SLAUGHTER the second movement unfinished excutor Volume1;Immoral in moral |
覚醒した。 ゆっくりと視界が広がる。ここ半年間世話になっている天井が出迎える。 どうやら着替えもせずにベッドに入ってしまったらしい。着替えが多いわけでもないので、少し後悔した。 ベッドから降りてズボンのベルトを外し、すっかりくしゃくしゃになったシャツのボタンを上から外していく。 冬場とはいえ暖房を二十八度に設定して眠っていたのだから多少汗をかいていた。 腰から落ちて膝の辺りにひっかかっているズボンをそのままずるずると引っ張ってシャワールームに到達。 ボタンを外すことすら面倒になって引きちぎってやりたくなったが、着替えは少ないので諦めた。 一刻も早くシャワーを浴びたい気持ちを抑えてことさらゆっくりシャツとズボンを脱ぐ。 下着はそれこそ引きちぎるようにして放り出し風呂場へ繋がるノブに手をかけて、バスタオルがベランダに干してあるままであることに気付いた。 自分の慌て具合に嘆息して、裸のまま僕はベランダへ出た。 * その日、麻生の家から呼び出しがあったのは昼過ぎだった。 昨夜はずいぶんと激しい宴会が繰り広げられたというのに、麻生風花会の若頭である氏家三平太は一分の遠慮もなしに電話を掛けてきた。 つきあわされた僕に対する配慮はないのかと問うと、それは当主に言ってくださいと済まなそうに聞こえない声で言った。 だから約束の時間に遅れないように着替えを済ませて麻生の家に向かった。 きちんとした場所に出るときはいつも着ている上下黒のスーツは今朝方まで僕の身体と共にあったためシワがついてしまい、仕方なくそれをクリーニングに出した。 僕自身はハイネックのカットソーの上からジャンパーを羽織り下はジーンズという、ヤクザの家に訪問するにはちょっとラフすぎるかもしれない格好で向かったが、特に気にされることはなかった。 玄関まで出迎えてきた氏家は、そのまま僕を「ご当主」の待っている奥の座敷へと案内した。 強面の顔に似合わない笑みを浮かべると、氏家は僕を先導して歩く。 ずるずると左足を擦るようにして歩くのは、昔の傷のせいだろう。 「左足」 「え?」 僕がぼそりと言ったのを、彼は聞き逃さなかったらしい。 律儀に立ち止まって振り向くのを、僕は苦笑して見ながら、続けた。 「痛むのかい?」 「ええ、まあ。普段はどうってことないんですけどね、酒をかっ食らった次の日とかは、特に」 左足の膝を軽く叩くようにすると、かつんと金属的な音が返ってくる。 氏家はそれ以上何も言わずに向き直って歩き出したので、僕も黙って続いた。 時折すれ違う本職のお兄さんたちは、僕を見ると慌てて頭を下げる。まるで自分が暴君になったような気がして、あまり嬉しくなかった。 「お嬢、姐さんをお連れしました」 氏家は、まだ立花旭先生が生きている頃からその呼び方を変えない。僕も変えろとは言わないからそのつもりがないだけなのかもしれなかった。 「どうぞ」 僕とは全然違う、穏やかで色っぽい女らしい声が襖の奥から響く。氏家は僕を振り向くと、黙って頷いた。 仕方ないので僕も頷き返すと、襖を自分で開いた。 「いらっしゃい、ゆきちゃん」 藤色で無地の地味な和服に身を包んだ麻生家現当主こと麻生朋香は、そう言ってゆったりと微笑んだ。 「ごめんね、急に呼び出して」 「いえ」 全くだと言いたい気持ちを抑えて適当に相槌を打つ。彼女に逆らうわけにはいかなかった。 「昨日は楽しめた?」 「ええ、まあ。半分くらい記憶がないですが」 「ゆきちゃん、酒乱だからね」 朋香さんは袖を口元に当てて、優雅に笑った。 これが数年前まで、探偵事務所で紅一点でありながら一番の暴れ馬だった女の姿なのだろうか。 「それで、今日の用件は」 「うん、実はね、ちょっとまずいことになってて」 困ったという言葉を顔で表現するとこんなふうになるという具体例を示してくれているかのようだった。 彼女がこうした顔をすると、周りにいる子分達は彼女が何も言わずとも勝手に動き出して色々と始末をつけてくれるというから、ヤクザの世界は恐ろしかった。 「昨日のうちから連絡は入ってたんだけどね、せっかくの宴会をおじゃんにしちゃったら、もったいないから黙ってたの」 照れるようにして笑う彼女の顔は昔のままだった。 違うのは環境だ。その和服も、この座敷も、この屋敷そのものも。 「関東大一統連合」 彼女の言葉からその名前が漏れた途端、びくりと僕の背が震えたのが判った。 頭で理解するよりも先に身体が反応した。 「――そう、私と、ゆきちゃんの仇」 3年前。2005年12月28日。 ずいぶんと久しぶりに僕達の前に姿を現した我らが先生こと立花旭は、僕に一丁の拳銃を渡し、再び姿を消した。 そして翌年1月2日。 朋香さんのお父さんと先生は、共に死体で発見された。 東京湾の港だった。 ドラム缶に入れられていて、首から下がコンクリートで埋められていた。 朋香さんのお父さん――当時の麻生家当主である麻生公康氏は、両耳を落とされて舌を釘で打たれたあげく、両目にアイスピックを突っ込まれていた。 そして立花旭は。髪の毛を一本一本抜かれそれを人工皮膚に貼り付けられて頭に乗せられた自分のカツラを被っていて、鼻がそがれていて右の眼球を口に入れられていた。 それから数日後に立花陽はいなくなってしまうわけだが、彼女が父親のそんな姿を見ないで済んだことだけが、一つの安心だった。それほどまでにあれは、強烈だった。 二人のドラム缶に書かれていた、【関東大一統連合】の文字。 まるで暴走族の名前のようなそれは、暴走族などより数段タチの悪いヤクザ組織のものだった。 1月の中旬からほぼひと月の間、麻生家と大一統連合は戦争を行った。 麻生の家や立花旭に恩のある者たちが日本中から集まって協力したこともあって、大一統連合は敗北し、敗走した。 とはいえ麻生の家も無傷ではなくずいぶんと人間を失ったようだったし、氏家の左足もそのときに吹っ飛んでしまっていた。 そのほとんどは報復として殺されたが、幹部を初めとするわずかの生き残りは逃亡し、姿をくらましていた。 僕が半年前に日本に戻ってきたのは、大一統連合の残党がこの水鏡市に舞い戻ってきつつあるという朋香さんの連絡を受けたからだった。 そして半年間、連中と小規模の争いを続けている。 「その幹部の一人、秋瀬守行がここに戻ってきてるらしいの」 「秋瀬守行‥‥」 僕には聞いたことがない名前だったが、朋香さんが連中の幹部だと言うならば間違いではないはずだった。 「それとは直接関係ないんだけど」 僕の思案顔を気にしたのか、朋香さんはふと表情を緩めて言った。 「今回ゆきちゃんに頼みたいのは、人捜しなの」 「‥‥人捜し?」 「そう。探偵っぽくていいでしょ。人捜しっていうより、人攫いなんだけどね」 にこにこと人懐っこそうな笑顔を浮かべる。彼女は昔からこうだった。天真爛漫で天衣無縫。今ではそれに、それなりの思慮とバックボーンがついている。最強だ。 「秋瀬とかいう男は?」 「その犯人」 断定口調で朋香さんが言った。 「判ってるんだったらどうにでもできるんじゃないんですか?」 「甘いな、ゆきちゃん」 朋香さんは急に真剣な表情になった。 「連中を警察に引き渡したら、長くても十五年で出てくるんだよ?」 そんなの許せないでしょ、と深く笑む朋香さんの顔は、少なくとも三年前までは見たことのない類の笑顔だった。 「仇は、自分の手で討ちたいじゃない」 「‥‥」 恐ろしいことを考えるとは思わなかった。少なくとも僕自身も、その考えに賛成だった。 「かといって、勝手に動くといろいろ問題もあるしね」 朋香さんは、懐から黒い手帳を一冊取り出した。 「だから、これを使って」 「これは‥‥」 「警察手帳」 「は?」 「ゆきちゃん、今日から警察官ね」 突拍子もないことを言って、朋香さんはにこにこと笑っている。 「‥‥あの?」 「水鏡の警察署に行けば、色々と協力してくれるから」 ヤクザと警察がつながっているという話は聞いたことし僕自身も知っていたからそれについては驚きはしなかった。 ただ、彼女が僕にそれを頼む理由が判らなかった。かつての失敗を取り戻してこいという無言の圧力というわけでもあるまい。 「え、あの‥‥」 「それから、刑事ってワンマンな行動はしちゃいけないらしくって。だから、捜査一課の刑事さんたちに協力を頼んだから」 「‥‥」 「誰か一人、パートナーとしてつけてくれるはず。ゆきちゃんは女の子だから、パートナーもできたら女性でお願いしますって言ってあるから平気だよ」 「‥‥」 自分のあずかり知らぬところで自分の運命が決められていくことの恐怖は慣れたつもりだったが、これは別の意味での恐ろしさにつながっていると思った。 「――まだ不安な顔してるね」 朋香さんは前のめりになるように顔を突き出して、僕を覗き込むように見た。 思わずのけぞると、朋香さんは小さく妖艶に微笑んだ。 「敵の敵は味方、っていうでしょ。今回は共同作戦なの。一応表面としては、捕まえたら警察に突き出すってことになってるけど‥‥相手も武装してるだろうから、間違って殺しちゃうことはあるかもしれないよね」 鼻先がぶつかり合うくらいまで近くに寄ってきた朋香さんが、甘い吐息を僕にぶつけながら言った。 思いがけず喉が鳴ってしまい、気まずい思いをした。 「――つまり、僕は警察と協力して、秋瀬の犯罪を突き止めて被害者を救出し、警察の目の届かないところで秋瀬を」 「ストップ」 指を一本、僕の口元に当ててきた。 ひんやりと冷たい朋香さんの指先が、僕の唇を撫でるように動いた。 「それ以上は、言わない」 僕は黙って頷いた。口にしなかったところで実行することに支障が出るわけではなかった。 「とりあえず、今日のところはパートナーと顔合わせをしてくるといいよ。仕事中の寝泊りは、水鏡オリエントホテルのスイートを用意してあるから。相部屋だけど」 朋香さんが、懐から長方形の紙切れを取り出した。「水鏡オリエントホテル」と、行書体と英語で書かれていた。 「この裏のコードを見せれば、案内してくれるから」 水鏡市を事実上牛耳っている彼女の言うことなら間違いはないはずだったので、僕はそれを手にとってジーパンのポケットにしまった。 「もうひとつ。明日の午前九時に、被害者のご家族と面会の席を用意してるから、間違いなく行ってね。場所は教えるけど、ウチの誰かに車を出させるから、心配はいらないよ」 「準備万端なんですね」 少しだけ皮肉交じりに言ったつもりだったが、彼女はさして気にする様子もなく、小首を傾げた。 「秋瀬守行は、連中の組織の人身売買部門の幹部という噂なの。それがどういう意味だか、判るでしょ?」 「ええ」僕は頷いた。「つまり、陽ちゃんの行方を知っている可能性がある、ということですよね」 だからこそ、警察などに身柄を引き渡してはいけない。 なんとしても麻生の息がかかったこの町で捕まえ、麻生の力で拷問しなければならない。 麻生家風花会が、自分たちのボスを猟奇殺人の被害者に仕立て上げた犯人を許すはずがないのは当然として、立花旭にも多大なる恩があるはずの彼らが考えていることは、僕が考えていることとほとんど同じだと言っていいはずだった。 僕が立花旭の仇を討つのも当然だったし、立花陽の行方を捜すのも当然だったし、麻生家の尖兵として諜報活動をするのも当然だった。これが、今僕が目の当たりにしている現実であり、世界そのものだった。 いったい、どうして僕はこんなところに来てしまったのだろうか。 あのときまで、あんなに幸せだった日常が、どうしてこうも簡単に途切れてしまい、二度と手に入らないものと化してしまったのだろうか。 考えても解決するはずのない類の問いに脳内を支配されている僕の耳に、小さな雨音が届いた。 顔を上げると、朋香さんも同じことに気づいたようで、障子の向こうの庭園に、視線を投げていた。 「雨か」 十二月の雨は、少ない熱を空間から容赦なく奪っていった。 体が震えるのを感じて、僕は立ち上がった。 これから、警察署に行かなければならない。 「行ってらっしゃい」 火打石でも打ってくれるのかと思ったが、朋香さんはその場に正座したまま、上目遣いに僕を見送った。 * K県警水鏡警察署は、何の変哲もないごく普通の警察署のはずだった。 半年前に暴力団同士の抗争に巻き込まれて一人の刑事が殉職して警部補が一人減り警視が一人増えた事件があっただけで、あの事件も既に過去のこととなっていた。 だから、僕が入り口の自動ドアをくぐっても見張りの警官や中の受付の人間は、僕の顔を覚えてはいないようだった。 「どんなご用件でしょうか」 婦人警官が愛想良く訪ねてくる。僕は少しだけからかいたい気分になったが、素直に用件を述べることにした。 「組織犯罪対策課の大沼警部に」 「お名前は?」 「――立花」 冗談でも麻生の名を出すのは危険だと思ったので、僕は自分の名前を名乗った。 警察署は市役所よりも少し待遇がいいだけのお役所仕事だとしか考えていなそうなこの若い婦人警官は、水鏡が麻生家というたった一つの暴力団組織によって牛耳られていることは知っていても、恐らくその麻生と警察が繋がっていることまでは看破できそうには見えなかった。 「あっ」 背中のほうで女の声がしたかと思うと、騒々しい足音がこちらに近づいてきて、僕の隣に野暮ったいコートをまとった女が現れた。彼女は僕の相手をしている受付嬢ではないもう一人の婦人警官に、何事かを焦った様子でまくし立てた。 「い、伊豆見先輩はもう帰ってます?」 「伊豆見‥‥警部補ですか? ええ、つい先ほど‥‥」 そちらに目を向けてみる。 警察署に駆け込んできたらしいこの女は、受付の警官に挨拶もなしに話しかけたところを見ると、どうやら警官の同業のようだった。 そのくすんだ灰色の長いコートは、女性らしい可愛らしさとかファッション性がほぼ皆無で、まるでテレビドラマに登場する時代遅れの熱血刑事が着るコートそのものだった。 黒い髪の毛は短く、女というより少年らしいアクティブさを表していた。気が強そうだが慣れると甘えてくる気高い猫のような印象を抱かせる。 「しまったなあ、また怒られる‥‥」 「またより道してたんですか?」 「違うよ」 猫のような少女のような少年のような女は大きく首を振った。猫が水気を飛ばす姿に見えた。もはや猫にしか見えなかった。 「聞き込みしてたら伊勢屋のおばあちゃんに捕まっちゃって――あ、ごめん、行くね!」 騒々しい嵐は、婦人警官に「じゃあね」と小さく手を振って、受付の後方にある階段を一段飛ばしで登っていった。 「立花さま」 「――あ、なに?」 はっとして視線を戻すと、大企業の受付嬢に教えを請うたのかと疑うほどにスマートな仕草で、僕の相手をしてくれていた婦人警官が右手奥の階段を指した。 「四階の、組織犯罪対策課三係の分室で大沼警部がお待ちです」 「ありがとう」 僕は小さく顎を引いて頷いてみせると、階段に向かって歩き出した。 階段は高さがそうないわりに横に広く、丹波哲郎主演の昔の刑事ドラマのメンバー登場シーンが室内でできそうだった。 踊り場まで登ると、左右に今度は関取が二人並んで歩くことができないくらいの幅の階段が続いている。 そこを上がると二階のロビーだった。さらに続けて階段を登り続けて、四階まで辿り着く。 階段はここで終わっており、そこは喫煙室を兼ねた休憩スペースになっていた。 右手には、天井から「道場」と書かれたプラスチックの板が下がっていて、奥に階段らしきものが見えた。 柔道や剣道を学ぶには、また階段を登らねばならないらしかった。 僕はそちらには用はないので、左側に折れる。 何度か来たことがあったので、三係の分室が一番奥にあることは知っていた。 廊下の右側は水鏡の町を見下ろす大きな一枚鏡が並んでいた。 左には、重厚な扉の上に「講堂」と書かれたプレートが張り付いている。 有事の際にはここに本庁から偉い肩書きの連中が餌を巻かれた鳩のようにわらわらとやってきて、この警察署に所属するいわゆる所轄の刑事たちは、「また本庁の奴らだよ」などと愚痴を垂れつつ「所轄は聞き込みでもしていろ」と命令され苦虫を噛み潰したような顔でこの廊下を歩くのだろうかなどと考えている間に、三係の前にやってきていた。 押し戸になっている扉の丸いノブに手をかけて、逡巡した。 半年前の光景が、頭をよぎる。 織口恭治警部補――今は警視だ、本人は一度もその名で呼ばれなかったが――は、僕が近年会った中で最も尊敬できる男性の一人だ。 そもそも互いに名を交換するくらい親交を持った男性が指折って数えられるほどしかいないが、その中でも彼は、僕の先生、立花旭と同じくらいには尊敬できる人間だった。 警察という組織は嫌っても、警察官という人種は嫌っても、織口恭治という一人の刑事だけは、嫌いになれなかった。 自分が殺した負い目もあるのかもしれなかったが、それでも彼を尊敬していたのは事実だったし、忘れることなどできなかった。 思えば、この水鏡警察署で、彼だけが僕の味方だった。 上層部が暴力団と繋がりがあることに反感を持つ署員は少なくなかった。織口警部補はその筆頭だった。 麻生の手先としてやってきた僕に対してその反感が向けられることは、だから当然だったし必然だった。 織口警部補だけが、その反感と僕への態度をきっちり分けるべきだとわきまえてくれていた。 当時から三係の係長だった大沼警部も理解はあったようだったが、それはどちらかというと事なかれ主義者としての立場だった。 だが彼だけは違った。織口警部補は、麻生への反感をしっかりと僕に伝えたうえで、僕に言ったのだ。 「俺はあんたみたいな人間が好きだ。かわいそうだとも思うが同情はしない。刑事として私怨に付き合うこともしない。だが、こうして共にあるのも何かの縁だ。出来る限りの協力はするよ」 二年半ぶりに戻ってきた日本で、朋香さん以来始めて出会った好意的な他者だった。 僕は大きく深呼吸をして、ノブを回した。 もう後には引けない。半年前彼を殺してしまってから、僕の歩くべき道は決まっていた。 どうしても逃げられないのならば、胸を張って自信満々に道の真ん中を歩くしかない。幸い、僕には道を遮る敵を葬るための愛すべき武器があるのだから。 「失礼します」 三係の狭い部屋に響く大声で、僕はそう口を開いた。 「立花くん。いらっしゃい」 全部で五人いる三係のメンバーの中で、一人だけ驚いた表情も見せずに僕を見つめていた初老の男性が、無表情のままそう僕を出迎えた。一番奥の「係長」と書かれた札が置いてある机で。 「久しぶりだね。半年ぶりかな?」 「正確には四ヶ月ぶりです」 織口警部補の四十九日に出席して、彼の奥さんから水の入った花瓶ごと菊の花束を投げつけられたことを思い出す。 「そうか。‥‥こっちに」 大沼警部の促す先に、向かい合わせのソファーとガラスのテーブルがあった。 僕はそちらに歩き出しつつ、周囲をうかがう。 半年前と同じだった。半年しか経っていないのだから、変わらないのが当然なのかもしれなかった。 ただ、織口恭治だけがいなかった。 ふと視線の端に、見慣れぬような見覚えのあるような何かが映ったが、そのままソファーに腰掛けた。 「話は聞いてるよ」 「署長からですか? それとも麻生の家から?」 「‥‥どちらともからだ」 どうやら話は間違いないらしかった。既に上では、協約が済んでいる。 「事件のあらましなどは知っているかな」 「いえ。ここで資料をもらうように言われています」 「そうだったな」 大沼警部は了承したのか唸っただけなのか判らない声をあげて、ジャケットの胸ポケットからセーラムを取り出した。 相変わらずのヘビースモーカーらしかった。僕が眉をひそめるのも、彼は気にしない。精一杯の抵抗なのかもしれないと思った。 「ここで見ていくかね」 「いえ。ホテルを借りたのでそこでゆっくり」 一刻も早くこんな場所からは逃げ出したかった。 半年前と変わらぬ匂いがするこの部屋。考えないようにしようとすればするほど、織口恭治の姿が浮かんでくる。 「そうか」 「仕事上の相方を用意してくれると聞いたので来ました」 「‥‥そうだったか」 年齢はまだ六十には達してないだろうに、彼は半年前よりずいぶんとたくさんの皺に囲まれてしまっていた。 顔をしかめたのかどうかすら判らない。これはこれで有用なのかもしれない。僕はまかり間違ってもこんな顔になりたくないが。 「しかし‥‥この事件は、既に本庁と科捜研が動いている。人質を取った悪質な犯罪だ」 「身代金でも要求されているんですか」 彼は答えなかった。 仕事の都合上ニュースはこまめにチェックしているつもりだったが、そのような情報は耳に入っていなかった。あるいは警察が報道規制を敷いているのかもしれない。 「‥‥細かいことはあとで確認するんじゃなかったのか?」 大沼警部の声が、少しの嘲笑の混じった響きになったのを聞き逃すことはできなかった。 僕はソファーから立ち上がり、僕の膝の高さにある彼の頭を蹴り飛ばしたくなる誘惑を必死で食い止めた。 「協力する気がないのであれば構いません。どちらにせよ敵は判っています。警察が協力しないのであれば我々が独自に行動するまでです。三年前のように」 大沼警部が驚愕の表情で僕を見上げた。 僕はそれを無視して彼の横を通り、自分が開け放った入り口のドアに向かって歩き出す。 三年前、この水鏡市でどんな事件が起こったのか、知らない者はいない。 あれを事件と呼ぶことすら憚られる。あれは言うなれば、戦争だった。戦争でしかなかった。 「‥‥待て、立花くん」 後ろで大沼警部が立ち上がる音がして、僕は足を止めた。 半身だけ振り向く。視線に、さきほどと同じ知ったような知らないような顔が映る。 それがずいぶん小柄で子供っぽい顔をしているなと思った瞬間、先ほどロビーでかち合った女であることに思い至った。 彼女はここのメンバーだったのか。あるいはただの雑用係かもしれない。 しかしあのコートは、よほどのミーハーでない限り私服での活動が許されている警官しか着ないだろう。 「‥‥きみのパートナーは、彼女だ」 大沼警部の指が、その気高い猫のような女を指した。 指された先にいた女が、ぽかんとした顔をして立ち尽くしている。猫だましを食らった猫のようだと思った。 「自己紹介なさい」 「係長、どうしてあたしが‥‥」 「いいから」 「‥‥」 議論の余地なしと判断したのか、女は憮然とした顔で僕のほうに歩み寄ってきて、手を伸ばせば届きそうなギリギリの距離で立ち止まった。 胸に、「M.P.D.」の文字が入ったプレートをつけている。気づかなかったが、コートの中はスーツ姿らしかった。 「あなた、名前は?」 明らかに僕よりも年下なはずの彼女は、いきなりそう言った。 僕は怒りも驚きも感じず、思わず苦笑した。 彼女がいぶかしむような顔でこちらを見るのへ、僕は彼女にまっすぐ向き直って、名を告げた。 「立花ゆきという」 「‥‥」 なんとなく彼女が僕を見る視線が、憎悪に満ちているように思えるのは偶然だろうか。 「そう、あなたが。やっぱり」 気高い猫は、声も凛とした輝かしいものだった。 場違いにも僕はそれに聞き惚れていた。彼女は続けて言う。 「係長。今回ばかりは感謝しますよ。雑踏巡りの聞き込み調査もいいけど、こうこなくっちゃね、刑事の仕事は」 言い方があまりにドラマじみていたので、思わず噴出しそうになってしまった。 「なによ」 「いや、別に」 彼女はなおも僕を睨みつけてくる。距離があるからいいものの、もしも目の前まで近づけば、彼女は僕を見上げなければならなくなるだろう。 「あたしは、ヤクザに協力する気なんかない。でも仕事なら仕方ない。スリリングそうだし」 「そうですか」 僕は肩をすくめた。こういう熱血めいたキャラクターが、僕はインテリぶったキャラクターの次に苦手だ。 「あたしは織口美波。水鏡警察署組織犯罪対策課三係。役職は警部補」 「‥‥おりぐち、みなみ‥‥?」 それは、僕を二重にも三重にも驚かせるには、充分すぎる自己紹介だった。 |
to be continued |