも云っていられなくなったみたいだけど」 「へぇ」 楽しそうな思い出を、楽しそうに語る陽ちゃんが好きだ。 僕にはそんな思い出はない。 いや‥‥ないことはないのだろうけど、思い出せない。僕には記憶がない。 唯一僕の「過去」を証明してくれるのが、いつも首にかけているこのドッグプレートと呼ばれるペンダントなのだ。 無意識のうちにそれをぎゅっと握り締める。 と、ふと視線を僕に向けた陽ちゃんが、僕のその手を見てはっと口をつぐんだ。 「あ‥‥ごめんなさい、わたし、また」 「いいんだよ、気にしないで」 「‥‥」 「楽しいよ、陽ちゃんの話訊くの、僕は好きだよ」 「えっ」 びく、と肩を震わせる。 参ったな‥‥表現がまずかったか? 「‥‥」 「‥‥」 肩が触れ合っているのに、相手の顔がはっきりわからない。 そんな暗さの中で、僕らは沈黙した。 その沈黙を破ったのは、陽ちゃんだった。 「あの、ゆきさん」 「なに?」 じっと地面を見つめたまま、まるで地面に話しているかのように、陽ちゃんが言葉をつむぐ。 「えっと、その」 なんだか、彼女の心臓の音が聞こえてくるようだった。 と思って次の瞬間、それは僕の心臓の音であることに気付く。 緊張してるのか‥‥なんでだ? 「あのね」 ぱっ、と顔を上げ、こちらを見る。 「うん」 「わ、わたしね」 「うん」 ぱっ。 また顔を背けてしまった。 いやー、これは聞く方も緊張するもんだ。 云われるであろう中身に緊張するわけではない。 このシチュエーションそのものに緊張するのだ。 「だから、その」 意を決して彼女が云おうとした、その意思が読み取れた瞬間だった。 ざり、と地面を噛む靴の音がして、僕たちは同時に息を呑んだ。 陽ちゃんの向こうに、人間の影が見える。 顔まではうかがえないが、少なくともまともな人間ではなさそうだ。 ‥‥ただの勘だけど。 「よう、なにやってんだこんなところで」 「!」 その声は後ろからかけられた。 陽ちゃんの後ろにも、影はある。 後ろにいることに気付くのが遅れた。 振り向くと、懐中電灯を持った男がひとり、にやにやとこちらを見下ろしていた。 「‥‥」 陽ちゃんの肩を抱くと、刺激しないようにゆっくりと立ち上がる。 見たところ、身長は僕とさして変わらないようだ。 だが、体つきは悪くない。いわゆるチンピラ━━この言葉も死語かも。 ともかく、あからさまに不良高校生といった感じのガキどもが数人。 懐中電灯を持って、僕に声をかけた奴の横に二人。 陽ちゃんの後ろに三人。 どうやら囲まれたらしい。 「ここは俺達の場所なんだぜ?」 一昔前の学園ドラマのような、今時ありえないような言葉。 時代錯誤も甚だしかった。 「誰もいなかったじゃない」 僕の後ろで、気丈にも陽ちゃんが声を荒げる。 ごめんね、声が震えてるのが丸判りだよ。 「震えてるじゃん。怖いの?」 「怖くないよ、可愛い子にはね」 「はははは」 ガキ共が呼応して笑い声を上げる。 下衆が。 「どけよ」 「おっと」 僕の行く手をさえぎるように、恰幅のいい━━遠まわしに云う必要なんかない、ただのデブが立ちはだかる。 身長は、悔しいけど僕より数センチ高い。 睨みつけると、自然と見上げる格好になってしまう。 「怖いねー、お姉ちゃん。そんな怒るとしわ増えるよ?」 懐中電灯を持った男の後ろから、これもまた時代錯誤な長い髪の男が現れた。 どうやらリーダー格のようだ。 「あんたいつの時代の不良だ? そんなのテレビでしか見ねーよ」 「んだとこらぁ!!」 背中のほうから声がする。 陽ちゃんの後ろに立っていた三人のうちの一人だろう。 僕の背中に押し付けられた陽ちゃんの両手が、その声にびくりと震えた。 くそ‥‥。 「聞こえないのか? 邪魔だっつーんだ。どけって」 「ふん」 どん。 デブが僕の右肩を小突いた。 その瞬間、僕の身体は勝手に反応していた。 2年間にわたる先生たちの指導が実を結んだらしい。 右肩が突かれて下がるのと、僕の左の拳がデブの頬にのめりこむのとは、ほぼ同時だった。 がご、と、鈍くて低い音が僕の耳を支配した。 「どけ」 このとき、僕はどういう顔をしていたのだろう。 わからなかったけど、ひとつだけ安心したのは、暗かったし僕の後ろにいたおかげもあって、陽ちゃんが僕の表情を伺うことができないことだった。 なぜそんなことを気にするのか、判らない。ただ、気になった。 「このアマ!」 うわー。テレビの見すぎでしょ、これじゃ。 もう笑うしかない脅し文句に呆れ返ったけど、だからといって目の前にいる連中を全員相手にするなんて無理な話だ。 ガキとはいえ男、そしてもう体つきだけはいっぱしのオトナだ。厄介すぎる。 ただ、それでも。 陽ちゃんだけは、僕が守らなければならない。 そう思った。 この感覚は。 りおに抱いた「同じ存在」としての護衛観念ではなく。 まるでお姫様を守るナイトのような、というとあまりに稚拙な表現だけど、まさにそれが当てはまると思った。 そんな感覚だった。 まあ、最悪僕が蹂躙されたとしても、陽ちゃんが逃げられればなんとかなる。 命の恩人である先生に報いることも出来て、ただ飯喰らいが一人消えて、万事解決。 ━━なんて、割り切れる生き方が出来ればいいのに。 あー、やっぱ怖いなあ。 「きゃ」 背中からだった。 僕の声じゃなかった。 半ば諦めムードだった僕の頭が、その瞬間、スパークした。 性格が変貌したようだった。 頭に血が昇る、という言葉が適当なのだと思う。 まるで酒を飲んだときみたいに、ほとんど記憶が飛んでいた。 行動する自分を見下ろす冷静な自分がいるような感覚だった。 そして僕は、そんな感覚の中で、陽ちゃんのコートを掴んだチビの延髄に蹴りを叩き込んでいたのだ。 「触んな!!」 冷静な自分が云った。 怖い声。 と。 ガキ共が躊躇した一瞬を見計らって、僕は陽ちゃんの手を握り、脱兎の如く駆け出した。 リーダー格の男の横を駆け抜けたとき、がくんと膝が沈んだ。 どうやら引っ掛けられたのか、自分から転んだのか、それすら理解できず、陽ちゃんを道連れにして地面に突っ伏してしまった。 「やるな、姉さん。そういうの好きだぜ」 勝手なことを。 僕たちを見下ろすこのリーダーのにやにやした表情に、怒りが僕を支配する。 けれど、次に起こったのは、それよりも更に常軌を逸したことだった。 「うらぁっ!!」 どこからか地を這うような声がして、瞬間、リーダーの男は真横に吹っ飛んだ。 目の前に、朋香さんが立っていた。 「だいじょうぶ?」 「‥‥ええ、まあ。陽ちゃんは?」 僕の隣にうずくまっていた陽ちゃんは、俯いたまま頷いた。 唯でさえ暗いのに、前髪に隠れて表情が見えない。 「うん‥‥へいき」 あまり平気そうではないが、ここはこの場を立ち去るほうがいい。 「朋香さん、行きましょう」 「だいじょうぶよ」 「え?」 「あたしだって、ひとりじゃないもの」 ウインクした。 その瞬間。 最初から最後までずっと朋香さんの脇に構えていた二人の大男が、ガキ共をさらに包囲した。 「よう少年、ずいぶんいきり立ってるね?」 朋香さんがリーダーの男を見下ろす。 その間に僕たちは立ち上がり、態勢を整えてその場を去ることにした。 「なんだテメェ! テメェも犯されたいのか!?」 「あらまあ、野蛮」 「‥‥ふん」 リーダーは立ち上がると、先ほど僕らに向けたにやにや笑いを隠そうともせず、朋香さんをねめつけた。 「【麻生家】って聞いたことあんだろ、お姉さん?」 「‥‥」 朋香さんがいぶかしんだ表情になる。 「この辺り一帯のオーナーで、全国トップレベルのヤクザだ。オレのオヤジはそこの大幹部なんだ。その意味が判るか?」 「‥‥さあ?」 「くく‥‥テメェら数人を殺し犯したところで、簡単にもみ消せるってこったよ!!」 リーダーがバタフライナイフを閃かせる。 と同時に、周囲のガキ共も各々の得物を持って黒服男達に突っ込んでいく。 一瞬だった。 ばき、とか、ぼき、とか、あまり原因を想像したくない音がその場を包んだ。 「弱っ」 リーダーを組み伏せると、朋香さんが呆れたように声を上げる。 ナイフは既に、どこか遠くへ消えてしまっている。 「テメェ、こんなことしてただで済むと思うなよ!!」 「そっちこそね」 「んだと!!」 「あんたのオヤジの名前は?」 「麻生家三番組組頭、兵頭龍之介だ。くく、一生忘れられねぇぜ」 「兵頭、兵頭‥‥」 朋香さんがコンクリートの橋である天井を仰ぎ見た。 「三ちゃん、知ってる?」 ガキ共を組み伏せた黒服とは別のところから、氏家が現れた。 「知ってますぜ。なんでも、池田組壊滅に尽力したとか。頭から先鋒を任されたくせに陣頭指揮と称してチャカすら抜かなかったそうです」 「へー」 呆然とした表情で氏家を見詰めるリーダー。 それに気付いた氏家が、リーダーに近づく。 「兵頭の坊主、覚えてるか? オレのこと」 「‥‥‥‥」 覚えているのだろう。 驚愕の表情が張り付いている。 「お嬢、どうします」 氏家が彼から顔を上げ、朋香さんを仰いだ。 「んー‥‥ほっといてもいいんじゃない? どーせ近いうちに粛清でしょ」 「鉄砲玉になってもらうとか云ってやしたな」 「楽しみだね」 ばき。 「ぎゃあああ!!!」 これ以上は見ないことにしよう。 そして、これまでのことも見なかったことにしよう。 ぐったりとしている陽ちゃんを担いで、土手へと上った。 「‥‥ゆきさん」 「ん?」 起きていたことには気付いていたけど、あえて声をかけなかった。 陽ちゃんの、苦しそうで、熱い吐息が耳にかかってこそばゆい。 「降ろして」 「え?」 「だいじょうぶだから、降ろして」 僕が返事する前に、自分から体重を下にかけてくる。 ずり落ちそうだったせいもあって、すとんと地面に降り立った。 振り向く。 僕を見上げていた。 潤んだ瞳で。 潤んだ唇で。 紅潮した頬で。 両手を祈るように組んで。 桜の木の枝がざあざあとさざなみの音を立てる中。 舞い落ちた花びらが小さく巻き上がる中。 陽ちゃんは、 ゆっくりと、 目を閉じた。 「みな」 声が出ない。 肩に触れる。 彼女も震えていた。 それに、強く胸を打たれた。 その瞬間、彼女がとてもいとおしくなった。 僕は、彼女の目にかかる前髪を掻きあげて、そのまぶたにキスをした。 「あ」 その瞬間、小さく声がした。 顔を離すと、髪の毛をゆっくりとなでてやる。 陽ちゃんは気持ちよさそうに微笑むと、僕の胸に顔をうずめた。 「あったかいよ‥‥ゆきさん」 「うん」 そのまま。 そのままで。 僕は彼女の肩に手を置いたまま。 彼女は両手を組んだまま。 そのままで、僕らは桜の花びらに巻かれた。 crescent---End |
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