ドラゴンクエストV:メイデンフェイブル
「002」

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 ルシアが庭先で採ったハーブの籠を抱えて居間に戻ったとき、ちょうど誰かが階段を昇る音が聞こえた。
 小さくため息をつくと、籠をテーブルに置き、天井を仰いだ。
「まったく‥‥」
 今日くらい大人しくしていてもよいものを、あの娘はやっぱりいつも通りだ。
 マイペース。のんびりや。純粋無垢。天衣無縫。
 いったい誰に似たのだろうかと、ルシアは少しだけ娘の育て方を後悔するのだった。

     * * *

「アル、いるの?」
 娘の部屋の前まで来て、ノックせずにルシアはそう声をかけた。
 しばらくして、その中から返事が返ってくる。
「いるよー」
「入るよ?」
「あっ――」
 ドアを開ける。
 今年で――今日で16歳になるというのに、部屋はどこか少女趣味で、ぬいぐるみやら子供っぽい置物やらが散乱している。
 お世辞にも整っているとはいえない部屋。その真ん中で、一人娘が着替えの最中だった。
「わ、お母さん!」
「着替える前にシャワー浴びたら?」
「恥ずかしいよ、お母さん、まだ着替えてるんだから」
「あら。いつの間にか女の子っぽい反応するようになっちゃって」
 ほんの数年前まで、アルカは人前で何の躊躇いもなく着替えをするようなやんちゃな子供だった。
 それは城の兵士達に混ざって剣術の稽古をしているときも同じで、何と言うか、周囲の兵士さん達は随分と悩まされたようだったけれど。
 この数年で、すっかり大人びてきたようだ。
「――それに、そんな男の子みたいな身体で恥ずかしがったってダメだと思うけど?」
「うう‥‥」
 露わになっていた胸を覆い隠すようにして、アルカは両腕で身体を抱く。
「いいんだもん。戦うのに邪魔なだけだもん。ルイーダだって言ってたもん」
「はいはい」
 こうやってすぐ拗ねてほっぺたを膨らませるところとか、まだまだ幼稚だ。
「とにかく、シャワー浴びて着替えたら、まず王様のところに行くのよ。お城の前までお母さんも行くから、ちゃんと準備してね」
「ええっ? 一人で行けるよう」
「そういうわけにはいきません」
 腰に手を当てて、仁王立ちするように立つルシア。
 ほとんど背が同じくらいになったアルカが、ふとこちらを見た。
「‥‥なに?」
 ルシアが眉をひそめた瞬間、
「‥‥ふわっ!?」
 何の予備動作もなく、突然アルカが母親の胸元に飛び込んできた。
「ちょ、アル?」
「お母さんの娘なのになー。なんでおっきくならないんだろ」
「‥‥」
 胸に顔を埋めながらそんなことを言わないで。
 顔を真っ赤にして、ルシアは娘から顔を背けた。
「やっぱりあれかな、お母さんになると違うのかな」
「はい‥‥?」
「子供ができるとおっきくなるの?」
「何を言ってるのアナタ‥‥」
「でもなー。この前、ルイーダ言ってたよ。お前、本当にルシアの娘なのかー、って」
「え? それは‥‥どういう意味で?」
「お前の体は男らしくて貧弱だな、って言ってた。ぼくの胸さわって、とことん母親に似ないけどここの似なさ加減は驚きだわって」
「‥‥な」
 母親が口をあんぐりと開けて絶句していることなど、アルカは気づきもせずにずっと胸に顔を埋めていた。
 だから、頭の上で母が真っ赤な顔して照れだか怒りだか判らない表情に顔を歪めていたことにも気づかなかった。
 その後しばらく、「おっきいなー」だとか「ふわふわだー」だとか、娘が自分の胸にじゃれつくのを、多少引きつった笑顔でルシアは見下ろしていた。
「‥‥いい匂いがする」
「は?」
 じっと黙っていたアルカがいきなりそんなことを言う。
 呆気にとられたルシアが頭に疑問符を浮かべると、アルカは上目遣いになって母親を見上げる。
「お母さん」
「なに?」
「‥‥今まで育ててくれて、ありがとう」
「‥‥‥‥」
 ルシアが何も言えないでいると。
 アルカはぱっと彼女から身体を離し、花の咲くような満面の笑みを浮かべた。
「ぼく、頑張るから。頑張って、世界を平和にするよ」
 それが。
 それが16歳になったばかりの少女の言葉だろうか。
 あまつさえ、それが自分の娘の言葉なのだろうか。
 その明るい笑顔が痛々しくて、ルシアは思わず、アルカの視線から逃れるように顔を逸らす。
「‥‥お母さん?」
 首をかしげてこっちを覗き込んでくる娘。
 行かないで、と言えたらどんなに楽だろう。
 例え叶わない願いだったとしても、それを口にできたらどんなにか幸せになれることだろう。
 でも、それはできない。それだけはやってはいけない。
 それを口にしたら、きっとこの子は悩んでしまう。
 そんなことはさせられない。
 10年前、同じようにあの人を送り出したように、この子を送り出さなければならない。
 旅立つのがこの子の運命なのだとしたら、何もできずにその背中を見送るしかできないのが自分の運命だ。
 もしこの世界に本当に神様がいて。
 もしこの世界に本当に運命があるのなら。
 今の自分は、きっと神も運命も呪い殺せるだろう。
 神や運命を最も信じないのが勇者の母親だなんて、どんなに滑稽なことか。
 そんな自嘲的な笑みが、無意識にこぼれた。
「お母さん‥‥?」
「‥‥アル」
 泣かない、と決めた。
 10年前のあのときに、決めた。
 だから泣かない。泣いてなんかいない。
 でも、だったら。
 この頬を伝う熱いものはなんなのだろうか。
「あなたは勇者です。世界を救う勇者として、その責務を果たしなさい」
「‥‥うん」
 真剣な顔で頷く娘に。
 ルシアは決壊した感情の暴走を止めることができなかった。
 だから。
 ことさらゆっくりとした足取りで部屋を出ると、扉を閉じてその中の娘に告げる。
「王様に会ったら、一度帰ってきなさいね。グラタン用意して待ってるから」
「‥‥うん」
 世界を恨めしく思うのが怖くて、ルシアは黙って階下へ降りた。

002/End



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