鳥籠の虫と虫籠の鳥
初出:ゆりたん 2006.11.3



          *


「いや、もう、気持ちいいなんてもんじゃなかったよ。体が溶けるようだとかいう表現がよくあるけど、あのときはもう溶けてたね。火の中に放り込んだガラス細工みたいにどろどろだった。だからついつい寝過ぎちゃったんだと思う。それこそ、何にも気付かないくらいに」
 後の彼女自身がこう語ったような史上最高の眠りから覚めたのは、レースのカーテン越しに降り注ぐ柔らかな朝日がまぶたに差したためだった。優雅を絵に描いたような真っ白い布団の中でゆっくりと上半身を起こした彼女は、ぼんやりと辺りを見渡し、首を傾げた。
「あれ?」
 とりあえずベッドから出てみる。寒気がして震えた。自分の格好を顧みてみれば、フリルがふんだんに使われた水色のネグリジェ一枚。ショーツは穿いていたが、胸にはネグリジェの下には何もつけていない。寝室の真ん中に立って、視線を彷徨わせる。と、慎ましやかな金色のドアノブを見つけた。何となくぺたぺたと歩み寄って、引いてみた。
 姿見があった。眩しいほどに白い洗面台と銀色に煌めく蛇口。その上に、壁一面かと思うほど大きな鏡が張りつけられていた。そこに映るのは自分の姿。見間違いようもない、どこからどう見ても――――《両部(りょうぶ)五十鈴(いすず)》の姿だった。
「な」
 あまりに特徴的な、流れるような栗色のロングヘア、強気な印象を与える切れ長の瞳、怖いと形容されるくらいに整った目鼻立ち。自己主張の唯一少ない胸以外はほぼ完璧なプロポーション。立ち振る舞いからしてどこの姫君だと思われそうな雰囲気に加えて、毎日黒塗りの車での登下校、豪奢な昼の弁当といった漫画のような付属品もあり、それに噂だと、既に婚約者までいるらしい。卒業後は即結婚、なんて話すら聞かれる。みんなは彼女を、羨望と畏敬、それにほんの少しの憎悪を込めて、こう呼んでいた。




「お……お嬢?」
 《両部五十鈴》は、姿見の前で呆然と立ち尽くし、小さくそう呟いた。




          *


 学校に着いたとき、彼女を待っていたのは周囲から妙に避けられている一人の少女だった。少女は《両部五十鈴》の姿を認めると、燃え盛るような目で睨みつけ、そのままつかつかと歩いてきた。
「え、え……え」
 少女は、起き抜け以来の衝撃を受け二の句が継げない《両部五十鈴》を、その手首を黙って掴み、そのまま廊下を抜け人気のない屋上手前の踊り場まで連れ去った。
 黙ったままお互いを観察する二人。先に口を開いたのは、教室で待っていた方の少女だった。
「あなたもしかして、渡会さん?」
「……じゃあ、お前が両部?」
 少女がこくりと頷く。少年のようにばっさりと切り揃えられた黒髪に、そばかすの散る頬。肌が少し浅黒いのは、運動部の活動に精力を傾けている証だ。《両部五十鈴》よりもほんの数センチかだけ身長の高いこの少女を、他者たちは《渡会(わたらい)伊勢(いせ)》と呼んでいる。
「つまりどういうことだ?」
 普段はきちんとリボンでまとめているはずの長い髪をこぼれるままにして女らしくない言葉を使う《五十鈴》に、《伊勢》は眉をひそめた。
「まさかあなた、家の中でもそんな言葉遣いだったわけではありませんよね」
「え? さあ、どうだったかな。覚えてないよ。つーか、お前だってそうだろ。よしてくれよ、そんなお嬢様みたいな気持ち悪い口調」
 ブレザーのボタンを全部きっちりと閉じ、生徒手帳を具現化したような凛とした姿で目の前に立つ《渡会伊勢》に、《両部五十鈴》は拒否反応に近い気味の悪さを感じた。
「そんなことはいい。とにかく一つだけ確認しておく。お前は、両部五十鈴なんだな。少なくとも、中身は」
 黒髪の少女は頷きもせず、腕を組んで《自分》を見つめた。




「そしてあなたは渡会伊勢さんである、ということですね。見た目は別にして」




          *


「で、これからどうする」
 昼休み。
 十一月にもなれば、中庭で昼食をとる生徒も多くない。一般的な生徒の認識からすればあまりにも不釣り合いな二人が並んで弁当を食べているのを見咎めるものは、だからいなかった。
 両部五十鈴の姿となった渡会伊勢は、家の者に持たされた少女趣味のピンク色の弁当箱を膝の上に広げている。対する渡会伊勢の姿をした両部五十鈴は、不機嫌そのものといった表情で、学食で販売されていたプラスチック入りの弁当をつついている。
「知りません」
「冷たいな。あたしのくせに」
「あなたではありません。私は両部五十鈴です」
 唐揚げを口に含んでみるが、すっかり冷えていた肉は五十鈴に不快な味しか与えず、少しかじっただけで出してしまった。なんてやつだ、と伊勢が呟いた。
「伊勢さん」
「なんだよ」不審そうに返事をしたが、五十鈴は顔色を変えなかった。
「あなた、いつもご家族のお弁当を?」
そう、五十鈴が出来合いの弁当に視線を落としたまま言った。それは質問というよりも確認に近かった。だから毒づくこともできず、伊勢は小さく唸り、肯定する。
「お前んとここそ、いつも作ってくれるのか。あれ、シェフだろ。凄いな」
「私のお弁当は、お弁当を作るためだけに雇っているコックがやってくれるんです」
「専用かよ。とんでもないな」
 エビチリのエビを不作法にも箸に突き刺したが、伊勢はそれを口に放り込むことをためら躊躇った。一度弁当箱に戻し、丁寧に挟み直してから、隣に「おい」と声をかけた。
「なんですか」
 言いかける彼女の唇の間に、黙ってエビを突っ込ん




だ。五十鈴はしばらくそれを噛むことも忘れぼうっとしていたが、やがて思い出したように咀嚼すると、割り箸を置いて空を仰いだ。
 冷たい風が吹く。それでも存外寒さを感じない五十鈴の横で、伊勢が小さく震えた。
「本当……どうなるのかしら」
 五十鈴の独白は、北風に巻かれて飛び去った。




          *


 その日も決まった時間に迎えのため校門前に黒塗りの車を停めていた大国誠は、運転席のサイドガラス越しに目的の人物を見つけたとき、おや、と首を捻った。隣を見知らぬ少女が歩いている。偶然横並びになっただけかと思ったが、見た限りでは会話もしているらしい。珍しいこともあるものだと、口元が緩むのを感じた。
 車を降り、二人が近づいてくるのを待って、「お帰りなさい」と声をかけた。
「ただいま」
 ごく普通に流しかけて、後部座席のドアにかけた手を停止させる。あれ、今返事をしたのは、お嬢さまではないほうの少女ではなかったか?
「あ、えっとその、た、ただいま」
 両部五十鈴が、今更気付いたかのようにそう言い、にこやかに笑った。ますます違和感。お嬢さまが挨拶と共に笑いかけてくることなど、ここ数年なかったことだ。
「あの、この子、友達。連れて行っていい?」
「ええ、構いませんよ」
 まるで外国人のような片言の台詞に疑問を抱きながらも、大国は仕事人間らしく、冷静かつ沈着に、そしてスマートにドアを開け、二人を入れた。
 間もなく、下校中の生徒たちに遠慮するようなゆったりとしたスピードで車は発進し、両部の家に到着するまでの数十分の間、大国は普段とは別物の妙な緊張感に包まれながら安全運転を続けた。
 家の玄関に到着し、大国が手袋をした手で後部座席のドアを開けると、颯爽とまるでお嬢さまのように降りてきたのは、客人のほうだった。本来の主はというと、どこか余所余所しい感じで車を降りる。不思議なこともあるものだと思いつつ、二人を家に入れた大国は、車を駐車場に入れるために再び玄関を出た。




          *


「まあ、お友達? 五十鈴ちゃんが学校のお友達を連れてくるなんて、いったい何年ぶりかしら」
「大げさね」
 大仰に肩を竦めたのは五十鈴だが、母親にとっては初めて会った少女だ。一瞬、ぽかんと思考を停止させてしまった。
「あ、えっと、あた――私、部屋にいるから、邪魔しないでね」
「え、ええ。あとでお紅茶持っていくわね」
「うん、判った。あははは……」
 慌ててフォローする五十鈴――の姿をした伊勢は、ヒトの苦労も知らずに一人でずんずん先に行ってしまう本来のこの家の住人をかろうじて案内する素振りを見せながら、階段を上がりきったところで思わずため息をついた。
「おい」無意識のうちに口調が荒くなる。五十鈴はぶすっとしたまま振り返った。「お前なあ、勝手なことするなよ。一応ここはあたしの家なんだから」
 五十鈴はますますむっとした顔つきになったが、反論することもできずにぷいと顔を背け、ほぼ一日ぶりの自分の部屋に帰り、
「な……」
 絶句した。
「なんだよ、入り口で止まるな」
「あ、あなた……これ、これ、あなたが?」
 五十鈴が指す部屋の中は、まるで台風でも通過したかのような有様だった。もちろん窃盗犯が侵入したわけではなく、下着だの制服だのを探すために伊勢が荒らしまわった結果だ。
「だってしょうがないじゃんか。制服どこにあるか判んなかったんだから」
 五十鈴の顔が赤くなっているのは怒りなのか羞恥心なのか、恐らくその混合だろうことを判っていながら伊勢は飄々とそんなことを言った。実際には制服の探索よりも、見たこともない綺麗な洋服や下着が無数にあることに感動してやってしまった家捜しまがいの行為がもたらした惨状なのだが、そんなこ




とは口が裂けても言えなかった。
「ま、とにかく、適当に座れよ」
「仕切らないでくださいっ。ここは私の部屋なんですから」
 ああもう、とぶつぶつ言いながら散らかった肌着類を拾い集める五十鈴を眺めていた伊勢は、まるで主婦になった自分を見つめているような、形容しがたい複雑な気分になった。正直気味が悪かった。
「悪かったよ。あとであたしがやっとくから」
「いいえ、あなたなんかに私の部屋を荒らされたくはありませ――」
 五十鈴が凍りついた。いぶかしむようにそれを横目で伺った伊勢は、彼女の背中がぷるぷると震えているのに気付いた。
「どうかしたか?」
「あなた……もしかして」
「ん?」
 ばさり、と派手な音を立て、五十鈴が抱えていた衣類が全て床に落ちた。そんなことを微塵も気にするふうもなく、五十鈴が振り返る。その何の感情も篭っていないような冷たい視線に伊勢は戦慄を覚えた。どうしたんだよ、と笑ってみるが、顔が引きつっているのが自分でも判る。
「な、なんだよ」
「あなたまさか、あれをつけているわけではありませんよね」
「あれ?」
 韋駄天のような素早さで五十鈴が伊勢を組み伏せた。瞬く間の出来事に抵抗すらできずに慌てる伊勢を尻目に、五十鈴は突如、自分の姿をした少女のスカートを捲った。
「うわっ」
 脱兎の如く逃走するが、五十鈴の据わった目は伊勢を逃がそうとしない。半ば泣きそうになってふるふると怯える伊勢は、ライオンに睨まれたウサギそのものだった。
「な、な、な」何をする、の一言すら言えない。しかも迫ってくるのは自分の姿だ。伊勢の脳裏に、ドッペルゲンガーの話が思い浮かんだ。




「なんで……」五十鈴が呟く。耳を澄ませてこの不条理展開に理由を求めようとした伊勢を、五十鈴はこ ちらも涙目で睨みつけた。
「なんでそんな下着をっ」
「――へ?」
 自分の下着を思い出してみる。
 今朝、相当な混乱にさいな苛まれつつ、もしかしたらこれは夢かもしれない、夢の中で夢であることに気付いた自分は凄い、なんてことを思いながら部屋をしっちゃかめっちゃかにしていたとき、下着類の入っているクローゼットの一番奥に、まるで見つからぬように隠しているようにしか思えないほど小さくたたまれた上下の下着セットを発見した。今はそれをつけている。恥ずかしいという思いよりも、一度でいいからつけてみたかったという興奮のほうが勝っていたのだ。
「ああ、スケスケの」
「ばかっ、大きな声で言わないでよ」
 顔を真っ赤にして憤慨している少女の外見が自分であることを除けば、これはもしかしたら格好のいじるチャンスかもしれない、と、突然伊勢の頭に天啓が降り注いだ。両部五十鈴というお嬢さまのことをほとんど知らない伊勢だったが、だからこそ、このチャンスを逃す手はなかった。
 となれば話は早い。さっきまでこそ怯えていたが、今となってはこっちが優勢だ。伊勢はぺたんと座り込んでいる五十鈴の前に立つと、思いっきり意地悪い笑みを浮かべながら、ブレザーを脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンを一つずつ外していった。
「な、なにをしてるんですか」
 わけがわからないと顔に書いてある。ますます加虐心をくすぐられる。自分の顔だけど。
「なにって、見てわからないかしら。あなただけに特別、私の全てを見せてあげるのよ」
 わざとらしく五十鈴の口調を真似ながら、伊勢はワイシャツから白い肌を露わにしていく。赤かった五十鈴の顔が、今度は青白く変わっていく。
「や、やめてください、ね、お願い……」
「あら、なぜかしら。せっかく私の白くて綺麗な身体




を見せてあげると言っているのに」
 五十鈴は本気で泣きかけていた。だが伊勢としてもここで止めるわけにはいかない。止められる雰囲気ではなくなってきていた。五十鈴の泣き顔を見て今更ながら後悔の念に苛まれつつ、それでもボタンを最後まで外し、ゆっくりと腕を袖から抜きかけたとき、部屋にノックの音が響いた。
「五十鈴ちゃん、お茶を持ってきたわよ」
「えっ」
 二人とも同時に声を挙げたが、静止の願いをかける前に、母親は娘の部屋のドアを開け、そして絶対零度まで冷え切った。




          *


「ああ、もう、誤解されちゃった……」
「ま、そんなに気にするなよ」
「服を全部脱いで街中を疾走してみましょうか」
「……」
 五十鈴は本気でやりかねない目をしていた。




          *


 それから二人は殊更一緒にいるようになり、傍目には突然仲良くなったように見えたので、妙な噂が流れるほどだった。二人とも、周囲に多少の違和感は与えるものの、それなりに互いの真似を上手にこなしていたためか、人格を疑われるほどのミスを起こすこともなく、ある一点を除いては万事平和に過ごしていた。ある一点というのはつまり、中身が入れ替わってしまったという根本的な事実なのであるが。
 あるとき、今更のようにその原因について追求する機会が生まれた。二人とも、普通に寝て、起きたら相手の姿になっていた。寝ている間に何かがあったのかもしれなかったが、二人とも夢遊病の気は皆無であり、直接的な人格交換の理由はさっぱり不明だった。しかし、共通して認識しているある事柄があった。
「あの日の前の日、ですよね」
 五十鈴が眉をひそめる。あるファーストフード店の一角。あくまでも真剣に、そして真摯に現実を受け止めようとしている五十鈴に対し、伊勢はシェイクのストローを銜えて、カップの中に押したり引いたりしながら、ぼうっと五十鈴を眺めていた。
「もうさ、原因なんてどうでもいいんじゃねえの? どうせ元に戻れっこないんだし」
「いいえ、戻れるはずです。どんな小説でも、入れ替わった人格が元に戻らないことはありません」
 もしかしたら永遠に入れ替わったままの話だってあるかもしれないじゃないか、とは伊勢も言わない。お嬢さまの生活は、裕福で豪華で、悪くはないが息苦しい。それに、それ以上に気になるのが、渡会の家のことだ。結婚を間近に控えた姉にあらゆる家事を押し付けているのではないか、という不安が胸に宿って消えない。この目の前の浅黒い肌のお嬢が、家事を得意とするようには見えない。
「ねえ、伊勢さん」
「なんだよ」
「思い出してみてください、あの日の前の日。私、あ




なたと会った覚えがあるのですが」
「前の日? ……そうだっけ? んー」
 内心面倒だと思いつつも顔に出さないように注意して、五十鈴の言葉どおり考えてみる。そのまま数十秒の沈黙が流れ、記憶が蘇ったのは二人ともほぼ同時だった。唖然とした顔になって、見合わせる。
「まさか……アレ?」
「そう、アレです。アレしか考えられません」
「っても……そんな、あんなことで?」
「あなたと私が直接接触した最後の機会がアレだった以上、アレが原因だと考えるのが妥当です」
「そりゃそうかもしれないけどさ。でも、まさか。だって、アレだよ」
「ええ、アレです」
「アレかよ……」
 伊勢は頭を抱えた。これでは、原因が判ったところでどうしようもない。往年の伝統通り、『元に戻るために入れ替わった原因と同じことを試してみる』という手段も、原因がアレでは活用できない。というか、したくない。伊勢は断固としてその態度を崩さず、五十鈴もまた、伊勢に拒否されているのを無理やりに実行するほど、アレを試してみる価値があるとは思えなかった。
「じゃ、どうする」
「自然に戻るのを待つしかありませんね」
「ったく。振り出しかよ」
 二人して、店内の低い天井を仰いだ。
 アレを再びやるくらいなら二度と戻らないほうがいい、という合意に達した結果だったが、もちろん二人とも、放置しておけばいつか解決するだろうと、そんなことを考えていたことは言うまでもない。




          *


 五十鈴は、両部五十鈴名義の個人口座から現金を引き出し、それを家庭内での食費に充てていた。家賃だの光熱費だのは渡会家の収入で何とかなるが、食事に関しては、伊勢の異様なまでの節約に対する執着心の賜物か、五十鈴では想像できないほどに安上がりになっていた。それでいて毎日、姉を含めた家族四人分の朝食を作り、また当番の日には夕飯も作っていたらしく、五十鈴は当番が回ってくるたびに憂鬱な気分がするのだった。
 幸いにも、元々が貧乏ではない生活だったので、個人的な貯金に余裕があった。それを切り崩し、たまに昼食用の弁当が必要になったときには、自分と同じようにどこかで買えとお金を渡し、夕飯の当番時には自ら弁当屋やコンビニを多用していた。そんなことが一月ほど続いたある日、その日は姉の帰宅が遅かったので小学生の妹と弟との三人での夕飯だったのだが、弟が小さく呟いた。
「俺、弁当飽きた」
 決して安くはない幕の内弁当だった。昼も夜も充分なお金をかけて食事をしているのに、何を贅沢な。五十鈴は怒りを覚えながら、ちくりと胸が痛むのを実感した。
「やめなよ、伊都」
「姉ちゃんのハンバーグが食いたい」
 妹の静止も聞かず、彼は激昂した。
「ハンバーグならそこにあるでしょう」
 伊勢の弟である渡会伊都が選択したのは洋風幕の内弁当だったから、そこにおかずとしてデミグラスハンバーグが入っていたが、彼はそれに手をつけていない。
「違う、俺は姉ちゃんのが食いたいんだ。姉ちゃん、最近おかしいよ。姉ちゃんのハンバーグも野菜炒めも好きだったのに。姉ちゃんがどうやってこの金稼いでるのか知らないけど、俺は金より姉ちゃんのご飯が欲しいんだ。頼むよ姉ちゃん」
 それは押し殺すような小さい声だったが、その慟哭が五十鈴に伝わった。この頃には彼らを他人の弟




妹としてではなく、家族のようなものと捉えるようになっていたから、余計に辛かった。
 翌日、朝一番で伊勢の元へ向かった。伊勢はあくまで両部五十鈴としての形を保とうと、それまで仲良く話していた友人とも喋らなくなった。その友人たちは伊勢の姿をした五十鈴の元へ来るのだから当然といえば当然だったが、一人で机に片肘をついて、ぼんやりと葉の散っていく窓の外の並木を眺めているのを目に留めるにつけ、自分はあんな人間だったのかと、目を背けたくなる衝動に駆られていた。
「あの」
「なんですか」
 伊勢はすっかり両部五十鈴を演じていた。口調もきつめの敬語が定着し、見た目や声色も手伝って、五十鈴はもはや自分が誰で、相手が誰なのか、判らなくなることが多々あった。自分と全く同じ他人と会話している気分になる。
「一つ相談が、あるんだけど」
 五十鈴も殊更敬語を使うまいと努力している。友人たちに咎められることも原因の一つだったが、それ以上に、伊勢が五十鈴であろうとしているのを見ていると、自分だけが苦しいわけではないことを実感するのだ。
「だから、なんですか」
 きちんとリボンで髪を束ね、それどころか時々編んでさえ来る自分の姿に、五十鈴は息を呑むことが多くなっていた。それでも負けずに、正面から見つめる。渡会伊勢ならこうするだろう、と。
「あたしに、料理を教えて」




          *


 自分が誰なのか判別できなくなるのは、伊勢も同じだった。特に、五十鈴に料理を教え始めてからは、自分の得意分野を侵食されている気がして、いい気分はしなかった。とはいえ自分が毎日夕飯を作りに行くわけにはいかないし、五十鈴の話を聞くと弟も妹も姉が夕飯を作ってくれるのを望んでいる節がある。五十鈴は、さすがというべきか、やらせればそれなりに何でもこなせた。あまり教えると抜かされる気がして、適当に流れだけを教え、「あとは自分で本でも読め」と突っぱねることが多くなってきた。両部五十鈴という人格は、自分なんかよりも遥かに前向きのようだと伊勢は認識していた。
 いい加減覚えてしまった帰宅路も、慣れない景色がまだまだ多い。だからこの日は、朝のうちに運転手の大国に迎えを断った。歩いて帰りたい、と言ったのだ。歩けば一時間はかかりますよ、と諭されたが、決意は変わらなかった。やはりそこはお嬢さまで、強気に出れば彼は何も言わなかった。最近、少しだけ命令する立場としての楽しさを感じ始めている。
 ふと気付くと、見慣れた道を歩いていた。ここは渡会の家への道だ。両部に帰る方向ではない。もうすっかり両部五十鈴に慣れたと思ったが、こういうところではボロが出る。気をつけなければ、と思いつつ方向転換しようとしたところで、ふと視線に何かが絡まった。懐かしい人間がいた。何だかんだといちゃもんをつけては弟や妹をいじめる、近所のガキ連中だ。しかも今日は、どうやらその上司格である、伊勢と同い年くらいの連中もいるらしい。高校生にもなって小学生に先輩面か。なんて情けない奴らだ。伊勢は普段から弟たちをいじめる連中を放ってはおかなかったから、もしかしたら奴らは伊勢に復讐にくるかもしれない、とぼんやりと思い、そこで気付いた。
 もしかしたら?
 連中に気付かれないよう、こっそりと近づいてみた。連中が囲む輪の中に、見知った顔が一人、二




人。一人は弟だ。伊都。伊勢は弟にケンカに強くなってほしいとは思っていなかった。だからずっと守っていた。もしかしたら男としてのプライドを傷つけたかもしれないが、そんなプライドはあいつには必要ない、そう考えていた。だから、いじめられるなら守ってやろう。それだけを考えていた。
 だがもう一人。二人目の姿を認めたとき、自分はもはやそういう世界の外にいるのだということを、再認識させられた。
 伊都を守るように、渡会伊勢が立っていた。
 遠くから見るだけでも判る。膝が笑っている。当然だ、あれは伊勢じゃない、五十鈴だ。ケンカとか暴力とかの世界とは全く無関係な、平和で優雅な箱庭に生きていた少女だ。それが今、伊勢の弟を守ろうと必死になっている。
「なにやってるんだよ……」
 声にならない叫びを胸の中だけで猛る。あいつは無関係なのに。いくら姿が伊勢で、誰からも伊勢と呼ばれる人間であっても、あれは伊勢じゃない。それでなくても、ああやって立ち塞がるような人間じゃなかったはずなのに。
 高校生くらいの男の一人が、五十鈴の正面に立った。危ない。逃げろ。お前じゃ無理だ。頼むから逃げてくれ。お前が傷つくのは勘弁なんだ。
 だが、男子高校生がゆっくりと拳を振りかぶるのを、五十鈴は黙って見ていた。伊勢なら抵抗できる。そんな格好だけは強そうな攻撃なんか、簡単にあしらえる。だが、五十鈴には無理だ。むざむざと食らうだけだ。きっと一発殴られただけで気絶するだろう。そうしたら、そのあとはどうなる。あれだって一応は女の身体だ。精力有り余る今時の男子高校生相手に、殴られただけで済むとはとても思えない。それに伊都。弟だってどうなるか。だから頼む、逃げてくれ。
 五十鈴は抵抗する間もなく、男のパンチに吹き飛ばされた。伊都の叫びが空に走る。伊勢は駆け出していた。五十鈴を殴った男の背後に走りより、股間を蹴り上げた。連中が誰何するより早く、伊勢は天にも届く大声で叫んだ。




「てめえらっ!」
 それは少なくともお嬢さまの姿ではなかったが、伊都と五十鈴を助けるには充分すぎるタイミングでの助太刀だった。




          *


 二人が入れ替わって一月半が経ち、世間にはクリスマス直前の浮ついた空気がそこら中に漂っていた。そんな中、伊勢と五十鈴は連れ立って歩いていた。この日相談を持ちかけたのは伊勢のほうだ。どうやら、両部の家でクリスマスに行なわれる催し物の件らしい。五十鈴は何となく当たりをつけたが、とりあえず黙っていることにした。
「それで、相談なんだけれど」
 伊勢は今となっては五十鈴と二人きりでも、敬語こそ口にはしないが完全にお嬢さま然とした口調が板についていた。五十鈴はそれを感じると同時に、自分もまた野蛮な言葉遣いになっているんだろうなと苦笑した。
「なに?」
「実はその、聞いたんだけれど、クリスマスの日にさ……その。なんていうのかな、パーティやるって言うんだよね」
「うん」
 五十鈴は相槌を打って先を促す。
「それで、そのときに、なんか、ダンスをやるらしいって聞いたんだけれど……本当なの?」
「うん」
 先ほどと変わらぬ口調で頷いたので、伊勢は慌てた。なぜ前もって言ってくれなかったのか。五十鈴は涼やかに笑う。だって、黙っていたほうが面白いでしょ。
「……変わったね、五十鈴」
「伊勢もね」
 こうして相手をその中身の名で呼ばなければ、互いが自分の本当の名を忘れてしまいそう。そう提案したのは五十鈴だった。そして伊勢もそれに同調し、事あるごとに二人はこうして、互いの名を呼び合うことに決めていた。
 完全に分化していた口調や仕草は、お互いの以前と今が同居しているせいか、似通ってきている。最近は、クラスメイトなんかにも「なんだか、二人って似てるよね。見た目じゃないんだけど、雰囲気とか」な




どと指摘されるようになっていた。お互いに相手の真似をしつつ自分の行動や言動を省みる機会に恵まれていたので、当然といえば当然の帰結なのかもしれなかった。
「それで、だから」伊勢が言いづらそうに淀みながら、視線をあちこちに彷徨わせている。「だから、ね、お願い」
「何を?」
 五十鈴はしれっとしている。
「ダンスを教えて」
 五十鈴の手をとって、伊勢が言った。




          *


 伊勢が、以前我が家に遊びに来てもらった友人をパーティに誘ってよいかと母に尋ねたところ、二つ返事に了承されたので、五十鈴も両部家主催のクリスマスパーティに参加することができた。勝手知ったる何とやらというやつで、慣れない事態に右往左往する伊勢の手を引き、五十鈴は存分にその知識と能力を発揮した。そんな彼女が驚いたのは、伊勢もまた、両部五十鈴としての人間性を獲得していたことだ。確かにイベントそのものは初体験だから戸惑うことはあるが、それでもきちんとした場面では相応の態度をとることができ、五十鈴が不安がっていたのを杞憂だったとあとで嘯くほどだった。




          *


 宴もたけなわというころになって、伊勢は帰っていく客人たちを見送るため玄関ロビーに立っていた。「ごきげんよう」だの「おやすみなさいませ」だのといった会話が飛び交う中で、ひときわ元気な声がロビーに木霊した。
「おねえちゃん、おやすみっ!」
「またね、おねえちゃん」
 渡会伊都と渡会伊織の兄妹だった。男の子である伊都は蝶ネクタイつきの礼服を窮屈そうに着ていたが、女の子の伊織は空色のドレスを纏うのが嬉しいらしく、くるくると回ってはスカートがふわりと持ち上がるのを楽しんでいた。いえいえ、と声をかける伊勢に、二人の姉が挨拶に来た。
「両部さん、今日はお誘いありがとう。妹だけでなく、私たちまで呼んでくださって、びっくりしたけど楽しかったわ」
「どういたしまして。伊勢――さんは私の部屋にいるのですが、もう少しお借りしてよろしいですか?」
「ええ、構いませんよ」ワインレッドのドレスが抜群に似合う伊勢の姉、伊月。驚くべきことに社交場には慣れているらしく、幼い弟や妹の面倒を見つつ、言い寄る男を適当にあしらう姿を五十鈴も伊勢も目にしていた。彼女はちらと片目を閉じて、笑った。「煮るなり焼くなり、好きにしてくださいな」
 両部の家が呼んだタクシーに乗って帰る三人を見送りながら、伊勢は気付かぬうちに泣いていた。下の二人も上の伊月も遠くに離れてからだから、気付かれなかったはずだ。伊勢はそう思うことにして、零れる涙を拭うこともせずに自室に帰った。




          *


「あ、五十鈴ちゃん、いたいた」
 五十鈴の待っているはずの自室へ向かう伊勢の背中に、両部五十鈴の母親が声をかけた。振り向くと、見知らぬ男と並んで立っている。渡会の姉弟たちを送り出したところだったので、伊勢は背を向けたまま涙を拭き、声でばれないよう一度咳払いをしてから、遮るように母より先に用件を口にした。
「母さん、今日、伊勢を泊めてもいい?」
「ええ、いいわよ。せっかくだものね。伊勢ちゃんのご家族は?」
「帰った。タクシー呼んだから」
 そう、と満足げに頷く母は、五十鈴の口調や態度が、決してお嬢さまとして適切だとは言い切れないものになってしまったことを、人間味を増した結果だと喜んでいた。それまで「お母様」だった呼ばれ方が「母さん」になってしまっても、友達の前でお嬢さまっぽい格好をしたくない思春期の感情なのだろう、と思い込んでいるようだ。そして、それら全てが伊勢との出会いによる変化だと思っている。五十鈴の、突如生まれ変わったかのような変貌に、彼女の父はいい気持ちがしていないようだったが、母は決して咎めようとはしない。むしろ、その変化は五十鈴にとってプラスに働いたと思っているようで、そのきっかけとなった伊勢を、まるで自らの子供のように愛していた。五十鈴自身はどうやらそのことを察しているらしく、皮肉なものね、と笑っていた。
「それで、どうかしたの、母さん」
「あ、そうだったわ。五十鈴ちゃん、この方、覚えている?」
 ようやく自己を主張できるチャンスが回ってきた背の高い青年は、両部の母より一歩前に出て、さわやかに微笑みかけてきた。
「五十鈴ちゃん、久しぶり」
「……?」
「そうよね、覚えているわけもないわよね。なにせ、実際に会うのは八年ぶりなんだもの」
 八年どころか一度も会ったことのない男だったが、




五十鈴にとっても知らなくても支障をきたす相手ではないことを知り、伊勢は内心安堵のため息を漏らした。
「どなたです」
「吉田の晃くんよ」
「吉田?」
「覚えていてくれても嬉しいけど、こうして忘れてしまっているのも、また何となく嬉しいね。二度目の始めましてができるんだから」
 ぞくり、と伊勢の背中に寒気が走った。これまでも、両部五十鈴としての容姿や立場に惹かれて数限りない男たちが近寄ってきたが、これはそのどれとも違う。確信めいた自信のようなものを、伊勢に向けているのだ。思わず身構える伊勢に、肉薄せんばかりに接近してきた彼――吉田晃は、伊勢の両肩に手を置いて、言った。
「始めまして、五十鈴ちゃん。吉田晃です」
「晃くんは、あなたの許婚よ。覚えているでしょ」
 両部五十鈴。絵に描いたようなお嬢さま。黒塗りの車、豪奢な弁当、そして幼い頃からの婚約者。
 伊勢は薄く目を閉じ、すっ、と息を吸い込んだ。青年の身体から漂ってくる甘い柑橘系の香りが、伊勢の肺に満ちる。ぱちっと目を開けると、笑顔も浮かべずに、吉田晃を見上げた。
「ええ、思い出しました。ごきげんよう、晃さん。始めまして。私は、両部五十鈴です」




          *


 部屋に帰ると、開け放たれた洗面所のドア近くに立って、こちらに背を向けている五十鈴の姿があった。あの巨大な鏡を見つめているらしい。近づいてみると、鏡に伊勢が映ったようで、五十鈴は振り向かぬまま笑った。
「どうしたの、伊勢。泣いてる」
「ん……ちょっとね。って、五十鈴こそ泣いてるじゃない。どうしたの?」
「ふふ。さっきね、少しお母様とお話をしたの」
 もちろんそれは両部五十鈴の母のことだ。彼女にとっては、娘と仲良くしてくれている友人ということだから歓迎ムードも濃かったようだ。
「これ、何の涙だと思う?」
 伊勢はシルクの手袋で涙を拭うと、濡れたその掌を見下ろしながら、呟いた。五十鈴は判らない、と小さく答え、でも、と続けた。
「涙に意味なんてあるのかな」
「泣くことには意味があると思う」
 だからきっと、涙にも意味はある。鏡に向かったままはらはらと涙を零す五十鈴の後ろに立ち、伊勢は目の前の身体を抱きしめた。
 そして二人は、互いの名を呼んだ。




          *


 教会の入り口には『吉田・両部家 結婚式式場』と書かれた板が掲げられていた。とはいえ、入り口から式場のあるチャペルまではかなり距離がある。ここから先は車では入れないから、タクシーの運転手に五千円札を投げつけ、釣りを受け取ることもせずに駆け出した。
 どうして今日に限って起きられなかったんだろうと自己嫌悪しかけて、悩みすぎてほぼ完徹だったせいだという結論に辿り着いた。結婚式には不釣り合いなリクルートスーツが走りにくくてたまらない。ドレスのほうがよかったかなと彼女は一瞬だけ後悔して、やめた。そもそもそんなものは持っていないし、大学の入学式に着た晴れ着は借り物だ。そして何より「結婚おめでとう」なんてことを言うために走っているわけではない。走りながらカバンから結婚式の招待状を引っ張り出して、地面に叩き付けたい衝動に耐えた。それは一度家でやった。
 招待状。一枚の葉書。消印がついていない。だがきちんと投函されていた。よりによって前日に寄越したどころか、昨日一日連絡が取れなかった。準備で忙しかったから、と彼女は言うだろう。昨日の段階では家にも式場にもいなかったから会うことができなかった。吉田の家にいるのかもしれないと思ったが、住所など覚えていなかった。
「あの馬鹿――」
 チャペルの天井に吊るされている鐘が、甲高い音を響かせた。




 神父の前に、白いタキシードの男とウェディングドレスの女性が並んで立っている。パイプオルガンが響く荘厳な雰囲気の中で、式は順調に進められていた。
 大学に入ることすら許されずに結婚させられることに不満があるわけではない。昨日のことを未だに後悔していた。そして、もっと早く渡せばよかったのか、渡さないほうがよかったのか、未だに結論が出ていなかった。
「では誓いの言葉を」
 神父が言った。新婦は、ばしゃばしゃとシャッター音があちこちで鳴るのが無粋だな、とぼんやり思った。
「――私は両部五十鈴を生涯の妻とすることを誓います」
 自信満々の笑みをたたえて、彼は神父に向けて誓った。次はこっちの番だ。新婦は一瞬だけ空席に目を向けてから、息を大きく吸い込み、覚悟を決めた。
「待った」
 その場にいた全員が声のした方向に振り向いた。新婦ただ一人だけが、じっと正面を見つめたまま、笑っていた。
「この馬鹿。タイミング良すぎだよ」
 口元がそう呟いたのを耳にしたのは、神父だけだった。
「あれ、伊勢?」「だよね、渡会だ」「なんでこんなときに」「しかも、待った、って?」「てか、何あの格好」「スーツじゃん」
 一気に騒がしくなるチャペルの中で、新婦は不意に涙を堪える自分に気付いた。泣いていることが、判らなかった。
 教会の扉を開け放った彼女は、ウェディングドレスの背中に向けて、精一杯叫んだ。教会を震わせ、天の神に届くくらいの力で、思いっきり高らかに叫んだ。
「一緒に行こう、五十鈴」
「うん」
 伊勢と五十鈴は、同時に駆け出した。








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