私と彼女とは、ほとんど同時期に妹ができた。 正確には、私には妹だけれど、彼女にはそういうわけじゃないらしい。 公式には、正式には、おおやけには‥‥。 どんな言葉を重ねても、彼女とあの少女がとても仲が良さそうのは傍目にもわかる。 だからお互いを祝福したし、お互いがどうして妹を作ったのかも、だいたい想像できる。 そして、理解できているのにもかかわらず、なんとなく疎遠になってしまうのもまた。 私たちといえば、私たちな関係なんだろうけれど。 ここ一週間、ずっと悩んでいる。 その間、彼女とは、二、三ほど事務的な会話を交わしたのみ。 しかも二人きりというわけではなくて、どちらともにも連れが、それも妹がそばにいた。 もしかしたら、彼女たちも、私たちに関する違和を感じていたのかもしれなかったけれど、今はもうわからない。 私はどうしたらいいのか。どうすることができるのか。何もかもがわからない。 だから私は、彼女に相談するべく、薔薇の館へと向かう。 同じクラスの彼女は、私より早く教室を出ていたから、ここにいるんだろうと思う。 もしかしたらいないかもしれないけれど、そのときはそのときだ。 去年‥‥実際には今年だけれど、そのバレンタイン以来、それなりに開けてきた薔薇の館。 前回のオーディション、もとい茶話会も手伝って、ある程度の垣根は取れてきたように思える。 とはいえ、未だに一般生徒が近寄りがたい場所であることは間違いない。 今の紅薔薇の蕾が花開くころには、もっと変わっているかもしれない。 彼女の無垢な笑顔を思い浮かべながら、私はそんなことを思った。 秋から冬へと変わりかけている、薔薇の館。 彼女たちは彼女たちで忙しいことは充分理解できるけれど、私の気持ちは抑えられなかった。 なにより、これから先どんな顔をして彼女と会えばいいのかわからない。 最悪の状況になっても、きっちりと清算だけはしておきたい。‥‥望むことじゃないけど。 薔薇の館、一階。 ノックをしても、返事が来ることは実は多くない。 なぜなら、ここに入り浸るような方々は、ほとんどいつも、二階のリビングにいるのだ。 私は控えめにノックをしてほんの少しの間だけ待ってから、ドアを開けた。 薔薇の館。 場違いな印象を与えられてしまう、不思議な空間。 私は、ごくりとつばを飲み込んで、足を踏み出した。 こんこん。 「‥‥‥‥はい」 二階のビスケット扉、と祐巳さんが形容したそれを叩くと、その向こうから返事が返ってくる。 しばらくの沈黙ののちだったので、おや、と思ったけれど、いきなりの訪問者だ、驚かない方がおかしいか。 少なくとも祐巳さんの声ではない。かといってこのまま帰るわけにもいかないので、私は意を決してドアを開いた。 「失礼します」 「どうぞ」 果たして。 そこにいたのは、高貴な一輪の赤色の薔薇。 艶やかな黒髪と深い緑の制服、その合間からもれる白い肌のコントラストがまぶしい。 これが。 これが紅薔薇、小笠原祥子。 「あら、あなたは‥‥」 紅茶のカップを片手に、彼女はこちらを見つめてちょこんと小首をかしげた。 幾度かお目通りしたことはあるから、覚えていてくれているのかもしれない。 「三奈子さんの」 「はい。山口真美です。姉がお世話になっております」 やはり、彼女たち山百合会にとって、築山三奈子はある種の鬼門なのだろう。 それにちょこちょことついて回っていた私を、築山三奈子の妹としてしか認識できなくても、それは仕方の無いことだ。 あの方は、いろんな意味で目立つから。 そんな風に、あの手のかかる愛すべき姉を思い出すと、私は不要な緊張から解き放たれた。 「新聞部のご用事?」 「いえ。プライベートです」 私といえば新聞部。それもまた仕方の無いことだろう。どれもこれも、お姉さまのせいだけど。 「祐巳はまだ来ていないわよ」 「‥‥の、ようですね」 ちらりと視線をまわしてみるけれど、誰の気配も感じられない。 キッチンのほうまでは見えないとはいえ、そこに誰かがいればわかるだろう。 一流の戦士やジャーナリストなら気配を消して潜んでいられるかもしれないけれど、こと祐巳さんに関してはそれは無理だ。断言できる。 「済みませんでした。出直します」 「何か相談事でも?」 「‥‥」 私は一瞬だけあっけにとられた。まさか祥子さまから話題を拾ってくるとは思わなかったからだ。 「え、ええ。そんなところです」 「ふうん」 祥子さまは目を細め、私を値踏みするように見つめながら紅茶のカップをあおる。 そして中身がなくなったことを確認するとそれをソーサーの上に戻して、ひざの上で両手を組んだ。 「私でよければ相談相手になるけれど」 「え」 なに? 今、何を言ったんだ、この人は? 私の呆然具合に、さすがの祥子さまも苦笑する。 「そんなに驚かなくてもいいじゃない。私も暇だったの。お話のお相手になって?」 「はあ‥‥」 「あ、紅茶がほしければご自分で用意なさってね」 「あ、いえ、結構です‥‥」 この辺はやっぱりいつもの祥子さまだ、と思う。 「しかし私は‥‥」 「まあいいから。案外、能天気な祐巳より私のほうが相談相手としてはふさわしいかもしれないじゃない」 そう言われると反論のしようもない。 祐巳さんは能天気に見えて意外と勘が強いし、判ってるように見えて何も判ってなかったりする。 話相手としては飽きないけれど、こちらから相談を持ちかけるにはなんとなく不安が残る相手だったりするのだ。 同じクラスの由乃さん‥‥あれはあれで、別の意味で却下だ。 「とにかくお座りなさい。お話は聞くから」 「はあ‥‥」 こんなとき、お姉さまならどうするだろう。 ‥‥そりゃ、喜び勇んで座るわな。 築山三奈子さまだもんね。 というわけで。 私も頭の中のお姉さまに倣って、祥子さまの正面の席に座る。 背中のほうにキッチンがあり、左手に窓が見える席だ。 「聞かせてくださるかしら?」 祥子さまが微笑む。 不思議だった。 綺麗な薔薇には棘がある、とよく言うけれど、それならば小笠原祥子さまは、とんでもなく美しい代わりにとんでもない量の棘が生えている最強の薔薇なんだな、と思ったことがあった。 そんな彼女が祐巳さんを選んだという事実もかなり疑問点だったし(失礼だけど)、私が三奈子さまに付いていった先で祥子さまの見せる人間味あふれる表情にイメージとのギャップを感じることもあった。 けれど今のこれは、それまでのどれとも違う。 どこまでも穏やかで優しげで、まるでそう、マリア様のようだ。 私はいつの間にか、祐巳さんに相談する予定だった話を祥子さまにしてしまっていた。 「あの、祥子さま」 「なに?」 「私、妹がいるんです」 「そうね、私にもいるわ」 祥子さまは微笑んだまま頷く。 「妹って、とても大切な存在ですよね」 「そうね」 不必要なことは言わない。必要かもしれないけれど言わない。黙って先を促してくれる祥子さまに好感を抱いた。 「でも私、好きな人がいるんです」 「大切な人?」 「はい」 頷く。頷いた先にある自分の手が震えていた。 「とても大切な人です」 「判るわ」 それが、同情やその場しのぎなんかじゃない、ということが、私にはなんとなくだけど確実に認識できた。 それはもしかしたら、同じような悩みを抱える者同士だけが感じあえる、独特の感覚なのかもしれなかった。 「妹は好きなんです。でも、彼女はもっと好きなんです」 「それは同級生かしら」 「‥‥」 震える両手を重ねて。 懺悔をするように。 頷いた。 「同級生です」 「そう」 しばらく、沈黙が空気を支配する。 永遠とも感じられるその空白のあと、やがて祥子さまが口を開いた。 「私もね、同じ悩みを抱えていたわ」 「え」 顔を上げる。 苦笑する祥子さまの顔がそこにはあった。 「妹がなにより大切。それは変わらないはずなの。でも、同級生は、妹よりも長く、自分と一緒にいる。どちらを取るなんて、できない」 どこか悟ったように言う彼女に。 私は、理解できた気がした。 どうして私が、祥子さまなんて人にこんな話をする気になったのか。 どうして祥子さまが、私に向けてそんな笑顔を浮かべてくれたのか。 それはきっと、祥子さまにとって、私が、昔の自分を見ているようだったから。 逆に言えば、今の私は、祥子さまがかつて通ってきた道だということだ。 それが、私にはすごく素直に純粋に、納得できていた。 「どっちか、なんて、悩む必要はないんじゃない?」 祥子さまが笑む。祐巳さんが惚れてしまうのも納得できるような、非の打ち所のない。 「どちらも好き。誰も好き。お姉さまも妹も同級生も。順番なんてつけなくても、どれもが一番。それでいいじゃない」 この瞬間、私は確信した。 薔薇の館に来て、よかったと。 「そんな贅沢な生き方ができるのは、きっとリリアンにいる間だけだもの。満喫しないと」 そんな無邪気な笑い方ができる人だったなんて。 私は感動すら覚えた。 彼女の笑顔と、彼女の言葉と、彼女の過去と、彼女の現在と、そして彼女のすべてに。 これが紅色の薔薇。 これが小笠原祥子さま‥‥。 「ね、真美さん」 「はい、祥子さま」 満ち足りた。 そんな思いで、胸がいっぱいだった。 * 「ありがとうございます」 「お役に立てたかしら?」 言いながら笑う祥子さまに、私も笑顔だけを返す。 言わなくても判ってくれる。今の私にとって、貴女と話せたということが、どれだけの力になったことか。 だからもう一度。 もう一度だけ、私はお礼を言った。 「ありがとうございました、紅薔薇さま」 「どういたしまして」 「では、失礼します」 「あ、待って。真美さん」 きびすを返してビスケット扉に手をかけた私に、祥子さまが声をかけてくる。 なんでしょう、と振り向いた私に、彼女は椅子から立ち上がり、正面から私を見つめて、言った。 「お幸せにね」 「‥‥はい」 祥子さまも。 心の中でそう呟いて、私は扉を開いた。 * 「一人前に講釈なんかしちゃって」 苦笑と疲れの入り混じった声が、立ったままの祥子へと投げられた。 「いないふりするのも楽じゃないや」 キッチンの暗がりから姿を現した令は、じっと自分を見つめている祥子に歩み寄る。 「一人前ですって? 私はきちんと経験と論理に基づいて助言をしただけよ」 「はいはい」 首を回し、肩を回しながら令は生返事する。ずいぶんと長い間縮こまっていたらしい。 「それにしても、ふうん‥‥」 「なに」 にやにやといやらしい笑みを浮かべる令を、祥子は強くにらみつけた。 それも慣れっこになっているらしく、軽く受け流しつつ令は笑った。 「誰もが一番。贅沢がいい。なるほどね。そう思ってたわけだ、祥子は」 「なによ‥‥」 「いやいや。別に」 令の手が、祥子の肩に回る。 どちらも長身だが令のほうが祥子より更に高いので、必然的に祥子からは、下から見上げる構図になる。 「ぐだぐだと喋るより、具体例を見せ付けてあげたほうがよかったんじゃないかな、って」 「冗談を言わないで」 令の腕をするりと抜けて、祥子は令の正面に、向かい合うようにして立つ。 「今のでわかったでしょう。これからまた誰が来るとも限らないのよ。こんなところで」 「あんなところで中断されて満足なの?」 言葉をさえぎられた祥子が、ぐ、と詰まる。 令の笑顔は「してやったり」。江利子さま譲りの策士っぽい表情だ。 もっともこの場合は、令が強いというよりも祥子が弱いというだけなのだが。 「そういうわけだからさ、祥子」 令が一歩前に出る。思わず引き下がろうとした祥子は、思い直して顎を引き、令を睨みあげる。 「なにかしら」 「そんな怖い顔しないで」 予備動作なしに、いきなり令の顔が接近してきた。 声を上げることも体を反応させることもできず、唇を奪われる。 「続き、しよ」 ぼそりと耳元に響くハスキーな声に、祥子は抵抗する気力を失った。 * 「おや、そこにおわすは新聞部長」 声と同時に、ぱしゃりという機械音。 中庭のベンチに一人座っていた私を覗き込む、その眼鏡の少女。 「たそがれてた?」 「ま、そんなとこ」 断りもなしに隣に腰掛けてくる彼女に苦笑しながら、私は天を仰いだ。 秋の空。もう一時間もしないうちに、オレンジ色に染まるだろう。 「いい天気だねえ」 私のことを何も聞かないで、ぼんやりと私と同じように空を見上げる彼女。 私は大きく息を吸い、目を瞑り、口の中で「よし」と呟く。 そして目を開き、隣の彼女に向き直る。 「ねえ、蔦子さん」 「?」 眼鏡の奥の瞳が私を捉えるのを待ってから、私は意を決し。 「聞いてほしい話があるの」 一世一代の、大勝負。 |