アリアハン城下町の小高い丘の上に、教会が建っている。 20人も人が入れば満杯になってしまうほどの大きさの礼拝堂に、神父の一家とシスター達が住む家が隣接している。 そしてその教会の周囲は、シスターによって細かい手入れがされている花壇以外には、芝生だけが広がっていた。 だからそこは、敬虔な信者達だけではなく、近所の子供達の遊び場にもなっている。 この教会の神父であるノルンという男は、そうして楽しげに遊んでいる小さな少年少女を眺めるのが、ひそかな楽しみだったりするのだ。 * * * だが、今はまだ夜が明けたばかりである。子供達が駆け回るような時間ではない。 教会の扉の外、花壇の脇には、シスターが一人だけ佇んでいた。 花に水をやる柄杓を手に、ぼんやりと空を見上げる。 ゆっくりと流れる雲を見つめながら、大きくあくびをした。 冷水で顔を洗ったものの、どうやらまだ眠気は消えていないらしい。 シスターは天に向かってぐっと背伸びをして、こきこきと首を回した。 「今日もいい天気になりそう‥‥」 あくびを噛み殺しながらそんなことを呟く様は、神に仕える者の姿には、とうてい見えなかった。 といっても、彼女自身、最初から神に仕えようと思っていたわけではない。 半ば偶然に、半ば無理やりに、半ば仕方なく、今の立場にいるにすぎないのだ。 とはいえ、本人も決してその境遇を嫌がっているわけではない。朝が早いのだけは厳しいが。 彼女、シスター・ミリアは、両親と弟を失っていた。 いわゆる戦乱の時代、魔物が溢れるこの世界で、ミリアの両親は世界を巡る宣教師をしていた。 魔物の多いこんな世の中だからこそ、穢れ無き神への思いが大切なのだ、というのが、両親の見解だった。 けれどミリアは神を信じない。 本当に神がいるならば、そこまで神を信じていた両親を、むざむざ魔物によって殺させることなどないはずだからだ。 そして、無知で無垢な弟までもを。 だからミリアは神を忌み嫌った。 そんな彼女が拾われたのが、この教会の神父であるノルンだった。 神に対する不信感を露わにするミリアへ、ノルンは言った。 神を信じなくともよい、この世に平安あれと願うだけでよい、と言った。 誰に願えばよいのかと聞くと、あなたの亡くなったご両親と弟さんとに願えばよいと答えた。 そうしてミリアは、ノルンの元にいる。 ミリアはノルンを尊敬してもいたし、恩を感じてもいた。 それに、一度は無くしかけた命なのだから、自分を助けてくれた彼に尽くしてみるのもよいか、と思った。 あれから4年が経ち、19歳になった今でも、ミリアが世俗に惑わされること無く修道衣を着ているのは、そうした理由があった。 * * * かたり、と音がした。 ぼうっと空の青に目を奪われていたミリアは、突然聞こえたその音にびくっと肩を震わせて、振り返った。 音のした方向は、背中のほうだった。 花壇の向こうに、ノルンが、愛娘やシスター達と共に暮らす住居が見える。 その二階。 まだ朝っぱらだというのに、窓が開いていた。 そしてそこから、それが誰か判別できるくらいにははっきりと、人影が見えていた。 「あれ、ユニちゃん?」 「!?」 なんとなく声をかけると、人影はぴたりと動きを止める。 カーテンの隙間からこちらを覗く、利発そうな瞳。紺色の髪。雪のような肌。どこからどう見ても、ノルン神父の一人娘、ユニの姿だ。 「おはよ、ユニちゃん。驚いた、もう起きたの?」 普段は起こしても起きないようなねぼすけが、今日に限ってどうしたのだろうか、と首を捻る。 対してユニのほうは、どこかおどおどとした感じで、怯えているようにも見えた。 「ねぇ、どうしたの?」 「‥‥」 窓の下まで行ってみようとミリアが足を進めた瞬間、飛び上がるくらいの怒号が周囲に響いた。 「ユニ!」 「ひゃ」 反射的に背筋を震わせてしまったミリアが首だけを後ろに回すと、そこには神父の姿があった。 青い法衣に高位の神官の証である高い帽子を被り、ただ立っているだけで威厳のある彼が今、眉を吊り上げて睨むのは二階の窓。 即ち、その娘であるユニの部屋だった。 「ああ、ミリア、おはよう」 「え、あ、はい、おはようございます、神父様」 「あっ、こら、ユニ!」 神父の声に反応してふと視線を窓に戻すと、そこは何も無かったかのように窓もカーテンもしっかりと閉められていた。 「全く‥‥」 大きく肩をすくめてため息をつくノルン。 それをしばらく見つめていたミリアは、恐る恐る、疑問を口にした。 「あの、神父様?」 「はい」 「いったい何があったんですか‥‥?」 * * * ノルンは言う。 ユニという少女は、小さい頃こそ純粋で優しかったのに、ここ最近、なんだかわがままになってきている、と。 ミリアがそれに気付いたのはもう随分前のことなのだったが、それは言わないことにした。 「原因って‥‥」 ミリアが聞くと、ノルンは即答した。 「恐らくは彼女でしょう」 「――ああ、アルカちゃん‥‥」 アルカとは、教会から少し離れた、町の郊外に住む少女だ。 家族構成は、確か母親が一人きりだったように思う。 父親は、かの有名な大陸の英雄オルテガ。 そう、つまりアルカは、今現在、アリアハンで最も将来を有望視される『勇者』なのであった。 「アルカが旅に出るという話を聞いてから、ユニも途端に落ち着きがなくなりました」 「はは‥‥」 ミリアは、ノルンが知らないであろうユニに関わることを、少なからず知っている。 それは、ユニにとって彼女が頼れる人物だから明かせる秘密であって、決して他言してよいことではない。 そういうことを考えると、ユニがアルカについていきたいと考えるのは、ごく当たり前のことなのではないかと思えてくる。 ミリア自身、ユニからそうした話を直接聞いたわけではない。だが、ユニがアルカを好きでいることは嫌というほど知っている。 好きな人が遠くに行ってしまうというときについていきたいと考えるのは、別段おかしなことではない。 ユニの場合まだ12歳になったばかりだとか、アルカがユニと同性であるとか、一般常識に当てはめた問題はいくつかあるかもしれない。 けれど、そんなことは、最も大きな問題の前ではさして影響は無いはずだ。 つまり。 「愛のなせる業ですね」 「はい?」 「あ、いえ、なんでも」 子供の恋愛だ。ガキっぽい男の子より、ちょっとオトナっぽくてかっこいい女の子に惚れてしまうことがあってもおかしくはない。 それに加えて、アルカは将来を嘱望される英雄の娘だ。かっこよくないわけがない。 アルカは、15歳にして、アリアハン随一の剣の使い手といわれているらしい。兵士の面目も丸つぶれだ。 「で、どうなさるつもりですか、神父様は」 「どうもこうも、そんなこと認められませんよ」 まあ、そりゃそうだ。そもそも子供が12歳だって時点で、旅に出すには問題がありすぎる。 「冒険の旅など、そう甘いものではない。私もそうですが、あなただってそれは理解できるはずです」 「‥‥」 両親共に、かなりの使い手だった。 特に、魔王の悪心に取り込まれた魔物を寄せ付けない魔法や、そういった者たちを消し去る魔法の腕に長けていた。 けれど、だからこそ、そうした魔法の効かない強敵にやられてしまった。 「ああ、済みません、嫌なことを思い出させてしまって」 「いえ‥‥」 「しかし、そういうことがあるからこそ、私はユニを、神父として以上に親として、旅に出すわけにはいきません」 「‥‥」 ミリアも一人の女性として、好きな人にどこまでもついていきたいという気持ちは理解できる。 しかもそれが、一度行ってしまったらもしかしたら二度と会えないかもしれないというのであれば、余計に。 「――というわけで、ミリア」 「はい?」 「申し訳ないのですが、あなたから伝えていただけませんか。私が、ユニを外に出す気はないことを」 「‥‥」 町にいれば安全だ。そんな神話、とっくの昔に崩れてしまっている。 アリアハンだって18年前に魔物による襲来を受けて大変なことになったというし、つい最近、西の大陸で町や村がいくつも襲われているらしい。 「‥‥」 「どうしました、ミリア?」 「一つだけ聞いてもよいですか?」 「なんでしょう」 「‥‥」 例えば、この世に運命なんてものがあるのだろうか。 神がいたとして、ミリアの両親やノルンの奥さんや、あるいはアルカの父であるオルテガが死んでいったのは、そう決まっていたことなのだろうか。 そして、その運命に従うなら、いつか誰かが、魔物を一掃してくれるのだろうか。 その誰かとは、誰なのだろうか。 「ミリア?」 「あ、えっと‥‥」 ミリアは一瞬だけ逡巡したが、決意すると正面からノルンを見つめた。 「ユニちゃんが勝手に出て行くぶんには、構わないのですか?」 * * * ここ数日、ユニはアルカに会わせてもらえなかった。 お城に行ったり武器屋に行ったりして忙しかったり、あるいはルイーダの酒場で旅立ちの酒盛りに付き合わされたりしたらしい。 教会にも絶対に来たはずなのに、ユニはそれすら知らない。 寂しくて悔しくて、惨めな気持ちだった。 どうしてダメなのだろう。どうしていけないんだろう。 いつか父は言った。 ――世界の全てに平穏を与えることができればどんなによいことか。 ――けれど、人間は誰しもそこまでの力を持っているわけではない。 ――だから、ユニ、お前は、自分の大切なものだけは、守れるだけの力をつけなさい。 6歳の少女に言うことではないと思う。 だが、母親を失って絶望した父親が、母を守れずに悔しい思いをしたのを、ユニは知っている。 大切なものを守るのに、男も女もない。 ただ、自分ができる方法と、自分ができる手段で、助けてあげるしかない。 そう言ったのは、尊敬する父親だ。 だからこそ、ユニは行かなければならなかった。 自分の抱いている思いが淡い恋であるということにすら気付かない今も、ユニはそれだけを考えていた。 と。 ドアをノックする音がした。 ユニはベッドの毛布に包まったまま、返事をしない。 もう一度、遠慮がちにこんこんと音が鳴り、止んだ。 しばらくして、ドアが開いた。 「なんだ、いるんじゃない」 父親の声ではなかった。 「入るよ?」 さっき窓の向こうで視線を合わせてしまったミリアだ。ユニは布団をぎゅっと掴む。 「カーテンまで締め切っちゃって。不健康だよ」 カーテンどころか窓まで開けて、ミリアが言った。 「にしても、さっきは驚いちゃったな」 ユニが顔を出さないことを気にしないような声で、ミリアがそんなことを言った。 「やるんだったら夜中のうちとかのほうが効率的なのに。どうして朝っぱらから?」 「‥‥」 ユニは答えない。 ミリアが苦笑したような気がした。 「おや、これは荷物ですかね?」 がさごそと、何かをいじくる音がする。 ユニが3日かけて集めた冒険用の道具をしまったバッグが漁られているようだ。 「ふんふん、薬草に毒消し草、セオリーだね。あれ、目覚めの粉まで。どうやって手に入れたのかな?」 ユニは、毛布からちらっと顔を出した。 ミリアはこちらに背を向けて、道具袋をまさぐっている。 「ねえ、ユニちゃん」 ミリアが唐突に振り返った。 驚いてユニは布団に潜りなおす。 「そんな、逃げなくてもいいのに」 ぽん、と毛布を上から叩く感触がした。 「もし道具袋に余裕があるなら、聖水くらい持っていくといいよ。長旅には重宝するんだから」 てっきり頭ごなしに怒られると思ったユニは、そのミリアの言葉が理解できずにしばし沈黙した。 「それから、初歩の初歩だけど、野宿するときは水辺でね。野原で野宿したりなんかしたら、魔物に食べてくださいって言ってるようなもんだよ」 ユニがゆっくりと顔を出す。 ミリアはそれを見てにっこりと笑いながら、講釈を続けた。 「お金は大事に使うこと。武器とか防具はともかく、宿屋に泊まるお金がなくなっちゃったら町の中で野宿なんてことになりかねないし」 「えっと‥‥ミリア?」 「ん?」 「止めに来た‥‥じゃないです?」 「ないですよ。神父様にはそう言われたけどね、何言っても止められそうにないし、神父の娘さんを無理やり監禁するわけにも、ね」 ミリアが悪戯っぽく笑う。 「じゃあ‥‥」 「ま、簡単に言うと、脱走の手助けに来たってわけ。はは、神さまが見てたら天罰食らっちゃうね」 清楚な修道衣を身にまとった女性があっさりとそんなことを言ってのける様は、なんだか滑稽だった。 「どうせ、アルカちゃん一人じゃ心もとないからね。ユニちゃんが、しっかり魔法と知識でカバーしてあげないと」 「魔法‥‥」 「そ。知識はあるでしょ? あの神父様の娘なんだし、ある程度は頭に入ってるはずだもの」 これまでユニがまともに使えた魔法は、傷を治癒するホイミだけだったが、他にいくつか、どんな魔法があるのかくらいは知っていた。 「そういうのは、魔法の経験を積めば次第にできるようになっていくから。もっと高位の魔法を覚えたいときは、大きな図書館とか魔法使いの家とかで、魔導書を読んでみること」 「‥‥」 それも知っていた。 ユニの父であるノルンは、ホイミの系統で最上級の魔法であるベホマを操ることができる。 けれど、そのことを知っていても、ユニには決してベホマは使えない。 契約というわけではないが、やはり経験が影響しているようだった。 「ま、あとは、冒険していく中で学んでいくしかないかな」 何か質問は、とミリアが問う。ユニは首を横に振った。 「そ? なら、いいけど」 ふと、ミリアの顔が翳った。 「私の父と母と弟がどうなったか、知ってるよね」 「‥‥知ってるです」 魔物によって殺された。 それも、よほど強い魔物だったのだろう、その敵が放った魔法は瞬間的に両親を蒸発させた。 「実は私、そのときのこと覚えてないの。ショックで忘れたんだろうって神父様は言ってたけど」 だからといって、そんなにあっけらかんと言えることではない。 「‥‥ミリアは強いです」 「うん? ――強くない。私は強くない。弱いよ、すごく弱い。だから守れなかった。助けられなかった。弟さえも‥‥」 自嘲的な笑顔が見ていて痛かった。 「だからね、私は、ユニちゃんに後悔してほしくないの。もちろん、危険性は充分理解しなきゃいけない。少しでも危ないと思ったら、いつでも帰ってくること。アルカちゃんを引っ張ってでも」 「‥‥」 ユニは黙って首肯する。 「でも、それでも‥‥大切な人と一緒にいられるって、シアワセなことだよ」 自分の知らない何かを知っている、ミリアの穏やかな表情は、そんな思いをユニに抱かせた。 「というわけで。これ、ユニちゃんに餞別」 「‥‥?」 ユニの小さな手を取ると、ミリアは自分の細くて滑らかな指からリングを抜くと、ユニのそれに通した。 「これ‥‥」 それは、ミリアがいつか言っていた、彼女の宝物。大好きだった母親がくれた、最後のプレゼント。 「お守り。効果抜群なんだから」 ユニの右手の薬指で、指輪が淡く光っている。 「‥‥ありがとうです」 「どういたしまして」 ミリアはそう言って、ユニの頭に手を乗せた。 「さ、あとは、私が神父様をごまかすから、そのうちに出て行くといいよ。‥‥別れの挨拶は?」 「いいです。会っちゃうと捕まっちゃうですし、それに――」 きっと、別れが惜しくなる。 ミリアはそれ以上ユニに言わせないよう、彼女を抱いた。 「いい子だね、ユニちゃん」 「‥‥」 「――よし。じゃ、行ってらっしゃい。必ず帰ってくること。いい?」 「はいです」 「うん」 ユニを自分の身体から引き離して、ミリアは道具袋をユニに手渡す。 「アルカちゃん、もうそろそろ謁見の時間だと思うから、もうお城にいるかもしれない。ユニちゃんなら問題なくお城に入れるでしょ?」 「たぶん‥‥」 「ん、じゃあ、ついでに王様に挨拶してらっしゃいな。神父様のことは、適当にごまかして」 「‥‥が、がんばるです」 「うん、がんばれ」 最後に、軽く背中を押して。 「行ってらっしゃい、ユニちゃん」 「行ってきますです、ミリアお姉ちゃん」 いつからか気恥ずかしくなって使わなくなった呼び名で、最後にユニは大好きな姉を呼んだ。 * * * 「あーあ、行っちゃった‥‥」 開け放たれた教会のドアから、外を眺めるミリア。 もうユニの姿はなく、ドアの外には芝生と青空だけが広がっていた。 「全く‥‥とんでもないことをしてくれますね」 ミリアの横に、彼女より背の高い神父が立った。 「私は彼女の意志を尊重しただけですよ。あのまま放っておいても脱走することは目に見えていましたから」 「‥‥」 ノルンは腰に両手を当ててじっと正面を見つめている。 「いえ、そうではなく‥‥」 はぁ、と大きく落胆する。 ミリアが首を傾げると、 「いつの間にか私のルーンスタッフが無くなっていたのです。いくらなんでも黙って持っていくことはないでしょうに‥‥」 「‥‥」 もしかしたら、ユニは自分以上にしたたかなのかもしれない。 ミリアはふと、そんなことを思った。
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