世界地図を広げてみよう。 いくつもの大陸、いくつもの島々が浮かぶ世界が見える。 その南、地図で言うところの下のほうに位置する一つの国。島というには大きく、大陸と呼ぶには小さな大地。 アリアハン王国。ここは、南海に浮かぶ気候穏やかな国である。 大陸を縦断するように走る大河に沿って、いくつもの町や村が点在するアリアハン大陸。 その中でも一際大きな都市が、川の中流、小島が浮かぶ湖のほとりに広がっている。 リアハン城下市は、大陸を統べ、かつて世界一の力を持っていると言われた国の首都として栄えている。 王国の誇る大英雄オルテガを失ってから、10年の歳月が過ぎた。 彼の存在は半ば伝説と化し、魔物達の進行は留まることを知らず、世界は徐々に暗雲を抱きつつあった。 魔王に挑もうとする者は後を絶たない。 だが、本当にかの魔王バラモスの元まで辿り着けた者は未だいない。 いや、いたかもしれないが、しかし誰も知らない。 知らないならば、いないことと同じである。 かくて、魔王バラモスは世界にその名を轟かせ、人間達を脅かしていた。 しかしながら、アリアハンにおいては、情勢が異なっていた。 かの英雄オルテガ。彼の残した血が、新たな英雄となって立ち上がる。 そんな噂が、国中を駆け巡っていたのである。 * * * そして、そうした話とはまるで無関係に、日々の日課をこなしている一人の少女。 アリアハン城下町の高大な敷地を、毎朝そうするように今日も走っている一人の少女。 彼女こそ王国の、ひいては世界の希望を一身に背負う勇者となる人物だということなど、誰も知る由はなかった。 * * * 少女は、静謐とした町中を走る。 石や煉瓦で舗装された道路には、少女の足音と息遣いだけが響く。 少女の吐く息は白く、季節はまだ春を迎えようとしたばかりである。 シャツに短パンというラフな出で立ちで、時折掻きあげる髪の毛は映えるような漆黒。 同年代の少女達に比べれば多少控えめな胸が、走るリズムに乗って揺れる。 まだどこか幼さを残す顔立ちの中にも、少女らしからぬ凛とした雰囲気が漂っている。 ぱっちりとした黒色の瞳は、髪と同様に父親からの遺伝なのだろう、精悍に輝いていた。 しばらく走り続けていると、その瞳に見知った丘が映る。 足元は舗装された道から芝生へと代わり、それに従って地面を叩く音もさくさくと草を踏む音へと変化する。 少女は、視線の先に十字架を携える青い屋根の建物を見つけると、一気に速度を上げた。 * * * 教会の大きな玄関の前に、神父が一人佇んでいた。 まだひんやりと冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、一日の始まりを知覚する。 ――と。 その耳にいつもと同じ足音が聞こえてきて、視線を音のする方向へ向けた。 朝靄の奥、芝生道の向こうから、黒髪の少女が走ってくるのが見えた。 それを見て、思わず微笑む。 ああ、今日も一日、始まったのだな、と。 * * * 「神父さま、おはようっ」 少女は、穏やかに自分を見つめている神父の前まで走ってくると、ゆっくりとスピードを落とし、やがて止まった。 そして、満面の笑顔で朝の挨拶をした。 「おはよう、アルカ。毎日ご苦労様」 「へへ」 照れくさそうに笑う彼女に、神父は手に持ったグラスを手渡した。中には井戸で汲んだ水が満杯に入っている。 「ん〜、冷たい〜」 全部を一気に飲み干してから、彼女、アルカは身体を縮こませて、唸った。 「一気に飲むからですよ。‥‥まだ朝は寒いんですから」 「そうだけどさー。もうすぐ春だね」 ぐっと大きく伸びをして、アルカが天を仰いだ。 既に太陽は昇りだして、群青色の空が少しずつ白んでくる。 「毎日、ほんの少しずつですが、暖かくなってきています。もう春はすぐそこですよ」 「そうだね。うん、そうだよね」 嬉しそうに頷くアルカに、神父も頬を緩めた。 「相変わらず朝が早いですね、アルカ」 「へ? どうしたの、いきなり」 神父にコップを返したアルカが首を傾げる。 「うちの娘にも見習って欲しいと。まったく、あの子も教会の娘なら、ちゃんとそれなりの――」 「まあまあ、ユニまだ11歳でしょ?」 「来月には12になります。いい加減しっかりしてもらわないと困るのです」 「ふうん‥‥」 わざとらしく首を振って呆れたように呟く神父を見つめつつ、アルカは、布団を被ってぬくぬくと丸まって眠っているユニの姿を思い浮かべた。 (‥‥かわいい) どうせなら覗いてみたいな、などと不謹慎なことを考えているアルカの心の中など知る由もない神父は、ぶつぶつと小言を続けている。 「そういえば、アルカの誕生日は‥‥‥‥‥‥おや?」 「あ」 神父の目がゆっくりと細まり、詰問するような瞳になってアルカを襲う。 そうして見つめられた途端、アルカはいたずらを叱られる子供のような顔になって、俯いた。 「アルカ、あなた‥‥」 「あはは‥‥ばれちゃった?」 「ばれちゃった、じゃありませんよ。もう、こんな大事な日に何をやっているのですかあなたは」 自分の娘のことを考えるときと負けず劣らずの様子で神父が溜息をつく。 「いいじゃん、ただ走ってるだけなんだし」 「それはそうですけどね‥‥」 神父は、うな垂れるアルカを見下ろす。 「ええと、あなた、アルカ‥‥アルカ=ロト」 「はい」 しゅん、と顔を俯かせるアルカ。 垂れ下がる尻尾が見えるようだった。 「とにかく、一度お帰りなさい。準備もあるでしょう。もしかしたら、今日この日のあなたを起こすのを、母上が楽しみにしていたかもしれませんよ?」 「平気だよ、20日も前から言われてたもん、毎日」 それはそれで大変だな、と神父は心の中で思う。 「ともあれ。戻りなさい。用事があれば午後にでも聞きますから」 「‥‥神父さま」 申し訳なさそうに上目遣いでこちらを見つめるアルカの表情に、神父はこれを突き返すのは神への反逆になるのではと思えるくらいの罪悪感を覚えた。 「なんですか」 それを理性で押さえつけながら返答する神父に、アルカは更に詰め寄る。 「何か、お話して。ユニの部屋に泊まったときいつもしてくれるような、何か、お話」 「‥‥」 この子はこの子なりに不安に押しつぶされそうなのだろうか。 ふと一度そんなことを思うと、もはや勝てそうになかった。 「では‥‥あなたの洗礼名である、ロト――勇者ロトのお話をしましょうか」 * * * 勇者ロトは、この地に降り立った最初の人間だと言われている。 どこで生まれ、どこから来たのか、そういったことは誰も知らない。伝説にも残っていない。 ただ、この世界はロトが現われる前は悪意渦巻く魔物の統べる世だったということは、誰もが知る伝説の一部だった。 ロトは、精霊ルビスを伴ってこの世界に登場する。 それは、神なる龍が造り上げたこの世界を占領した悪意、魔の者達を滅ぼさんとするためである。 精霊ルビスは、ロトに、勇者としての力を与えた。 人間達が手にすることになる魔法なども、このときに与えられたものだとされている。 ロトはルビスの手助けを得て、やがて世界から魔を駆逐する。 そうして、別世界から人間達を移住させ、この世界を安定させたという。 そして。 あまり有名ではないために知らない者が多いが、勇者ロトは女性だった、という伝説が数多く残っているのも事実である。 それが何故だかは判らない。 しかしながら、ロトは雌雄同体であったなどという伝説までまことしやかに囁かれるような、そんな遠い過去の物語だ。 どんな可能性でさえ嘘ではないと言えるのである。 * * * 「しかし‥‥今の私なら、その伝説も信じられそうだ」 「ロトが女の人だったって?」 「ええ」 神父が頷く。 「どうして?」 「あなたが女性だからですよ、アルカ」 「へ?」 ぽかんとするアルカに、神父は笑いかけた。 「この世を救う英雄は皆女性である、というのは、また不思議なものですが。あなたなら世界を救えますよ、アルカ」 「‥‥世界を」 それはまだ、遠い世界の。 遠い未来の。遥かな旅路の向こうにあるかもしれない結論の1つでしかないとしても。 そういう未来ならあってもいいと、神父は思った。 * * * 「さて、そういうわけです。そろそろ戻った方がよいですよ」 「うん、そうだね」 神父の言葉が、アルカの未来を照らしたのかどうか、それは判らない。 しかしそれでも、一歩を踏み出すその手助けになればいいと、神父は願った。 「そうだ、アルカ」 「なに?」 「旅立つ前には、もう一度ここへ来てくださいね。冒険するときは、教会でお祈りするのがマナーです」 そう言ってウィンクする神父に、アルカは笑って頷いた。 「うん、来るよ。‥‥それじゃ、また後で」 「ええ。――あなたに神のご加護がありますよう」 「ありがと、神父さま」 ぱっ、と笑うその顔は咲き誇る向日葵のように、明るく朗らかだ。 きっと彼女は世界を幸せにできる。 どこか確信めいた気持ちを抱きながら、神父は駆けて行くアルカの背中を見つめていた。
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