アリアハン王都から、大陸を縦断する川を北に上ると大きな橋が渡っている。 これを越えて公道沿いに歩けば、大陸の北部に位置するレーベの村に到着する。 北と南を森に挟まれた、のどかな農村。 足元に大きな二つのバケツを置いた少女が一人、村の真ん中の井戸で水を汲んでいた。 肩の部分の無いラフな白いシャツに、太ももの見える短いパンツ。 少女の健康的な肌が、井戸から漏れた水に濡れ、朝日をきらきらとはじき返していた。 「こんなもんでいいかな?」 少女はぐっと背筋を伸ばしながら、背中まである栗色の長い髪を、ばさりとかきあげた。 滑車を引くためにずっと下を向いていたために髪の毛に隠れていた顔が、露わになる。 どこか幼さを残した顔立ちに、太く意志の強そうな眉。凛と輝く琥珀色の瞳が、彼女の奔放さを表していた。 バケツにたっぷりと入った水をこぼさないように注意しながら、少女は両手に一つずつ、バケツをつかんだ。 肩にずっしりと圧し掛かる重みが、働いているという実感に換わるのだった。 この重労働も、三日も経てばいい加減慣れてくる。 うまくバランスを取って、少女は歩き出した。 すれ違う近所の人たちに、にこやかに声を掛けていく。たった三日で、彼女は村の有名人となっていた。 彼女は、この村に着てから三日目になる。 ある目的を持って海の向こうからやってきたのだが、乗り込んだ船が魔物に襲われ、漂流してしまったのだ。 無事に生きているだけでも奇跡だと、彼女を拾った老人は言っていた。 そして彼女はそれから、その老人の世話になっているのだった。 「ただいまー」 「ご苦労さん」 ドアを開け放って帰宅を告げると、台所に立っていた老人が振り向いて言った。 「これだけで足りるかな」 「充分だよ」 老人が満足そうに頷くのを見て、少女も笑顔になった。 バケツを持ち上げ、水を大きな瓶の中に入れていく。 「あ、いい匂い」 「もうすぐできるから、ちょっと待っていておくれ」 「はーい」 少女は辺りを見回した。 この老人がたった一人で住んでいるこの家は、ずいぶん昔からあるようで、壁の煉瓦が本来の色を失っている。 食事をするテーブルから少し離れた個室は、老人が何かの実験をしている研究室だった。 もっとも、今はほとんど使わなくなっているようだったが。 いったいいつから一人なのだろうと、ふと気になった。 「ねえ、おじいさん」 「うん?」 「おじいさん、子供とかいないの?」 「そうだなあ」 老人は振り向かずに返事した。 「娘が一人いたが、ろくでもない男と一緒になるとか言って出て行ったよ」 「ありゃ」 「孫もいたが、あれも行方知れずだ」 「お孫さん?」 「両親とは似ても似つかぬ良い子だったんだがな。親のせいで不良になっちまった」 「不良?」 「娘の夫は、盗賊だったんだよ」 老人が、木でできたスープのカップをもって、テーブルのそばにやってきた。 彼女の前にカップを置く。いい匂いが辺りに立ち込めた。 「お、きのこだね」 「昨日、お前さんが取りにいってくれたやつだよ」 老人はしわだらけの顔を更にくしゃくしゃにして、笑う。 照れくさくなって、少女は頬を掻いた。 「盗賊、っていえば」 「うん?」 老人が、自分の分のスープと、パンの大皿をテーブルにおいて、少女の向かいに座った。 「アリアハンの西にある塔に、盗賊が出るんだってね」 老人は無言のままパンを手に取った。 遅れて少女も大皿に手を伸ばしかけ、いただきます、と両手を合わせた。 「森とか道のはずれとかに出て、馬車とか襲うって話だよ」 たった三日ですっかり村で有名人になった少女は、井戸端会議に顔を出すことも多い。 それもこれも、ある目的のためだ。情報は多いほうがいい。 「そうか」 「うん。それでね、おじいさん」 老人が顔を上げると、少女は真剣なまなざしで彼をまっすぐ見つめた。 「私、その盗賊を退治に行ってくるよ」 「なに?」 老人が目を見開いた。少女は続ける。 「困ってる人がいるなら、放っておけないし」 「しかし、それは‥‥」 「それにね、話したことなかったけど、私の目的」 パンを一切れ口に放り込み、租借して飲み込んだ。 「私の目的は、勇者に会って、勇者と一緒に世界を旅することなの」 「‥‥勇者、だと?」 「うん、勇者。アリアハンにいる勇者さまに会いにきたんだ」 アリアハンから遠く海を隔てた彼女の国でも、アリアハンの英雄オルテガの訃報は話題になった。 しかも10年前、オルテガは彼女の町を訪れていた。 幼いながらも彼女は、世界の期待を一身に背負う勇者に憧れたのだった。 「新しい勇者さまは16歳だって言うでしょ。私より年下だし、私も助けてあげたいと思って」 「‥‥」 老人は口を閉ざしたまま、岩のように動かない。 「だから、そのための第一歩。勇者さまなら盗賊を放ってはおかないだろうし、私の力を試すチャンスだもん」 「そのために盗賊を倒す、と?」 「うん。それにね」 少女は、老人の目を覗き込むように見つめる。 老人は、心の中を透かされた気がして、少しだけのけぞった。 「盗賊なら、おじいさんのお孫さんのことも、何かわかるかもしれないでしょ」 「そんなことのために?」 「うん。お世話になったし」 スプーンで、スープの最後の一口を掬い取って、それを口に運ぶ。そして少女は頭を下げた。 「ごちそうさまでした」 「お粗末さま。お前さんがたくさん食べてくれるから、作りがいがあったよ」 「だって、おいしいもん、おじいさんのご飯」 「嬉しいことを言ってくれる」 「おじいさんのお孫さんにも、食べさせてあげられるといいね」 「‥‥そうだな」 老人は、複雑そうな顔をしながら、それでも少しだけ、笑った。 それを見て、少女も笑顔になる。 「じゃあ、準備してくるね」 「ああ」 空になった食器を流しに戻してから、少女は彼女のためにあてがわれた部屋へ戻っていった。 * 老人が、旅立つ少女のために心ばかりの餞別を探していると、少女が戻ってきた。 「おじいさん、洗濯してくれてたんだね。ありがと」 少女はにこやかに笑う。 その服は、砂浜で漂流していた彼女が着ていた服だった。 若く張りのある肌によく似合う深緑の上着は、動きやすそうな半袖。 ズボンはサイズが合っていないかのようにゆるゆるとしていたが、ベルトさえ巻けば激しい運動をしても落ちてくることはない。 そして、長かった栗色の髪は、頭の後ろで一つに束ねられ、馬の尻尾のようにくくられていた。 「お前さんは‥‥武闘家か」 「うん。武器を持つのは苦手で」 恥ずかしそうに少女がはにかむ。 しかし、老人から見ても、その少女の出で立ちは、一人前の武闘家だった。 「今までお世話になりました」 「いや。こちらこそ、楽しかったよ」 老人の差し出した右手を、少女が握る。 「必ず、おじいさんの放蕩孫娘を連れ戻してくるよ」 握手したのとは逆の手で、ぐ、と握りこぶしを作ってみせた。 「無理はせんようにな」 「うん」 二人の手が離れる。 少女は、少しだけ寂しそうに首を傾け、微笑んだ。 「じゃあ」 「‥‥一つ、渡すものがある」 「え?」 「これだ」 老人は少女の手首を取った。 それの手のひらを上に向けさせ、老人の持っていた何かを乗せると、ゆっくりと握らせる。 老人の手が離れ、少女が手を開くと、そこには羽の装飾が施された、蒼色の指輪があった。 「これ‥‥」 「はやてのリングという。元々は対になっているものなのだが、手元には一つしかなくてな」 「大切なもの、じゃないの?」 「どちらにせよ、老人の役には立たないものだ。邪魔だったら売ってくれても構わない」 「‥‥ううん、売らないよ。大切にする」 少女は、右手の薬指に、それを嵌めた。 ぴったりと収まり、思わず笑みがこぼれた。 「ありがと、おじいさん」 「頑張れよ」 「うん。また必ず、戻ってくるから」 少女は振り向き、ドアを開け放って駆け出していった。
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