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『バレンタインデー』
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 寒い。
 ものすごく寒い。
 でも雪は降らない。何故だ。
 空を見上げると、相変わらずの曇り空。
 普段なら呼応して気分も暗くなってしまうところだけど、今日は違う。
 学校からの帰り道、家路へ急ぐわたしの足。
 乱れた吐息が白く染まり、一瞬でわたしの後方へ飛んでいく。
 膝丈くらいの真っ赤なコートが少し重い。
 それに、通学用の学校指定カバンを背負っているから、余計重い。
 だから、あまり早く走れないのはわたしが茶道部だからじゃない。
 ‥‥わたしが茶道部だから、だけ、じゃない。

 今日ばかりは譲れない。  部活を休むと云ったら、友達が案の定「そこ」に突っ込んでくる。
 当たり前なのだし、それを覚悟してもいた。
 とはいえ、お父さんにあげるんです、なんて嘘は通用しない。
 だからわたしは、そこを適当にごまかして、そのおかげで予定より30分も遅れて、学校を出た。
 走りがてら、左手の腕時計に目線を落とす。
 お父さんに買ってもらったお気に入りだ。時刻は4時40分。もちろん午後。
 今からならまだ、間に合う。
 かかる時間を頭の中で計算する、うん、問題ない。
 どうせ、一人分も百人分も大差ないのだ。あ、それは嘘。
 どっちにしたって、作るのは五人分だ。わたしの分を入れても。
 材料は買ってある。準備は万端だ。
 そう思うと、自然に顔がにやけてくるのはわたしのせいじゃない。
 この日が悪いのだ。2月14日が。

 去年も同じことをしたから、あの人がチョコレートを好きなことは知っている。
 たった1年で味覚が変わるなんてこともないだろう。
 変わるのは、むしろ、こっちだ。
 去年と今年とでは、気合の入れ方が違うのだ。
 去年は手作りだったお父さんへのチョコを、今年はそこらのコンビニの駄菓子で済ませてしまおうかと本気で考えたくらい、違うのだ。

 商店街のモール下を駆け抜けていく間、なにか買い忘れはないだろうかと冷蔵庫の中に思いを馳せる。
 あとで家に帰ってから気付いても、こんな寒い中買出しに行くのはさすがに嫌だ。
 というわけで、駆け足のままあらぬ世界に思考を投げていると、正面から「わっ」という悲鳴が聞こえた。
 と思ったら、どかっと体中に衝撃が走り、尻餅をついてしまった。
「いったー‥‥」
 腰をさすりながらぶつかった相手を盗み見ると、見知った顔だった。
「あれ、陽ちゃん?」
「‥‥せ、先輩」
 見知った顔、どころではない。先輩の顔を見たとたんに顔が真っ赤になってしまった。
「どうしたんだい、そんなに急いで?」
 先輩は一足先に立ち上がって、眼鏡の向こうの瞳を細めながらわたしに片手を出した。
 つかんで立ち上がれ、ってこと?
 ドラマじゃあるまいし‥‥。
 身体の異常は‥‥うん、特にない。と思う。別に自己診断機能が付いているわけではないけど。
 わたしは先輩の顔を見上げられないまま、黙って立ち上がった。
「部活は? もう終わり?」
「い、いえ、わたしは今日は‥‥」
「もしかして、サボり?」
「ち、違いますっ!」
 真っ赤になって否定する、声が上ずってしまった。
 そんなわたしを見て、先輩は面白そうに微笑んだ。
「無断欠勤は禁物ですよ」
「ちゃんと、理由は説明してきたから大丈夫ですっ」
 やっぱり先輩の顔を見られなくて、首もとの詰襟に目線を這わせる。
 学ランなんて時代遅れだと思っていたけど、背が高くてスマートな人が着ると、意外と絵になるものだ。
 と云ったのはわたしではなくて、この先輩に憧れを抱いているわたしの友人Aだ。
 けど、わたしもそれには同意できる。確かに絵になる。かっこいい、といっても差し支えない。
 うーん、我ながら玉虫色の発言でありますな。
「もうすぐ試験だろう? 頑張んないとね」
 先輩が云う。先輩こそ、受験はどうなのだろう? ちゃんと志望大学にいけるのだろうか?
「先輩は‥‥?」
「僕? 僕は心配ないよ、これでも真面目にやってるから」
 決してよどむことがなく、透き通る声。男の人にこんな表現が適切かどうか判らないけど。
「ところでさ」
「はい?」
 先輩の瞳が、悪戯っぽく輝いた。
「今日は何日でしょう?」
「‥‥」
 訊かれるまでもないし、云うまでもない。
 わたしだって、今までずっとそのことを考えながら走ってきたのだ。
「14日」
「はい、そのとおり。じゃあ今日は何の日ですか? はい、2年7組立花陽さん」
「‥‥」
 内心呆れながらも、ああ、やはり先輩だな、変わってないな、と思うと自然に笑顔になる。
 こういった、お茶目なことも出来るから、先輩は人気があるんだ。
「わたしの誕生日です」
「うそ!?」
「うそです」
「‥‥」
 わたしが即座に嘘だ、と答えたからか、先輩はしばし呆然として放心状態にあった。
 やがてこっちに戻ってくると、
「じゃあ、何の日?」
「バレンタインデーです」
「はい大正解〜、ご褒美に、僕の恋人にしてあげるよ」
「先輩、彼女いるじゃないですか」
 わたしの部活、茶道部の元部長である3年生のとある先輩は、この人の彼女だ。
 いわゆる学内公認カップルというやつで、文化祭なんかでは『ベストカップル』とかで表彰されたりする。
 表彰、ていう時点でワケがわからないのだけど、それは独り者のやっかみなのだ。
 と云ったのもわたしじゃなくて、友人Aだったりする。彼女は恋愛のスペシャリストを気取っている。
「はっはっは、彼女はひとり、恋人は大勢、それが僕のモットーだよ」
「普通、逆じゃないですか」
 逆だからって何が変わるわけでもないけど。
「はっはっはっはっは、で、どうだい?」
「あいにくですけど、先約がいるんで」
「えっ」
 今度は嘘じゃない。先輩は本気で驚いたらしい。
「本当?」
「いちゃいけないですか、わたしに」
「そうじゃなくてだね、その‥‥そっか、そうなんだ」
「まだ了承は取り付けてないですけど」
「‥‥へ?」
 先輩の顔が凍る。
「もしかして‥‥きみの片思い?」
「そうです、悪いですか?」
「‥‥いや」
 なんだか本気で悩んでいるように見えてきた。
「そっか、きみがね‥‥そうか‥‥」
「なんですか」
「いやね、うちのヤツが――」
 うちのヤツ、ってのは、とりもなおさず、先輩の彼女でありわたしの先輩でもあるあの人のことだ。
 彼女のことをこんなふうに呼んでいる時点で、もうその関係は彼氏彼女のレベルを超えていると思う。
「立花にはなんていうのか、普通じゃない印象を受ける、っていうんだ。こと恋愛に関しては」
「‥‥」
 内心、ぎくりとする。
「どういう意味ですかね?」
 ちょっとひねくれた風な表情をして云ってみると、先輩は慌てて取り繕う。
「いや、別に悪い意味じゃなくてさ、恋愛には人それぞれ個性があるから構わないんだけど、とにかく普通じゃない、と」
「普通ってなんなんでしょうか」
 たいして意味も無いような哲学的命題を放り投げ、わたしはその場をあとにした。
 というか、いい加減帰らないと既に日が落ちかけている。いや、半ば落ちている。あれ、どっちも変わらないか?

*

 家についてからのわたしは、猛スピードで台所での活動にいそしんだ。
 たぶんこれなら、リアル三分クッキングが可能だ。うん、やっぱり無理だ。
 というわけで、結局1時間掛けて総てが完了したときには、時刻は6時を回っていた。
「ふぅ。ん〜、自分で自分を褒めてあげたいよ♪」
 自己陶酔。わたしの得意技だ。と友人Aに云われた。
 彼女曰く、『なんかさ、陽ってほわんほわんとしたとこ、あるよね。なんつーか‥‥夢見がち?』
 当然のごとく大いに否定したわたしだが、部活のみんなもクラスのみんなも、わたしへの評価はそんなものだった。
 周りが自分をどう思っているかというのは、判りにくいものなのだ――だからなんだよ。
「なにぶつぶつ云ってるの?」
「きゃあああ!!?」
「おわっ」
 家に自分ひとりだと思っていたわたしは、唐突に背中からかけられた言葉に飛び上がるほど驚いた。
 驚いたのはいきなりだったからだけではなくて、相手が相手だったからでもある。
「そんなに会心のデキなの?」
「いいい、いつからそこに!?」
「『なんつーか‥‥夢見がち?』ってとこから」
 何をいきなり、といった表情で、わたしを見下ろす。
 が、わたしの心は冷静になれないでいた。
「って、それ、口に出してたの、わたし」
「うん、ばりばり」
 少なくとも、わたしに関する分析はわたし自身より友人Aのほうが正しそうだ。甚だ遺憾ではあるけれども。
「と、ともかく、今はまだこっちの準備なんだから、入ってこないでよ!」
「そうは云われても‥‥夕飯は‥‥」
「‥‥へ?」
 もう一度時計を見る。うん、6時24分。
 ――ろくじにじゅうよんふん?
「あわ、あわわわわ!!」
 うちはいつも、6時半から遅くとも7時には夕食を始めている。
 出来合いものやわたしの調子が悪いとき以外はふつう、その30分前には準備を始めることにしている。
 料理は趣味といえるくらい好きだから、それに苦はないのだけど。
 今の今まですっかりそれを忘れていて、台所がチョコレート貯蔵庫のようになってしまったことは悔いなければ。
 が。
 そんなこと云ってる状況ですらない。
 目の前に、あの人がいるのだから。
「なに? もしかして‥‥忘れてたの?」
「うっ」
「しかもこりゃ‥‥いくら料理好きと云っても、ここまでしないだろうに」
 その通りだ。
 さっきわたし自身が貯蔵庫と形容したように、台所にはそれがあふれていた。
 片付けだけで30分はかかるだろう。
「すごい匂いだな‥‥甘ったるいというか、なんというか」
「し、しかたないじゃない、チョコレートなんだもん」
「なんだもん、ってもなあ」
 呆れた表情を隠そうともせず台所を見渡すそのさまを見て、わたしは不意に泣きそうになっていた。
 嬉しいわけじゃない、当然、悔しいからだ。
「ここまでする根性は見上げたもの‥‥あれ、どうかした?」
「‥‥‥‥」
 学校からうちまで、歩いて30分かかる。
 自転車でなく歩きなのはそれなりの理由があるからだけど、走ってくるのは疲れた。
 途中で見知った先輩に逢っても、それを乗り越えて帰ってきて、作った。
 恩に着なさい、とはいわない。それでも、まず褒めて欲しかった。
 せっかく作ったのに。
 誰のために‥‥。
「誰のために作ったと思ってるのよっ!!」
「え‥‥うわっ、あ、あぶっ‥‥危ないって、ほ、包丁!?」
 ずど。
 深々とモノが刺さる音がして、投げた相手の頬すれすれに文化包丁が突き刺さった。
「‥‥」
「‥‥」
 涙が堪えきれなくなる。
 泣くつもりなんてなかったのに。
 なんでわたし、こんな日に泣いてるんだろ‥‥?
「ね、ねえ」
 恐る恐る、といったふうに、その人は近づいてわたしに云った。
「これもしかして‥‥僕に?」
「‥‥」
 その人は、まな板の上に置かれている会心のチョコレートに目をやりながら、難しい顔をしている。
「え? だってあれ、先生には? こういうの普通――」
「お父さんのはあるもん」
「ある‥‥もん?」
 なんだか理不尽に腹が立ってくる。それもこれも全部、この人のせいだ。
 わたしがうきうき気分で準備していたところに何の脈絡もなく現れるんだもん。ずるいよ。やり直しを要求したいよ。
「ちゃんと用意してあるもん。お店で買ったパラソルチョコだもん」
「ぱ、パラソル?」
 ちなみに1本20円のものが150円で9本入ったお得パックだ。
 150円とか9本とかが既に微妙な数字であることはこの際無視。
「でもこれは手作りだもん。いっしょうけんめいに作ったんだもん」
「だもん‥‥って」
「ひどいよ! 一生懸命作ったのに、作ったのに!」
 気付けば、とまらなかった。
 ちょっとだけ悔しくて、悲しいな、と思ったら、次の瞬間にはもうこれだ。
 心のどこかで『落ち着けよ、陽』と云いつつも、感情の爆発はとめられなかった。
 悪いのはわたしじゃない。こいつだ。
 無神経にもわたしの努力を粉々にした、こいつだ。
「ま、待って‥‥これって、バレンタインデーだよね?」
「他にチョコレートあげる風習がどこにあるっていうの!」
 わたしだって馬鹿じゃないから、この風習がサンタクロース×コカコーラ以上に有名な扇動だって事は理解してる。
 けど、これってそういう問題じゃないでしょ?
「いや、まあそりゃそうなんだけど‥‥えっとさ、その」
「‥‥っく、ひっく」
「ほら、僕、こんなんだけど、一般常識とか生活知識はあるつもりだし、そう思ってきた」
 無理やり自分を落ち着かせているような、ゆっくりした口調で、その人が云う。
 肩を震わせるわたしに、手を触れることもせず。
「ひっく、ぐす‥‥」
「うん、だからさ、バレンタインデーのルールってのも、知ってる」
「‥‥ひっ、ぐず」
「普通こういうのって、親や兄弟を含めても、女の子から男性にあげるんだよね?」
 その人は、一つひとつ確認するように言い含めていく。
「‥‥」
「僕だってそりゃ、一人称もこんなだけど‥‥」
 苦笑しながら、自分の身体を見回す。
「生物学的には、オンナなはずなんだよねぇ」
「知ってるもん」
「だよ‥‥ねぇ」
 そんなこと判ってる。
 だから自分でも困っているというのに、何をこの記憶喪失者は能天気に首を傾げているのだろう。
 わたしの気持ちも知らないでっ。
「それでも‥‥くれるの?」
「あげたかったんだもん」
「‥‥そう」
 途端に優しい声になって、"彼女"はまな板の上に置かれたままのそれを手に取る。
 わたしがプレゼント用に取っておいた、いわゆる『とっておき』ってや――
「はむ‥‥」
 ――つを、許可も得ず食べてしまった。
 まあ、元からあげる予定だったわけなんだけど。
「‥‥おいしい」
 にこりともせずに、真剣な顔で、その人は云った。
 こうして、こっちが真面目に話して欲しいときに真面目になって話してくれるのはとても嬉しい。
 だから心の中はぱっと花が開いたように明るくなったのだけど、外のわたしは相変わらずひねくれ者。
「みんなそう云うもん」
 あーあ、嫌われても知らないよ?
「いや、ほんとにさ」
 それでもその人は、困ったように笑いながらチョコレートを味わっている。
「みんなほんとだって云うもん」
「参ったな‥‥」
 "彼女"はぽりぽりと頬をかきながら、また苦笑した。
「どうしたら機嫌なおる?」
「‥‥」
「なんでもするからさ、ね、この通り」
 ぱん、と目の前に両手を合わせ、"彼女"が頭を下げる。
「ほんと?」
「うそじゃない、ほんと。ほんとだから」
「インディアンに誓う?」
「誓う誓う。嘘つかないって誓っちゃう」
「‥‥じゃあ」
「じゃあ‥‥?」
 頭を下げて上目遣いにこっちを見てくるその揺れた瞳にどきっとする。
 ああ、だめだ、そんな目を見ちゃったら、わたし‥‥。
「春休みになったら、わたしとデート」
「うんわかった、そんなんでいいなら――でぇとぉ!!?」
「判った、って云ったもんね」
 目の前で慌てる"彼女"を見て、心が和む。
 わたしより年上のはずの"彼女"。
 もちろん、普段から年上らしく振舞ってくれるし、そういう意味では頼れる存在だ。
 だけど、だから余計にかもしれないけど、こうやってあたふたする仕草が、あまりにかわいくて、いとおしい。
 そんな"彼女"を見て、わたしはふと、さっきの先輩のセリフを思い出した。
 ――普通じゃない――
「ふつうじゃ‥‥ない‥‥かなぁ」
「え?」
 うーん、うーんと唸っていた"彼女"が、ふと顔を上げる。ぽかんとしたその表情がまたおかしくて、噴き出してしまった。
「なんでもない」
「なんだ、気になるじゃないか」
「なーんでもないよ」
「気になるなあ‥‥」
 それからまたうーんと唸り始めた"彼女"から目線を外すと、すっかり忘れていた台所の惨状を思い出した。
 と同時に、時計の針が目に付く。
「もう7時!? わ、わ、まずいっ!」
 さすがにお父さんが帰ってくる時間だ。
 慌ててわたしは、未だに床に座り込んで唸り続ける"彼女"を無理やり立たせて、仕事を手伝わせる。
「ほら、立って、もう夕飯の準備しなきゃ! ほら、ゆきさん!」
「うー‥‥やっぱどうにかなんないかなぁ、みなみちゃん?」
「だーめ、約束したんだから」
「ううー」

*

わたしは立花陽、17歳になりました。
太陽の「陽」と書いて、みなみと読みます。お母さんがつけてくれた、わたしへの形見です。
今は亡き愛しき母さま、不肖このみなみ、普通じゃない恋愛を謳歌しておりますよ。

‥‥なんてね。


crabbed---End

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