risoluto



 もう少しがんばってみよう、と思った。



◆uno
 その人の印象を一言で表すならば、「変わった人」に尽きる。「変な人」と言い換えてもいい。どっちにしろ、あの人のことを端的に表している言葉だと思う。
 その人、つまり私が中学二年の時から二年間お世話になったピアノの先生は、不思議というか奇妙というかとにかく変わった人だった。
 世間一般で彼女のような人がどのように評価されるのか私は判らないけれど、先生として講師としては明らかにおかしい人だった。
 ――というのが、私の第一印象である。



◆due
 おかしいところ、そのいち。
 私が帰ると、そこに居た。
 一応声楽部に所属しているとはいえ中学生の私よりも大学生である彼女の方が帰宅が早いというのがそもそもおかしい。そしてそれは、彼女と私が初めて会った日から既に始まっていた。
 その日「新しいピアノの先生が来るから、寄り道しないで早く帰ってくること」を母親にくどくどと言われ、そのために私は友人から誘われた放課後の新作スイーツ試食会を断らなければならなかった。女子中高生にひそかな人気のある喫茶店デュオの新作スイーツをメニューに載る前に食べることができるという感動的なまでに素晴らしい名誉は、私たち声楽部の特権だというのに。結果として食べ損ねたことはともかく、それが結構なアタリであったということが納得いかない。
 話が反れた。ともあれ私はそういうわけで、たぶん部活のない一年生よりも早く、もしかしたらこの日一番に学校を出た。走る必要もないだろうから普通に歩いて帰ったら、見知らぬ女性がリビングのソファで居心地悪そうに笑っていたのだ。
「遅いじゃない」母が私を見つけるなり言った。無茶な話だ。私がふてくされていると、先ほどから視野の端にいた見知らぬ彼女こと後の我が先生が慌てた様子で立ち上がると、母に向かって弁解した。
「あの、お母さん、早く来すぎたわたしが悪いんですから、そんなに怒らないでください‥‥」
 全くもってその通りなので、全くもってその通りであると言いたげに彼女を見つめると、向こうは困ったように苦笑した。そしてわざわざ私の正面まで来て、ちょこんと小首を傾げるふうにして今度は非の打ち所のない笑顔を浮かべた。
「ごきげんよう、始めまして。今日からピアノの講師を勤めさせていただきます、高遠さやかといいます。どうぞよろしくお願いしますね」
 その笑顔とか仕草とかいかにもお嬢様っぽい名前とか他にも色々とツッコみたいところはあったのに、私の口から漏れた言葉は一言。
「‥‥ごきげんよう?」
 それが、彼女と私の出会いである。



◆tre
 おかしいこと、そのに。
 いわゆる、天然だった。
 絶滅危惧種として国家的に保護されるべき存在なのではと思えるほどに彼女は天然だった。もっとはっきり言ってしまえば、年齢に見合わぬドジなのである。正直、これには呆れた。
 ドジッ娘というのは得てして優遇されるものであるが、ほとんど初対面の女性がいくら緊張しているとはいっても開け放たれていると勘違いしたガラス戸に頭突きをかますのを見たときには、笑いを通り越して不安になりそれすら通り越して、呆然としてしまったものだ。
 ドジであることが長所になったり魅力になったりするかどうかというのはもちろん人によって異なる感性により評価されるのだろうけれど、ただ私としては、彼女がどこまでも素の状態でそんなマヌケ醜態を晒し続けていることに憐憫の情を抱いたことを覚えている。



◆quattro
 とはいえ、彼女はさすが音大というべきか、音楽に関してはそれなりの才能を持っているようだった。もちろんラフマニノフが弾けるとか目隠ししてピアノができるとかそんなイカれた超能力を持っているわけではなくて、人間が人間として人間らしく振舞える範囲としての才能であったけれど、その観点からすればかなり人間の上位にあるのではないかと思える実力であったことは確かだ。
 そしてまた、彼女は私にピアノを教えているくせに専攻は声楽だという。ちなみに、私は声楽部に属しているがそれはピアノが弾きたいからであり、私の伴奏で歌を歌う子たちを見るのが単純に好きだからである。だから結果として、声楽専門の人が声楽部の部員にピアノを教えるという、何とも理解しがたい状況が生まれた。
 更についでに言うと、彼女は声がとても綺麗だ。具体的に説明することなんか不可能でそれはコウモリの超音波を具体的に説明しろと言われるのと同じくらいに無理だ。これはもう聴いてもらうしかない。能書きは要らない。聴けば判る。
 あるとき、彼女に歌ってもらったことがあった。何がいいと訊かれ何でもいいと答えると、ラテン語系統かどうかも判らない謎の言語でいきなり歌いだした。当然の如くアカペラでありながらその歌声は風に乗り天に舞い上がり梅雨の曇天を二十年間快晴にし続けるようなパワーがあった。そして気付けば私は泣いていた。彼女が歌声を止めても私の涙は止まらず、私は彼女にお礼が言いたくても言えないのに彼女の方がありがとうと私に言った。その理由が全く判らなかったけれど私はようやくありがとうと返すことができた。



◆cinque
 こんなところが、彼女と私の関係である。つまるところ音楽の先生と生徒であり、ピアノの家庭教師であってそれ以上でも以下でもない。でも私は何故かそれまで以上にピアノに打ち込んだし彼女の前では微妙にわざと失敗してみたりして彼女が私の後ろに立ってまるで連弾するみたいに一緒に鍵盤を叩くのが嬉しくてたまらなかった。更に私は夜中にピアノを弾いた。近所迷惑であることは理解していたけれど私は自分が特別ヘタクソであるとは思っていなかったし、それに何より彼女がいないところで上手になって彼女をびっくりさせたかった。その割に彼女の前ではわざと失敗してみせたりするのだから謎だ。



◆sei
 その年の文化祭に私は彼女を招待した。うちの学校は特に入場に厳しいわけでもないからチケットとかなくても入場することはできて、だから私は彼女にパンフレットを渡し声楽部の発表を見に来てほしいと遠慮がちに頼んだ。彼女は絶対行くと笑顔で応じてくれて私も嬉しかったけど彼女も嬉しそうに見えた。
 その年の文化祭は私の記憶の中で最も充実して嬉しくて楽しい文化祭だった。彼女が私の演奏を見てくれたこともそうだけど一緒に文化祭を回ることができたことは思いがけないことだったとはいえとても嬉しかった。
 文化祭が終わった後後夜祭を抜け出して私は彼女と一緒に始めてデュオに入った。ここの店主さんであるところの雅さんは実は我が声楽部のいわゆるOGであり、時々技術指導をしてくれたりして仲が良かった。ここが声楽部員の溜まり場と化しているのもそれが一つの理由だったりする。もちろん、スイーツお試し企画が催されたりするのも同じ理由だ。
 だから私は私の演奏を褒めてくれてでも技術的に甘かったところを的確に突かれたりしてむしろ物凄く嬉しくなって新作のスイーツを食べることができたこともとても嬉しくて、先生と雅さんが同じ音大の先輩と後輩だったということなんて全く気付かなかった。二人が一時期、恋人といわれる関係にあったことも。



◆sette
 それを知ってから私はデュオに寄り付かなくなったし先生とも必要以上に会話をしたりこれまでみたいに一緒に外に遊びに行ったりしなくなった。先生が何かを言ってくれることをきっと期待していたのにあの人は全くそんな素振りを見せなくて、だから結局その年のクリスマスを前にして私は先生に切り出した。
「先生」「なに?」「雅さんと恋人だったの?」「‥‥うん」「いつ?」「あの人が学生だった頃」あの人なんて呼ばないで虫唾が走る「どれくらい?」「卒業するまでだから、二年くらい」二年? 二年ってことは七百三十日で一万七千五百二十時間で六千三百七万二千秒ってことだ。そんなに長い間雅さんと一緒にいたんだ恋人だったんだ仲が良かったんだ「雅さんと、したの?」「何を?」「‥‥恋人がすること」「――うん」このときには私の心はもう決まっていて後には引けないことを自分ではっきりと認識していた「じゃあ、私にもして」
こうして私は先生と肉体関係を結んだ。



◆otto
 それからの私は先生を独占して独占して独占しつくした。堪能して堪能して堪能しつくした。ピアノのレッスン中にも休憩中にもホテルでも外でも学校でもしたしあるときには発表会の会場のトイレでもした。私はあの人を求めたしあの人も私を求めていたのだと思った。それが幻想だと気付くこともせずに。
 そして私は彼女と彼女の身体にのめりこみピアノの練習なんかそっちのけになって力は落ちた。でも普通の人にはそんな力の良し悪しなんか判らないだろうし実際バレなかった。母にもバレなかった。
 やがて冬が来て春が来て中学三年と大学四年になっても私たちは関係を続けた。母は先生の進路を慮ってレッスンを遠慮するように言ったけど私は認めなかったし彼女も肯定しなかった。
 そうして私たちはずっと二人で居続けた。



◆nove
 その年の文化祭。
彼女は、来なかった。



◆dieci
 彼女がオーストリアに留学するという話を聞いたのは母の口からであり彼女の口からではなかった。だから私は知らないふりをして先生といつものように行為に至って彼女を焦らしながらそのことを問うた。詰問したと言っていい。すると彼女は、それはもう二年前から決めていたことだと言った。私はどうしたらいいのかと訊くと女子高生として生きればいいと彼女は言った。音楽が好きならやればいいしそうじゃないなら止めればいい。自分が音楽が好きだから続けるのだと言った。



◆undici
 そして彼女は卒業を待たず九月を目処に発った。



◆dodici
 この手記は私が過去を思い起こす為に書いているのでありそれ以上の意味はない。私が今音大に通っているのは音楽が好きだからでありそれ以上の意味はない。でも私はきっと本心を隠している。
 ああ、もうこんな時間だ。行かなくては。
 今日からバイトが始まる。
 中学二年の女の子に、ピアノを教えるのだ。