現アリアハン王は、今年で41歳になる、若い王だ。 即位したのは19年前。22で王になるなど、平時ではありえない。 つまりそのときが平時でなかったということだ。 王の退陣と即位は、王がまともに政治を行える年齢でなくなったときか、あるいはまともに政治を行える状態でなくなったときのみ起きる。 自分の子に任せても大丈夫だろうと判断したら、すぐにでも退くのがこの国のしきたりではあったが。 ともあれ。 19年前に何があったのか。 それは、そのときにこの世に生を受けていたものだけではない。 この19年間にアリアハンに産まれたもの全てが知っていた。 魔王バラモス。 その名を知っている者は世界中でもそう多くないが、ことアリアハンに限っては、全ての人間が知っていると言っても過言ではない。 19年前に何があったのか。 それを無言で物語るのは、王宮から少し外れたところにある廃墟である。 19年前まで、アリアハンが世界一の強国と謳われたそのほとんどの力が、そこに結集していた。 アリアハン王立魔法研究所。 栄華を誇り、力を示し、そしてたった一人の魔女によって滅んだ過去の栄光。 19年前に何があったのか。 今となってはそれは、歴史を越えた伝説と化していた。 * * * 「やあ、久しぶりだな」 「うん」 謁見の間。 荘厳で偉大なるアリアハンの力が具現化しているような、煌びやかな王宮。 その中心にあり、いくつもの長い廊下を越えた先にある、朱い絨毯の間。 ダンスホールと見紛うような広さの壁には、神代の英雄達の活躍が壁画となって描かれている。 目も眩むほどの高い天井からはいくつものシャンデリアが釣り下がっており、それが揃って堕ちてきたときのことを考えると、下の者はどうにも落ち着かないだろう。 それほどの。 それほどの大きな部屋の奥に、玉座がある。 そこもまた朱で統一されている。朱はアリアハンの強大な力を現す意味があるという。 「ずいぶん大きくなった」 玉座に座る王が、感慨深げに言った。 眩しくなるような金髪に、理知的な碧色の瞳。 40才を過ぎて刻まれ始めた皺が、むしろ王の王たる威厳をかきたて、更に偉大に見えた。 お世辞にも若いとは言えない風貌が、逆に長い人生を歩んできた者独特の渋みを醸し出していた。 妻を失った悲しみまでもが、その強さを生み出しているように感じられた。 たった一人で、王女たる娘を育てる現王の姿は、国民にとっての『強いアリアハン』そのものだった。 国王は、その瞳に目の前の者の姿を写す。 「お前がここまで大きくなるとは、時が経つのは早いものだな」 「うん。王さまもずいぶん老けたよね」 王の隣に控えていた大臣が、思わず吹き出した。 じろり、とねめつけられて肩を縮こませる。 もちろん、彼女に悪気などない。 カケラほどの悪意もなくこのような言葉を王に向かってぶつけられるのは、アリアハン広しと言えども、彼女しかいないだろう。 「‥‥オルテガの娘、アルカよ」 「えっと、はい」 王が眼差しを真剣にしたのを受けて、アルカも何となくそれを察して、慣れない敬語で返事する。 アルカと王との個人的な付き合いは、アルカの父と王との付き合いと同程度に親密なものだ。 王と付き合いの深かったオルテガに手を引かれて、幼い頃から幾度と無く城へ入っていた。 オルテガと王との関係が、ただの主従ではなくそれ以上の信頼関係であったことに、幼いアルカもそれなりに気付いていた。 その当時彼女は、王の娘である少女と城中を駆け回っていたのだが。 それを知って恥ずかしそうに諌める父親と、優しげに微笑んでアルカたちを弁護する、若き王。 気の優しい近所のおじさん、以上の認識は、彼女は持っていなかった。 あの日、オルテガの訃報が国を駆け巡るまでは。 「未だ帰ってこぬ英雄オルテガの跡を継ぎ、魔王を討伐する旅に出たいというお前の思い、しかと受け止めた。思う存分、戦って来い。だがアルカよ」 「‥‥?」 「決して無理はするな。決して死ぬな。オルテガの二の舞にはなるなよ」 「‥‥」 無言で頷く。判っているつもりだ。誰に言われるまでもなく。 「お前の母も悲しむし、それに‥‥」 「?」 王が少しだけアルカから視線を逸らして、困ったように呟いた。 「うちの娘も」 「セーラ?」 「うん、ああ、そうだ。セーラも悲しむ」 高飛車で高慢で自分勝手でお嬢様。 そんな表現のどれもがバッチリ当てはまる、まるで絵本の中に出てくるようなお姫さま。 それが、国民一般の、アリアハン王女セーラに対する認識だ。 だがアルカは、全くそんなことを気にしてはいなかった。 ただ、ちょっと素直になれないだけなのだと。 「そういえば、セーラは?」 「下の中庭にいると思うが。あとで顔を見せてやってくれるか?」 「うん」 いくらなんでも、黙って行くなんて薄情すぎる。 アルカが旅立つことを決めてから、とんと会ってくれなくなったけれど。 最後に、少しだけ顔を見ておくくらいは、したい。 「ときにアルカ、同行者はいるのか?」 「同行者?」 「つまり仲間だ。あのオルテガも、旅立つときこそは一人だったが、旅の途上で志を同じくする仲間と出逢ったのだろう」 ふとアルカは、一人の女性の顔を思い浮かべた。 無機質そうで冷たい瞳。白く柔らかい肌。そして藍色の髪。 その余りにも目立つ髪の色をして、一時期アリアハンで「青髪の剣士」と仇名された。 オルテガの仲間にして、当時17歳。 単身でアリアハンに帰ってきた、アリアハンの出身ですらない少女。 英雄の一行のなかで、ただ一人無事に帰ってきた。 その少女は、ぼろぼろの服と全身血に汚れた姿で町に突如現れ、その足で一軒の家を目指した。 かつて、オルテガから聞いていた、彼の家。 彼の家族が待つ、彼の家だ。 アルカはその日、ノックされた戸を開いて、その瞬間、青い髪の女性が自分に倒れこんでくるのを、どこか遠くから見ているかのように覚えていた。 それが、彼女との出会い。 行方不明になった、オルテガともう二人の仲間と共に戦っていたという少女。 藍色の剣士。名をエクリュアといった。 「そう、エクリュアだ。彼女の言葉により、オルテガが行方不明であることを我々は知ったのだったな」 王は、何かを思い出すように虚空を見つめながら、そう言った。 あのとき、城に残っていた魔法使いによって治癒を施されたエクリュアは、王に対して、告げた。 オルテガは、死にました、と。 「だがあのあと、調査によって、遺体が見つからなかったのと、どうやら火口に落ちたらしいということで、行方不明とした」 「覚えてるよ」 本当に生きているなんて、アルカも思っていない。 そうだったらいいなとは思うが、そう信じているわけではない。 だから、この旅は敵討ちでもある。 少なくともアルカ自身は、そう思っていた。 「――ともあれ」 話が逸れすぎたことに気付いたのか、王は視線をアルカに真っ直ぐ向けた。 「お前にも仲間が必要だろう」 「‥‥」 更にエクリュアのことを思い出す。 エクリュアがアリアハンに訪れたのは10年前。それから3年、アルカはエクリュアによって修行を受けた。 その最後に、別れるときに、エクリュアは言ったのだ。 7年後、きみが16歳になったら、迎えに行くと。 エクリュア自身がオルテガたちと共に旅を始めたのと同じ16歳になったら、きっと一人前に戦えるからと。 だが、今日に至るまで、エクリュアは現れなかった。 「もしぼくが本当に世界を救えるなら、旅してれば会えるよ、きっと」 「‥‥」 だからアルカはそう言った。 心からそう思っていたし、そう信じていた。 その言葉にどれほどの魔力があったのか、心配そうに見つめていた王も大臣も、そばで聞き耳を立てていた兵士達も、一気に毒気が抜かれたようにぽかんとした表情になる。 やがて、王が笑った。 「ははは。そうか。そうかも知れんな。それに万一集まらなかったとしてだ、お前なら、強い者の一人や二人、簡単に捕まえられるだろうさ」 「ぼく、無理やり連れて行ったりしないよ?」 「判ってるとも。そうだろう。お前はそういうやつだったよ」 この娘には、無限大の力を感じる。 どこまで行っても終わらず、永遠に成長を続けるような。 魔王とすらも仲良く会話ができるのではないか、と思った。 「何の根拠も無いが、お前ならやってのけるだろうよ」 「‥‥?」 あはははと笑い続ける王に、アルカは首を傾げた。 と。 突然、後方のドアが勢いよく開けられた。 何事かと全員が振り向き。 その視線の先に、小さな女の子を見つけた。 「‥‥ユニ?」 そう呟いたのはアルカ。 謁見の間にいた者全員からの視線を受けた女の子は、しかしそんなものを気にすることなく、一直線にずんずんと進んでくる。 青い法衣を身にまとい、手にはなんだか危なっかしい棒。あれは杖だろうか? それに、明らかにサイズの合っていない帽子を被っている。顔が半分隠れてしまっている。 見れば、法衣もずるずると床を引きずってるではないか。 「‥‥」 女の子がぜいぜい言いながら王の元、というかアルカの脇にやってくるまで、謁見の間は沈黙に支配された。 「王様!」 「うお」 苦しそうに肩で息をしていた女の子がぱっと顔を上げた瞬間、被っていた帽子が吹っ飛んだ。 「‥‥お前は確か、教会の」 「ユニです。王様、わたしも旅に出るです」 「‥‥なに?」 「この勇者アルカについて、わたしも旅立つです!」 びしっ、と、アルカを指差すユニ。 差されたほうは、ぼうっと成り行きを眺めていた。 「‥‥え、ぼく?」 「そうです! アルったら、何も言わずに行こうとするです! このばか!」 「え、え?」 そもそも最初から、ユニを連れて行く気などなかった。 ばかと言われる筋合いがどこにあろうか。 「で、でもユニ、だって‥‥」 「だってもなにもないです! わたしは決めたです。アルカが行くならわたしも行くです!」 「‥‥ちょっと、えーと、ユニ。ノルン神父の娘だったな?」 「それがなんです!」 力強い瞳で睨みつけられ、王は思わずたじろぐ。 ふと彼女の後ろを見ると、幾人かの衛兵達が、困ったように彼女のことを見つめていた。 12歳の子供だとはいえ、かのノルン神父の娘だ。無下にできなかったのであろう。 「い、いや、なんというか。お前はまだ12歳だろう? 何をバカな」 「うるさいです! 16歳のアルカが旅に出れて、なんで12歳がダメです? 理屈に合ってませんです!」 どんな屁理屈だよ、と王は思ったが、ここは大人の態度で穏便に済ませなければならない。 「ちょっと待ちなさいって。お前、親に了解は取ったのか? いくらなんでもお前は――」 「とったです! ほら!」 ユニが取り出したのは、教会が発行する、旅立ち許可証だ。 正式には、国から出ることを許可するもので、ちょっとした買い物などで国を出る場合、いちいち王に謁見などしていられない人々を対象に、国から許可を得た教会などが出している。 これをユニに与えたということは、つまりちょっとした買い物などで国を出てもよいという意味ではない。 そんなことをわざわざユニにやらせる道理はないからである。 つまりこれは。 「ノルン神父の判だ‥‥」 実際に判を押したのはシスターミリアだが、ばれることはないだろう。 「というわけで! わたしはアルと一緒に行くです!」 「‥‥ほんとに?」 「ほんとです! 決意はゆらがないです!」 「‥‥」 燃える瞳で自分を見上げる、4つ年下の友達。 思わずアルカは、ユニを抱きしめていた。 「あ、アル‥‥!?」 「ありがとう、ユニ。ぼく、嬉しいよ」 本当はアルカだって心細かったに決まっているのだ。 「アル、苦しいです‥‥」 「あ、ごめん」 ぱっ、と身体が離される。 苦笑しているアルカに対して、ユニは顔を思いっきり真っ赤に染めている。 「‥‥」 その様をただ呆然と眺めていた王は。 「‥‥確かに、アルカを行かせてユニを行かさぬ道理はなかろう。だがユニ。本当にそれでよいのか?」 「もちろんです。わたし、アルのいない日常に未練なんかありませんです」 そう言い切った。 王も思わず、むぅ、と小さく唸る。 その目が、本気だと告げていた。 「――判った。ならば許可しよう。アルカ、そしてユニ。存分に使命を果たせ。アリアハン王国は、お前達がどこにいてもお前達の味方だ。いつでも帰って来い」 「うん」 頷いて笑顔になるアルカ、その笑みが、自信を物語っている。 「あらあら、感動の旅立ちシーンだったのかしら」 脈絡無く。 伏線無く。 唐突に。 突然に。 その声は、現れた。 * * * 誰かが息を呑んだ。誰もが息を呑んだ。 謁見の間、戸から玉座の下まで走る朱い絨毯の、ちょうどその中間辺りに、一人の人間が立っていた。 いや、それは人間だろうか。 戸を開けることもなく衛兵達に気付かれることもなくここまで来られるものが、まともな人間と言えようか。 一斉にその人間らしきものへ視線が刺さる。 それを一言で表すならば。 深紅。 アリアハンの朱などより遥かに深く、また遥かに毒々しい深い紅。 全身をその色のマントで覆い、頭にもフードを被ったそれは、くつくつとおよそ人間らしからぬ笑い声を響かせる。 「アリアハンも平和ボケしたものね。それとも単純に、魔法使いが足りないだけかしら?」 「お、王様!」 ばたん、と音がして、深紅の人影の奥から、灰色のローブをまとった男が焦った様子で部屋に入ってくる。 「い、今、突然巨大な魔力が! 魔術障壁が破られ‥‥!?」 さすがに、魔法使いの端くれである彼には判ったようだ。 その猛烈な攻撃の原因が、今目の前にあることを。 「ふうん‥‥あなたがあの障壁を作っていたのね‥‥そう」 「貴様――誰だ!?」 「侵入者だ! 捕らえろ!」 魔法使いの青年が叫ぶのと、衛兵達が紅に突撃するのはほぼ同時だった。 そして一刹那。 瞬きする間に、謁見の間に強烈な衝撃が走った。 大きく低い音があちこちで響く。 誰もが突然の衝撃に目を開けられなかったが、それを仮に見ているものがいたとしたら、それをどう表現するのだろうか。 ただ一つ、現実にあったことを説明するならば。 紅のマントに迫った衛兵達、7人がほぼ同時に一瞬の間に、10メートル近くの距離にあった両脇の壁に、ぶつけられた。 背中から、胸から、足から、頭から。 人類の栄光を綴った壁画達が、ただそれだけで、鮮血に染まった。 「貴様、魔法使いか!」 咄嗟に身を守ったらしい、ローブが切り刻まれているようだが本人には目立った怪我はない灰色の魔法使いが、瞬間的に呪文を詠唱する。 「悪を裁き、悪を燃やし、悪を絶ち悪を滅ぼす‥‥精霊ルビスの御名において我ナーシェンが命ずる」 大気が揺らぐ。魔法が発動するとき独特の感覚だ。 「弾けろ炎の矢!」 両手を前に出して複雑なかたちを組み、叫ぶと同時にそこから火柱が生じる。 それは真っ直ぐに、深紅のマントの人間へと飛んでいく。 「‥‥」 直撃。 誰もがそれを疑わなかった。 突然の事態に目を見張っていたアルカとユニも、心のどこかで「当たった」と確信していた。 そして。 煙の中から、無傷の深紅が姿を現した。 「ふむ‥‥詠唱が長くて厄介ね。舌を噛みそう」 まるで動じていない。微動だにしていなかった。くつくつと、不気味な笑い声が轟く。 「それに、両手でやるその詠唱刻印。そんなもの使ってやってるようじゃ、まだまだね」 ゆったりと、深紅のマントが身体の向きを変える。 それまでは、ずっとそれは王のほうに正面を向けていたのだ。 どっちが正面で背中なのかすら判らなかったが、振り向く拍子にちらりとフードの奥が、アルカとユニには見えた。 「‥‥人間だ」 少なくとも、人間の姿をしている。 それだけははっきりと判った。 「――あれは、まさか」 アルカ達の後ろで、王がいつの間にか玉座から立ち上がり、わなわなと震えていた。 「そんな、馬鹿な」 声もまた震えていた。その声を聞いているだけで、王がどれだけの恐怖を味わっているのかが理解できてしまう。 「魔法はやっぱり、本じゃなくて師から直接学ぶものよ。あるいは実戦から。でないと、役には立たないもの」 深紅は、心底楽しそうにそう告げた。 身体は、もう完全に灰色の魔法使いへと向き直っている。 「と、いうわけで。せっかくだから教えてあげるわ。充分参考にすることね」 笑った、ような気がした。 マントの中から白い手が伸びたかと思うと、それを灰色の魔法使いに向け、くん、と振り下ろした。 それだけだった。 大気が凝固し、時間が凍結し、大地が蠢動した。 虚空に生じた無数の氷柱が、全方位から灰色の魔法使いに迫る。 その全てが着弾し、その後には、肉塊と血液だけが残った。 「‥‥」 誰もが言葉を失った。 その凍りつくような沈黙の中を、深紅の魔法使いは、再び王に向き直り、ゆっくりと一歩踏み出す。 誰一人として動けなかった。 王を守るべき兵士達も、王自身も、アルカ達も。 ただそこを、一人だけ時間を支配しているかのように、深紅が歩く。明るい朱が、暗い紅に侵食されていく。 やがて、アルカとユニと王の目前に迫るまで近づくと、おもむろに白い手がローブを剥いだ。 そこには、同じ色があった。 深紅の髪。深紅の瞳。深紅の唇。 優雅で穏やかな笑みをたたえるその表情が、何よりも恐怖を与えた。 「ごきげんよう、アリアハン王子‥‥ああ、今は王だったかしら」 「‥‥き、貴様‥‥」 「まさか私を忘れたとは言わないわよね? 王様」 「‥‥忘れるものか‥‥忘れるわけがない‥‥」 圧倒的なまでのその女の存在に、王はたじろぎそうになるのを理性で押し留める。 「この19年間、一度として一日たりとも、貴様を忘れた事はない」 「それは嬉しいことを言ってくれるわね。女として幸せに思わないと。こんなにかっこいいおじさまに思われるなんて」 くつくつくつ。女が笑う。 「‥‥そちらの女の子は」 そしてその視線が、アルカに向いた。 「!」 「私が怖い?」 「‥‥」 女も背が高い方ではないようだが、やはり大人と子供程度の身長差はあるようだ。 深紅の女は、少しだけ身をかがめて、アルカと視点を同じくする。 まっすぐ、瞳を見つめあった。 女は挑発するように、アルカは燃えるように。 「その目‥‥」 ちょこん、と、女が首を傾げた。 「ああ、そっか。そうなのね。なるほど」 吐息がかかりそうなほど近くに、その女の顔がある。 アルカは、ただただ強く、視線だけで相手を突き刺せるくらいに強く睨んでいる。 「貴女が、オルテガの子?」 「!?」 アルカの顔色が変わる。 「当たりみたいね。そっかそっか。来たかいがあったかな」 女は、にこにこと嬉しそうにそんなことを呟く。 「あなたは、だれ」 穏やかに、冷静に、けれどどこまでも強く。 アルカが言った。 「ん? あ、そっか。貴女、確か16歳だったっけ。じゃあ私は見たことないか」 「アルカ、離れろ」 ぐい、と、アルカの肩が後ろに引っ張られる。 代わりに前に出たのは、国王だった。 「王!」 「案ずるな、大臣!」 慌てた様子で悲鳴みたいな声をあげる大臣に、王が怒鳴る。 「アル‥‥」 数歩下がったところにいたユニが、不安げにアルカの手を取った。 「アルカ。それにユニ。よく聞け」 女へ至近距離に迫った王が、視線を目の前の顔に向けたまま言う。 「お前達が倒すべき相手は魔王。魔王バラモスだ。だがそこに至るまでにはいくつもの試練があるだろう。我々が知る限りそれを手助けしたいが、全てに対してできるわけではない。その一つが‥‥こいつだ」 「こいつだなんて、失礼ね」 言いながらも、女はくつくつと気味の悪い笑みを崩さない。 「お前たちも聞いたことがあるだろう。19年前、オルテガが旅立つ6年前、この国に何があったのか」 「‥‥19年」 ユニがぼそっと呟く。 ユニだけではなく、もちろんアルカもそれは知っていた。 19年前という数字は、ある種アリアハンにとっての、口に出してはいけない禁断の数字であった。 だが同時に、誰もが知っている数字でもある。 「そう。俗に言うアリアハン魔法戦役だ」 王は、強大な圧迫感を持つ深紅の女に対し、一歩も引かずにその視線を受け止めていた。 それはまるで、悪しき目からアルカを逃そうとしているかのように。 「当時、王国七賢と呼ばれた7人の魔術師がこの国にはいた。魔法大国としてこの国を発展させようとした先王の思想を具現化した、魔法研究所なるものもあった」 「けどそれは、今は廃墟」 女が歌うように言う。 王は、それを無視して続ける。 「魔法戦役は、我が国の魔法に関する力が大きくなることを恐れた魔王が、兵力を投入したことから始まる」 「それも、たった一人の魔法使いをね」 「その魔女は魔王の配下としてこの国に現れ、七賢をことごとく打ち破った」 「スライムを叩き潰すように、とはいかなかったけど、でもまぁ、ダークマージ3匹を相手にするよりはマシだったかな」 「‥‥そして我が国は負け、この島から出る手段を失った」 「オルテガはどうにかして出て行ったみたいだけどね?」 くつくつくつ。 深紅が笑う。まるで嘲笑しているかのように。それに臆することなく、王は最後に言った。 「その魔女は、我が父である先王を殺害したときに、その名を告げた」 「深紅のエリシャ、ってね」 「!」 深紅がそう自己紹介するのと同じタイミングで、王が隠し持っていた杖の先を、女の腹部に当てた。 「‥‥あら?」 「雷の杖だ。貴様も知っているだろう、これは魔力などなくとも一瞬で発効することを」 「ふうん。不意打ちってこと。一国の王様にしては、なかなか卑怯じゃない?」 「貴様を葬れるのならば愚君にでも悪魔にでもなろう」 ぐい、と力を込めると、杖の頭についている宝玉が鈍い光を放つ。 「我が国全ての者の恨みだ。悪く思うな、魔女」 更に光が強くなる。既に宝玉は、触れると燃えてしまいそうな赤色だ。 「お、王様、いけません! そんなことをされたら、あなたまで!」 「構わん。‥‥が、お前達を犠牲にするつもりはない。伏せていれば恐らく怪我で済む」 きぃぃん‥‥と、甲高い音が周囲に響く。 大気中に混じった魔法成分が蠢動する。 「王さま!」 アルカの悲鳴のような声。 王はほんの少しだけ彼女の方に振り向くと、微笑んだ。 「オルテガのことは済まなかった。私ができるのはここまでだ。魔王はお前達の手で、どうか」 そこまで言うと、王は魔女エリシャを正面から睨みつけ、未だに状況が飲み込めていないのか呆然としている紅の瞳に向けて、言い放った。 「これが王家の意地だ」 爆音。 閃光。 熱波。 全てが同時に、謁見の間に満ちた。 だがそれも一瞬で冷め、 「こんなもので私がやられるとでも?」 呆れた顔をして、閃光を避けるために瞑った目を開いたとき。 そこに、かのアリアハン王の姿はなく。 真後ろで、床を叩く靴の音がした。 「――!」 魔女が振り向く前に、魔女が口を開くよりも先に。 魔法を使われるよりも早く、王は右手に蓄えた魔力を撃ち放った。 「焼き尽くせ!!」 * * * それは完璧だった。 雷の杖を使って攻撃する。 それは、道具による魔法の発光であるため詠唱が必要なく、瞬間的に発動が可能であるうえ、使用者に魔力が無いと錯覚させることもできる。 そして瞬間的な閃光による目くらまし。 もし目を瞑っていたとしても、再び開けるまでの間に勝負は決まる。 王は、蓄えていた魔力を一気に解放し、魔女の背に移動すると同時に、殴りつけるように魔法を放つ。 それで決まり。それで終わりだ。 強烈な熱をゼロ距離で食らった魔女は、いかに魔界の者といえど、無傷では済まないはずだ。 そうすればあとは、魔法封じの首輪をかけることができる。 「一瞬で勝負を決めるには、これ以上ないくらい最高の作戦ね」 「な」 王が絶句する。 確かに手ごたえはあったのだ。当たったと確信できたのだ。 では、これは何だ。この圧倒的なプレッシャーは。恐怖は。絶望は。 「一つだけ誤算があるとしたら、それは相手が私だったこと」 深紅のマントには、焦げ一つなかった。 「頑張ったけど、あなたもまだまだね、王様?」 顔を上げたときには遅かった。 魔法を放った途端、せめて離れておくべきだったのだ。 だが今の彼には、そんな余力も無かった。 魔力だけではない。精神的に、全ての力を使い果たしていた。 動くことができるはずもなかった。 そして、そんな王の眼前に。 魔女エリシャの掌が伸びた。 「同じ魔法で燃やしてあげましょうか。燃えるというより、蒸発するんでしょうけどね」 掌の真ん中に眩しい光が集まり、それが強烈な熱波となる。 目の前の女の手が、自分という存在全てを握りつぶす悪魔のそれに見えた。 掌の光はゆらゆらと揺れ、やがて巨大な熱を、 「――!」 手が消えた。 王の目の前に広げられていた魔女の手が、無くなった。 もちろん、本当に消え去ったのではない。 驚いて、手を引っ込めただけだ。 王は瞬く。 すぐ隣に黒髪の少女が立っていた。 「‥‥」 少女は、剣を振り下ろした格好で、魔女を睨みつけていた。 どうやら、それで腕を切り落とそうとしたらしい。 魔女の方は間一髪それを避けたようだったが、驚愕に満ちた目でアルカを見ていた。 「これ以上殺すな」 アルカは王の前に立ちはだかり、鋼の剣を下段に構えて唇を噛む。 「ぼくはオルテガの娘だ。ぼくが相手になる」 「‥‥」 エリシャはアルカを、なんの感情もない機械的な瞳でしばしじっと見つめていたが、やがてそれにも飽きたかのように、視線を逸らして肩をすくめる。 そして、ため息をついて笑った。 「なるほど」 呟いて、魔女はアルカ達に背を向ける。 フードを被りなおし、朱い絨毯の上を入り口の戸へ歩き出した。 が、やがて止まる。 そこは、つい先ほど、この深紅が現れたのと同じ地点である。 「アルカ。貴女は確かに勇者ね。オルテガにも劣らない」 「‥‥」 アルカはただ無言で睨み続ける。 「貴女がいつかネクロゴンドへ来るのを楽しみに待っていることにするわ」 「ネクロゴンド‥‥」 そこは、オルテガの消えた場所。 魔王の居城がある場所。 「そうそう、せっかくここまで来たんだから、一つだけ教えておいてあげる」 「‥‥」 いぶかしむアルカの視線を楽しげに背中で受け止めながら、魔女は半身だけ振り向く。 「この10年で何かなかったなら、あなたのお父さんは生きてるわよ」 「‥‥‥‥‥‥え?」 アルカがやっと声を出したときには、既に魔女の姿はそこにはなかった。 いくつかの遺体と、遺体ですらない肉と血だけが、そこに誰かがいたことを示していた。
004/End |